黒い直線で碁盤模様を描いた四角い板を挟んで、黄色い服を着た月の世の役人と、水色の服を着た日照界の役人が、花の駒をあやつって少々面白いゲームに興じていました。そこは日照界にある、広い緑の草原の中で、彼らは、草原の真ん中に、それぞれあぐらをかいて座り、碁盤の上に駒を打ちながら、何かを話し合っていました。
「主人公、という言葉は、ありますねえ」月の世の役人が言いました。すると、日照界の役人は、あごに手をあてて、碁盤の上を見つめながら、言いました。「ああ、禅語にありますね。要するに、本当の自分自身と言う意味だ。…ええと、こういきましょう」日照界の役人は、手の中にある、大根の花の模様の入った白い駒を、碁盤の上におきました。すると、月の世の役人が、あ、と声をあげました。「おお、そこにいかれたか。ちょっと参ったな」月の世の役人は、口をすぼめて少し考えた後、手の中にある、菜の花の模様をした黄色い駒を、碁盤の上におきました。すると今度は、日照界の役人が難しい顔をして、考え込みました。
「ううむ、こういけば、ああいって、けれども、あっちに打てば、こういかれると…」日照界の役人が少々長考に入ったので、月の世の役人は腕を組んで碁盤を見つめながら、言いました。「…上部のお考えでは、とにかく、地球の仏教界に新風を起こすために、人材を選んでおけということなのです。で、こちらの方では、一応目をつけている人はいるんですが」「おお、月の世にもいますか。人材が」「ええ、かなり学んでいる人なんですが、ある人生で、少々裏でずるいことをして自らの出世をはかったために、その宗派がとんでもないことになったので、今は、こちらの地獄で、石のお地蔵様を背負って毎日山道を登り下りしています」月の世の役人が言うと、日照界の役人が、ふと目を光らせて、大根の花の駒を、ぱちんと碁盤に打ちました。すると月の世の役人が、うっと声を飲みました。「おや、そういう手があったか…」
月の世の役人は碁盤をじっとにらみつつ、顎をなでました。日照界の役人は言いました。「仏教の過ちを何とか是正するために、人間が何もやって来なかったわけじゃない。名僧と言われる人の業績の中には、確かな愛が光っているものがある。しかし何にせよ、仏教は様々なことを難解なことにしすぎる。悟りという言葉が、はてしない高みにある、絶対神のごときものになってしまっていますから。経に曰く、人間の絆を捨て、天界の絆を超え、全ての絆をはなれた人、彼をわたしはバラモンと呼ぶ」「…そうですねえ。仏はたくさんいますが、釈尊は、まさにはるかなる唯一神のごときだ」「釈尊も、苦い思いを抱いていらっしゃることでしょう」「…よし、これでどうだ!」
月の世の役人が、菜の花の駒を、ぱちんと、碁盤の真ん中ほどに打ちました。そのとたん、ぽん、と碁盤が音を立てて、碁盤の上が、まっ黄色な菜の花で埋もれました。日照界の役人が、「ああ!」と声をあげました。「いや、やられたな。そこにいかれたらおしまいだ」碁盤の上の菜の花は、誇らしげに金色に咲いて、風に揺れていました。胸に澄むような菜の花の香りが辺りに漂いました。
「ふう」どちらともなく、息をつくと、ふたりは声を合わせて小さく呪文を唱えました。すると、菜の花は碁盤の上から飛び出して、草原のあちこちに飛び散り、いつしか草原はどこまでも菜の花ばかりが続く金色の野原になりました。ところどころに、白い大根の花も見えました。
「いや、美しくなりましたな」月の世の役人が風景をうっとりと眺めながら言うと、日照界の役人もうなずきました。
太陽は午後二時の位置にあり、明るい空から、菜の花と大根の野を照らしていました。どこからか、白い蝶がやってきて、花の上を飛び交いました。雲雀の声が鈴の連なりのように上からちりちり落ちてきました。
