「うわっと」竪琴弾きは、思わず、足元の石につまずき、倒れそうになりました。「おっと、いけない。これは嫌な予感がするぞ。今からこれでは、先が思いやられる」竪琴弾きは、ふらついた体を立て直しつつ、すぐそばにあった木の幹につかまって、ふうとため息をつきました。「…やれやれ、あと何分くらいかな。どうしてこう、ぼくの担当する人には、変わった人が多いのか。とにかく、これ以上深く落ちないように、準備はしておかないと」竪琴弾きは、少し困ったように眉を寄せて、空の月を見上げました。「今度こそ、まじめにやってくれると思ってたんだけどなあ…。どうして、女性ってのは…。いや、そんなことを言ってはいけない。とにかく、やるべきことをやらねば」
竪琴弾きは、暗い森の中を進み、一本の白い枯れ木が立っているところまで来ました。そしてそこで、竪琴をびんと鳴らし、一息旋律を奏でて、その枯れ木の周りに、蜘蛛の巣のような透明な網をはりました。小さな悲鳴が聞こえたのは、そのすぐ後でした。
「いやあ!」見ると、白い枯れ木のすぐそばに、それはきれいなひとりの女性が落ちてきて、竪琴弾きの張った網にひっかかって、もがいているのです。竪琴弾きは、ほっと息をついて、言いました。
「やあ、ひさしぶり。今度の人生は三十四年でしたね。あなたにしては、短い方だ」すると女性は、網にからみついた自分の金色の髪をひっぱりながら、いまいましそうに言いました。「なんでこんなとこに網があるのよ!迷惑だわ。早くなんとかしてよ!そこのひと、どうにかできないの!」すると竪琴弾きは、悲しそうに笑いつつ、言いました。
「まだわかってないんですか?あなたは死んだのですよ。交通事故で、一か月ほどこん睡状態に落ちていたんですが、とうとうさっき、死んでしまったんです。思い出してください。ぼくのこと、覚えてないですか」
すると、女性ははっと、目を見開いて、竪琴弾きの顔をまじまじと見つめ、「あ」と言いました。「思い出したわ。そう言えばあんた、いつもあたしにお説教ばかりする、あのいやなやつじゃないの」それを聞いた竪琴弾きは、思わずはっはっと笑い声をあげて、天を見上げました。どうして、ぼくの担当する人には、こう…。
「とにかく、この網を何とかしてちょうだい、わたしの金髪がからみついてとれないのよ。足もだわ。もう、いいかげんにしてよ。どうしたらいいの、これ」
「あまり動かないでください。よけいからみつきますから。しばらく、その姿勢のまま話しましょう。言っておきますが、その網がなければ、ちょっとあなたは困ったことになるんです。とにかく、落ち着いて」
竪琴弾きが言うと、女性は、ぎろりと目をむいて彼をにらみ、いかにも気に入らないという風に、フン、と鼻を鳴らしました。その女性は、ほぼ欠点はないと言っていいほどの、完璧な美貌の持ち主でした。金色の髪は波打ちながら長くたれ下がり、肌は象牙のように白く、瞳はサファイアのようでした。古代ギリシャの女神の像の中に、確かこんなのがあったなという感じの、それはきれいな女性だったのです。
「さてと」竪琴弾きは言いながら、竪琴を鳴らし、手元に書類を呼び寄せました。「…ええ、毎度のことですが、またあなたは、あの怪と取引しましたね。もうほとんど、馴染みといっていいくらいだ。生まれる前に、何度も念を押されたと思うんですが、怪と契約して、美しい女性に姿を変えてもらうのは、とんでもない愚かなことなんですよ。美人に生まれれば、なんでもうまくいくというものではないんです。その証拠に、あなたは三度も結婚に失敗してる。一度目は、たちのよくない男に騙されて、辛い目にあったでしょう」
「…ああ、あいつ?ほんとね。金持ちでいい男だと思ったら、とんでもないやつだったわ。景気の良いことばっかり言って、みんな嘘だったの。借金だらけよ。結婚したとたんに倒産。すぐに離婚したわ。あたしはきれいだから、男には不自由しないもの。もっといい男はほかにもいるし」
竪琴弾きはまた、はは、と笑いながら、横を向きました。どうしてこう…と自分に言いながら、また深いため息をつきました。
