後生畏るべし。いずくんぞ来者の今にしかざるを知らんや。四十、五十にして聞こゆることなくんば、これまた畏るるに足らざるのみ。(子罕)
後輩をあなどってはならない。後から来たものが、今いるものを追い越していかんとも限らないのだ。もっとも、四十、五十になって、まだ何もしないようでは、畏れるには足らないが。
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ネタのないときには、なんだかやりたくなってしまう、論語です。どうにも好きなので。また何回か続くかな。ちょっと説教臭いのは、がまんしてくださいね♪
最近、俺はだめなんだ、まだちっこいからと、若いもののボヤキを聞かされることが多いので、これを取り上げてみました。
後から来たもの、生まれたものにとっては、自分より先に学び始めて、強く大きくなっている者の存在が、まぶしく映るものです。どんなにがんばっても、先輩には追いつけない。がんばって、何とか一つ遣り終えた、と思っても、先輩はまたずっと先に進んでいる。先輩のやっていることを見ると、今自分のやっていることが、幼稚で、ちっぽけで、つまらないものに思えてしまう。
ここで、自分が一番すごいのがいいっていう「子供病」を発症してしまうと、何もかもくだらないといって、学ぶことを一切やめてしまい、一生、ずるくまわって人を押しのけながら、自分を何とかして生きていこうとするものに、成り下がってしまうのですが。
最近は、こういう人がけっこう多いです。傲慢にエゴイスティックな自論を押し出すのがカッコイイと思っている。あいまいなことば、どうとでもとれることばを駆使して、もっともらしい理屈をくみ上げ、へえ、そうなのかな?という感じで人を煙にまくのがうまい。相当に、それらしいものを、なんとかするのはうまいのですが、真実、それはやらなければならない、ということからは、巧みに逃げる。
要するに、まだそこまで勉強が進んでいないのに、かっこよくやろうとするからなのですが。
これは、子供の時代を卒業して、本格的に勉強を始めたときに、だれもがかかりそうになる病気です。何もかも自分が中心だった子供の世界から一歩出ると、そこには自分よりすごい、強い人がいっぱいいる。自分が、とてつもなくちっぽけな弱いものに思えて、たまらなくなる。
さてさて、そこで、どうやって人は、勉強を続けていくべきか。何を頼りに、未熟な自分に耐えてゆくべきか。
これは先輩が、後輩を励ますときによく使う理屈なのですが、「後から来たもののほうが、いいことがいっぱいあるんだよ」と。どんどん時代は進んでいくから、後から来たものは、より幼い段階で高度なものを吸収できる。つまりは、だいぶ、出来上がった段階で、勉強を始めることができる。
人類はどんどん進化していくから。ちょっとしたことにぶつかって、勉強を一切やめてしまうのは、絶対に、惜しいよ。
家電だって、後からできた製品のほうが、機能もデザインも優れていますしね。
たとえ今は、何をしても先輩にはかなわないとしても、絶対に自分は、先輩とは違うのだという、自分の「何か」を信じ続ける人は、生涯学び続ける中で、高い壁を乗り越えるときがくる。自分の「真実」をつかむときがくる。
自分とは、こういうものだったのかと。それはかつて、自らの未熟な嫉妬に苦しんだ、先輩とは絶対に違うものなのだ。
勉強は、やってみたほうがいい。神様が創ってくれた自分に、いったいどんな機能があるのかは、実際に勉強して、やってみないことには、わからないから。
君は、ちっぽけなつまらないものじゃないんだよ。まだ、若いだけ。すべてはこれからなのだ。どこにもないだれにもない唯一の創造である君をやるのは、君しかいないのだ。
とにかく、やってみんさい。