「そちらの方はどうです。なかなかの人材はそろっているのではないですか?」月の世の役人が言うと、日照界の役人は答えました。「ええ、かなり。みな、苦労をして、何とか仏教に、愛と存在の真実の表現を、もっと自由で豊かな形で盛り込もうとしてきました。ですが、なかなかうまくいかなかったようだ。どうしても、根本的な誤謬を乗り越えることができない。常人にはまったく届くことのできない、釈尊の悟りの境地。無の境地というんですかね。問題はそこに大きな誤解があるということなんだが、なんというかな、最近ではそれが、妙な方向に行ってますね」「ええ。頭をからっぽにして、自分を馬鹿っぽくすれば、なんとなく悟りの境地の真似ができるという感覚だ」「まあ、無の境地と、馬鹿というのは、似ていなくもない。どちらも、何にもないという点では」「なんといいますかなあ。もうどんづまりという感じがしますね。ここから先はどこにも行くところがないというような」「ほんとうはもう、人間は空っぽなのかもしれない。まさにこれが、無の境地というものですかね」「…は、そりゃとんでもない皮肉だ」
二人は、金色の菜の花の原の真ん中で、雲雀の声を聞きながら、しばし語り合いました。日照界の役人は、ポケットから蛍石のカードを取り出すと、それをキーボードに変えて言いました。「データをそっちに移しますから、帳面を出してくれますか」日照界の役人が言うと、月の世の役人は手にふっと息をかけて、帳面を出しました。すると日照界の役人が、キーをポンと打ちました。すると、月の世の役人が持っている帳面が少し震え、中から青いかすかな光が漏れ見えました。月の世の役人が帳面を開くと、その中には、十数人の名前が、ちらちら光る青い文字で書いてありました。
「おや、なかなかの面々だ。おもしろい人もいますね。この人は仏教僧じゃありませんよ、商人だ。それも実に手広くやっている。仏教にかかわったことはあるが」
「ええ、しかし仏教僧というのは、仏教に関してなかなかに厳しい修行や学びをしてきた人が多いもので、そこにこだわって、どうしても、仏教の厚い枠を乗り越えるのが難しいものですから。少し、外側からの働きかけができる人間もいるのではないかと考えたのです。彼は頭もいいし、仏教的な教養も深い。しかも、かなり宗教的におおらかだ。まあ、商人ですから、異教徒とのつきあいもやらねばなりませんし。そこはまさに、『自在』というわけですな」
「ふむ、おもしろい」
「まあ、問題はです。今の時代、こういう人材が、まっすぐに育つことができない。高い勉強を積んだ人間ほど、まだ段階の浅い人間に嫉妬され、成長段階でつぶされて、本来ゆくべき道に進めなくなって、結局は、若い頃に死んでしまう」
「そこなんですな」
月の世の役人は、深いため息をつきながら、帳面を閉じました。
「そちらの人材はどうです?」日照界の役人が言うと、月の世の役人は言いました。「そうですね。彼は、罪を犯してしまった分、仏教界の影の部分に詳しいし、身の処し方がわかっている。そこをいい方向にもっていけば、何か面白いことができるかもしれません」
「なるほどね。今の時代、そういう人の方が、まだやれることがあるかもしれない。少々危ないことをするかもしれませんが、人間の愚かな部分に対する処し方を学んでいるのなら、それを活用して、なんとか物事をうまく運べるように持っていけるかもしれない。問題は、彼自身が、真実の道を踏み外さず、正しい目的を果たすことができるかどうかですが」
「ええ、彼はもう十分にわかっています、釈尊の本意を。やらせてみるのも、いいかもしれません。ちょっとした賭けにもなりますが。良い方向に持っていければ、彼の罪の浄化にもなる。しかし、失敗すれば、…もっと悪いことになる」
「ふうむ…」
日照界の役人は、菜の花の景色を見ながら、考えました。
「とにかく、上部のお考えは、人類に重要なことをやらせてほしいということなんですね。人類がやらなくてはだめだと。…もう時代は変わり始めている。いや、変わっている。そろそろ、地球上のあらゆる間違いをなんとかするために、人類も行動を始めるべきだと」