「あのですねえ。前のときにも、同じことを言いましたが、…本当に、困ったな。あなたはいつもそうやって、怪と契約して、美しい女性に変えてもらって、それで人生を得しようとして、失敗してるんですよ。なぜ、わからないのかな。いつもいつも、結局は、美人なのを鼻にかけて、結婚に失敗して、子供を不幸にしたあげく、最後にはみんなに見捨てられて孤独になって死んでいる。美しいからって、なんでも思い通りになるってわけじゃないんですよ。困ったな、もう」
竪琴弾きは言いましたが、女性は全く耳を貸していないようでした。自分の髪と足をもつれた網から取り出すのに熱中していたからです。髪の毛がひとふさ、網にちぎられてしまいましたが、ようやく、女性は、網から全身を解き放つことができて、安心してふうと息をつくと、それはそれは優雅に手足を伸ばして美しいポーズをとりながら、小首を傾げてつやをつくり、竪琴弾きを見つめました。竪琴弾きは、まいったなと言うような顔をして、顔を背けました。
「どう?今度のあたし、きれいでしょ。あの怪に良い仕事してもらったわ。前のときは、ちょっと足が太くて短かったのが、気に入らなかったの。その前は、目がちょっと丸すぎて、唇が薄すぎたわ。だけど、今度は足をすらりと長くしてもらったの。顔もスタイルも完璧。どこにもケチのつけようがないわ。みんなあたしを見て、驚いてたわ。あんな人がいるのねって。どう言ったらいいの?みんなうらやましくてしょうがないのね。あたしみたいにきれいになりたくても、なれないものねえ」
竪琴弾きはしばし何も言えず、うつむいていました。これはもうどうしたらいいのか、竪琴弾きにもわかりませんでした。何を言ってもむだなような気がしましたが、とにかく、言うべきことは、言わなければなりません。それが彼の仕事だからです。
「…あの、です、ね」竪琴弾きは、うつむいたまま、言いました。「確かに、美しいですが、その、つまり、ですね。それはね、すごく、おかしいですよ…。どう言ったら、いいのか。つまりですねえ。…ほぼ、欠点が、ないでしょ?まるで、型で押したみたいに、美人の定型から全く、外れていませんね。それね、それが、欠点なんですよ。つまりですね、とんでもない、馬鹿なんです。あのですねえ、きれいと、いうのはね、欠点があるから、きれいなんですよ。それ、わからないかなあ…」
竪琴弾きが苦しそうに言うことばに、女性は網の上で、目を歪め、またフンと鼻を鳴らしました。男が自分に色目を使って、お世辞の一つも言わないことが、気にいらなかったのです。女性は、面倒くさそうに網の上に寝そべりつつ、あーあと声をあげながら、長くてきれいな自分の足を伸ばして、しばしそれをうっとりと眺めました。
「…最近の、傾向ですね」竪琴弾きは言いながら、地面の上に腰を落とし、竪琴を鳴らしました。「人間はみな、本来の自分というものが苦しい。理想的な自分と言うものになりたがる。それは要するに、欠点のない完璧な自分と言うものです。完璧だから、だれにも文句は言われない。傷つくこともない。人間は、自分というものがつらいから、どうしても人を馬鹿にして傷つけあう。それがいやだから、誰にも文句を言われたくなくて、傷つきたくなくて、なんと言いますか、そんな風に、どこにも欠点がないような、ほんとに完璧な美人になりたがるんですね。でも、それは、本当は、愚かなことなんです。人は、人によって違いますから。美しさも、人によって違うんですよ。少し目が細かったり、鼻が丸かったり、口が大きかったり…、でもそれだからこそ、美しく見える、それが、美しいということなんです。つまりはね、その欠点があるからこそ、その人らしくて、美しい。それが美しさというもので。なんて言ったらいいのか、つまりは、全く欠点がないというのは、実はとても愚かな欠点なのです。なぜって、欠点がないなんて、あり得ないから。人はそれぞれ、違うのが当たり前だから…」
