君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。(子路)
君子は全体の和を重んじるが、自分の意見はちゃんと持っている。小人はやたらと人の意見に賛同するが、芯から和しているわけではない。
*
前にも取り上げたことがあるような気がするんですが。今日はちょっと違った視点から見てみたいです。
孔子の生きていた昔と違って、君子と小人の差は、少なくなってきているような気がします。特に先進諸国においては、そう大きな差はない。小人的生き方をしている人でも、大事なところのスイッチをひねれば、自分も君子的に生きられることを、どことなくわかっている人が多い。
小人的生き方をしている人も、なぜ自分が同じて和さないか、わかっているのです。
それは、小人的なことをしている自分をいやだと感じているから。
いわゆる「自分のない人」は、自分が弱くつまらないものだと思っていますから、自分を守るために、多数の意見に賛同したがり、強い方につきたがる。だから、ちょっとでも相手を弱いと見ると、攻撃し、全体の和を乱してしまうということがある。昔なら、この自分の弱さに気づかなかったでしょうが、今は、中学生でもこのことを知っています。わからないのは、よっぽど、幼い人だけです。
「自分が一番」でないといやだという「子供病」の人は、どこにでもいますが、結局は、自分がまだ勉強不足で未熟だという事実がいやなのです。弱いから、社会が怖い。自分以外の人間がみんな自分より強く、すばらしいものに見える。だから、怖くて、逃げてしまう。
それは要するに、自分は弱くてつまらないものだと、自分で決めてしまったということで、それがまた、自分がいやになる原因となり、ますます、逃げてしまう。そうして、人は、「すべてはつまらないものだ。生きていく価値なんか誰にもないんだ」という虚無感にまみれて生きるようになり、すべてのものを、陰湿に攻撃するようになるのです。それによって、「自分が一番」になろうとするのです。虚無感を武器に「自分が一番」になれば、怖いものはない、と思う。みんな自分よりバカだからです。
こういう人は、みんなが和して何かをやっていくということを、邪魔したがります。どこかでまぜっかえして、すべてをだめにしてしまう。そして、みんなバカだ、にしてしまうのです。いわゆる、「困ったちゃん」という人ですね。
しかし、「自分が一番」というのは、実際には君子的生き方をしている人も、同じなのです。自分にとっては、自分が一番なのです。この自分を、なんとかしていくために、あらゆることをやっていく。未熟な自分を少しでも強くするために、学んでいく。それはやはり、「自分が一番」だからです。
君子が和すのは、みんな、だれもが、「自分が一番」なのだと、わかっているからです。だから、みんなの「自分」を尊重する。大切にする。それぞれの意見の中に、大切な自分の声があることを知っている。それが、それぞれにみんなちがって、みんな美しいということがわかっている。
「君も君なのか、おれもおれなんだよ」て感じでね。これが、愛の響き、というやつです。自分が自分であることの幸福、つらさ、苦しさ、それはだれもみんな同じなんだということを、君子は知っている。だから、愛する。
この、「自分が一番」のスイッチを、軽くひねれば、すぐにも君子になれる人が、けっこういますよ。今は。