日照界の役人が言うと、月の世の役人が深くうなずきました。「それは、わたしもそう思う。人類にやらせなければなりません。もともと、釈尊の本意を誤解して、真実ではないことをたくさん世界に振りまいたのは人類なのですから。その根本的な間違いを、後世の人が何とか是正しようとしてきたものの、なかなかうまくいかなかった。それはやはり、人類がまだ幼く、自分と言うものの本来の姿がよく見えなかったからだ」
「しかし、もう人類もだいぶわかってきている。自分存在というものを」
「仏教の考え方に違和感を持つ人も、これから多く出てくるでしょうね」
「たぶん。しかし仏教は、文化としても人間の心を支える場としても、地球世界で大きな機能を持ってしまっている。問題は山積している、…という次元ではないな。だがとにかく、未来のために今打てる手は打っておかないと」
「花将棋と同じですな。まあ、わたしは、三手前から、勝負は見えてましたが」
「おや、そうですか?でも、一手前でわたしが二目横に打っていたら、勝負はわたしのものだった」
「負け犬の遠吠えはよしてください。終わった勝負です」
ふたりは声を合わせて、笑いました。
「鉢の子に菫たむぽぽこき混ぜて三世の仏に奉りてな」しばしの沈黙のあと、菜の花の原を見はらしながら、日照界の役人がつぶやくように言いました。雲雀の声が快く耳に落ちてきます。春の風がふたりの頬をくすぐりました。
「ああ、良寛ですね」月の世の役人が、気持ちよさそうに言いました。
「ええ、好きな歌なもので、覚えているんです。要するに、愛の神のためになんでもしたい、という彼なりの愛の表現だ。彼は彼なりに、愛が、わかっていた。自分というものが。だが、仏教世界で愛を表現するのは難しい。天上天下唯我独尊と言う言葉はありますがね」
「それも利己的な意味に変換してよく使われますね。真意は全く違うのだが。しかし、愛と言うことばはどこにも出てこない。『我』とは、すなわち愛のことだが、愛というほうが、人類にはわかりやすいし、暖かい。『我』すなわち愛という真実をわかるのには、まだ人類は若すぎた」
ふたりは同時に、ため息をつきました。日照界の役人が言いました。
「とにかく、ためしに、今回上がった人材に、何かをやらせてみましょう。今は難しい世の中に見えるが、時代は変わっている。彼らが活躍できる時代が来るかもしれない。いや、もう来ているのかもしれない」
「ええ、そうしてみましょう」
菜の花の原に、一息涼しい風が吹きました。二人は互いのデータを交わすと、今後の予定を組み立て、その素案を持って、立ち上がりました。月の世の役人が、碁盤を持ち上げて、それを折りたたみ、手元から消すと、菜の花の金色の原も、ゆっくりと風に溶けて消え、元の緑の草原の風景が戻ってきました。
「諸行無常か」月の世の役人が、消えていく菜の花を見ながら、少しおもしろげに言いました。日照界の役人が答えました。
「それも、本当は、間違ったことは長続きしないと解すべきですよ。この世にあるものは全て無に等しいと解する者が多いようですが。たしか論語にありましたね。不仁者はもって久しく約に処るべからず…」
「ええ、愛を知らない者は、何をやっても長続きしないという意味です」
「諸行無常が、この世はしょせん無に等しいものなのだから、何をやっても無駄だという意味にとられるなら、釈尊は悲しまれるでしょうな」
「まったく。…まあ、ともかくも、我々は、我々のやることを、やっていきましょう」
「ええ、愛とはただ、愛なるゆえに、常にすべてをやっていくというものですから」
やがてふたりは、互いに別れの挨拶を交わすと、それぞれの魔法を行い、草原から姿を消しました。雲雀の声が、空高く太陽の向こうに消えていきました。誰もいなくなった緑の草原の風には、しばし、ひとときの春の香りが、残っていました。