竪琴弾きは、言葉を慎重に選びながら、苦しそうに言いました。しかし女性は、彼の言うことなどには全く耳を貸さず、自慢の長い金髪を、うっとりと指でくしといていました。竪琴弾きはその様子を、悲しげに見ていました。竪琴弾きの目には、その美しい女性の、本来の姿が見えていたのです。その姿は、金髪に象牙の肌をした完璧に近い美女とはかけ離れた、小柄で、赤茶色の髪の、少し平べったい鼻をした、どこにでもいそうな平凡な女性でした。
しかし、竪琴弾きには、その本来の姿の方が、よほどかわいらしく思えました。けれども、この女性は、その本来の自分が、大嫌いなのです。だから、毎度のこと、いつも同じ怪と契約して、美人にしてもらって、なんとかそれで人生の幸福を得ようとして、いつも失敗しているのです。偽物の美は、長続きしませんから。年をとれば、若い時に優しさも思いやりも何も勉強してこなかった心が、表に現れてきて、かえって、普通の人より、醜くなってしまうものなのです。美女の黄昏とは、たいてい、そういうものでした。
結局は、年をとって醜くなっても、若くて美しかったときのプライドを捨てることができず、皆に辛く当ってしまい、人に嫌われて、見捨てられ、孤独に死んでしまう。そういう人生ばかりを、この女性は繰り返していました。竪琴弾きも、何度同じことを言ったかしれません。本来のあなたの方がよっぽど美しいと。けれども彼女は、決して改めはしませんでした。
「…まあ、とにかく、今度の人生は、早く終わった分、幸せというものですか」竪琴弾きはため息とともに言いました。そして、絶望的な目をして、竪琴の弦をなぞりました。竪琴は、かすかな吐息のような音をもらして、悲しみを表現しました。まったくどうしたらいいものだろう?竪琴弾きは考えましたが、悲しみばかりが頭の中に重い霧のように漂い、もう何を言う気にもなれませんでした。女性は、長い金髪を自慢そうになでながら、見下げるような目で、竪琴弾きをじろじろと見ました。それは彼を男として品定めしているかのような目でした。竪琴弾きはそれを感じて、一層悲しく思いました。これ以上どうしたらいいのかと思うと、うつむいたままため息も凍りつきました。
「ここ、ちょっと寒いわ。ほかにどこかにいいところはないの?家とか、店とか、劇場とか。…そう、思い出したわ。あたし、芝居を観にいく途中だったのよ、彼の車で。欲しいものは何でももらえるし、なんでもしてもらえるのよ、美人なら。ねえ、あなたも、どこかいいところに連れてってよ」女性は言いました。そして体を起こし、網の上から、降りようとしました。そのとき、竪琴弾きは、「あっ!」と声をあげました。
「いけません!今、網から下りては!!」
しかし、竪琴弾きがそう言ったときには、遅かったのです。女性が、網から下りて、地面に足を落としたとたん、その美しかった姿は霧のようにはぎ取られ、そこに赤茶けた髪の小さな女の姿が現れたかと思うと、彼女の足もとに黒い穴がぽっかりと空き、そのまま彼女はその穴に吸い込まれ、消えて行ったのです。竪琴弾きは、かすかに、女の無残な悲鳴を風の中に聞いたような気がしました。
「ああ、もう、ぎりぎりだったんですよ。先に言っておくべきだった。怪と契約しすぎたんです。ここで、あなたが悔い改めなかったら、もう、怪に全てを奪われ、落ちるところまで落ちるしかなかったんですよ…」
竪琴弾きは、彼女が消えていった黒い穴に向かって言いました。竪琴弾きには、彼女がどこまで落ちて行ったのかが見えませんでした。それは、男が、見てはいけないところだったからです。それを見たら、女性が、憐れすぎるからです。
「ほんとうのあなたの方が、よほど、愛らしくて、美しかったのに」竪琴弾きは、ほおに涙のすじをひきながら言いました。目の前で、黒い穴が、月の光が影を消すように、消えていきました。
あとは、彼女の落ちて行った地獄の管理人にまかすより、ほかはありません。竪琴弾きは、胸に重い鉛を感じながら、立ち上がりました。そして、竪琴の魔法で網を消し、そこから立ち去ろうと歩き始めました。
いつしか、雨が降り始めていました。ああ、お月さまが、ぼくの涙を隠してくれようとしているのだな。竪琴弾きは、月の愛に甘え、声を飲み込みつつも、手で顔を覆い、とめどもなく頬に涙を流しました。深い吐息が、胸の中の痛い鉛の中に、ことんと落ちました。