さて、月の世にある天の国には、遠蕗根(とほのふきね)と言う名の、職人が住んでおりました。彼は、天の国の一隅に、小さな工房を頂き、そこで、稲見雪(いなみのをゆき)と言う名の、女の職人と二人で、水晶の粒の光を種に、月光を集めて、清らかに白い兎の置物を作っておりました。
どうやって作るかと言いますと、まず、工房の庭で、まるい銀の鍋の中に集めた水晶の粒に、月光をあてて、ゆっくりと月光を集め、魔法をかけて、水晶と光を混ぜてやわらかい粘土のようなものにします。そして、その光る粘土に、少しだけ(この分量が真に難しいのですが)、白い蛾の鱗粉を混ぜますと、粘土は少し光をおさめて白くなり、まことによい香りを発するようになり、柔らかさもちょうどよくなって、職人の手に扱いやすくなります。その白い光の粘土をこねまして、何度か伸ばしたり、ちぢめたりを繰り返して行くと、風のように軽かった光の粘土に、少し重さが出てきてまいります。そうやって少し重くなった光の粘土を、掌に載るくらいの小さな玉に丸めたものを、いくつか作ります。そしてその玉に、いくつか切れ目をいれ、形を整えて、小さくも愛らしい長い耳や、かわいい目鼻をつくり、手足の形もまろまろとやさしく作ってやりますと、それはみごとな、今にもぴょんとはねていきそうな、白い兎の置物ができあがるのです。
とほのふきねも、いなみのをゆきも、それはすぐれた職人でありましたから、一晩でそれはたくさんの兎を作りました。そしてその兎は、できあがると、しばしのあいだ、庭にしいた簾の子の上に並べて干されました。そして兎は、月を新月から新月まで、あるいは望月から望月まで、あるいは、三日の月から、三日の月まで、ひとまわり浴びますと、いつの間にか、いなくなっておりました。兎は、いと高きお方からの愛を受けて、動き出し、その使いとして、月の世の地獄に苦しむ罪人を少しでも慰めるために、歌を歌いにゆくのです。兎がそれから、どんなことをするかと言いますと、たとえば、ある細い月の照らす地獄で、重い大きな石に縄をかけて、長い年月をその石を引っ張り続けている罪びとのところに、兎が行ったことがありました。兎は、ひょいと罪びとの肩に乗って、小さな声ではありますがそれはかわいらしい愛を歌いました。罪びとは、兎のあまりのかわいらしさに、心を溶かされて、頑なだった心がほどけ、つい涙を流しました。そして、涙があふれ出して、止まらなくなりました。兎は、石を引く罪びとの肩に、ずっととまっておりました。ずっと離れずにいました。罪びとは、そんな小さな兎をそれは愛して、かわいがりました。そして、とうとう、自分の罪が、わかりました。愛すべきだった人々を、深く傷つけてしまった自分の過ちに、気付きました。そして心から、神様や、皆に、あやまりたいと、思ったのです。そうやって、罪びとが、心から愛に目覚めた時、兎は使命を終えて、月の光の中に消えてゆくのでした。
とほのふきねと、いなみのをゆきは、長い長い間、こうして、この天の国で、たくさんの罪びとを助けるために、働いているのでした。
ある夜のことです。とほのふきねが、何かの予感を感じて、ふと、粘土をまるめていた手をとめました。すると、ななめまえの机で作業をしていた、いなみのをゆきも、ふと顔をあげ、立ち上がって、工房の窓を開け、風を入れました。
「おや、匂いがしますよ。どうやら、そろそろのようですねえ」と、いなみのをゆきがいいました。すると、とほのふきねも、窓辺のほうにやってきて、風の香りをかぎました。「ああ、ほんとうだ。なつかしい。もう何年たちますかねえ」「それほどには、なりませんよ。いまは、それはむずかしい時代ですから」「それでも、五十年にはなりますよ。あの人のことだ。どんなかっこうで帰ってきますやら」「ほほ、おもしろい方ではありますから」
そのとき、風に乗って、それは水晶のように透き通った声の、美しい歌が聞こえてきました。
「ああ、王様が、歌っていらっしゃる」いなみのをゆきがいいました。とほのふきねは、それを聞くと、一瞬、胸を震わせ、身を縮めました。そして目に涙を灯しながら、言いました。「いつも、なんと、お美しい声なのか。ああ、わたしたちは、幸せだ。王様が、いらっしゃる。そしていつも、美しく、まっすぐに、正しくていらっしゃる。その幸せが、なんと美しいのか。わたしたちに、それがわかるのが、ああ、ほんとうに、幸せです」「まことに、まことに、そのとおり」
ゆこう みちはきびしく つらく そしてながい
だがわたしはゆこう それがわたしの
だれにもはじぬ まことのみちならば
王様のお歌は、ふたりの胸の泉を、それは清らかに澄ませて、その奥に生きている金の魂をかすかにふるわせてゆくのです。そしてふたりも、思うのです。目を合わさずとも、言葉を交わさずとも、ふたりは互いの心が同じであることがわかりました。きっと自分もまた、どんな苦しみもいとわず、真の道を進んでいくだろうと。
そのときでした。工房の戸をとんとんとたたく音がしました。それに気づくやいなや、いなみのをゆきがあわてて戸口に走り、戸を開けました。するとそこに、何とも青ざめた顔をした、ひとりの痩せた男が立っておりました。まるで肩に重い荷を背負ってでもいるかのように、背を曲げて、かすかに苦しく細い息をしています。いなみのをゆきがあわてて、癒しの呪文をとなえ、その男の体を支えました。とほのふきねもかけよって、男にやさしいことばをかけながら、工房の中にいれ、彼をやわらかい座布団の上に座らせました。いなみのをゆきは、コップに月光水をためて、男の口元にもってゆき、それを飲ませました。
しばし時間が経ちました。男の顔が、少し血の気を取り戻してくると、ほっとしたように、とほのふきねがいいました。
「ああ、ずいぶんと心配しましたよ。まるであなたが瑠璃のように青かったものだから」すると男は、少し笑って言いました。「瑠璃とはまた、青すぎる。せめて、露草玉といってください」
帰ってきた男は、月光水を何杯か飲んで落ち着き、深くため息をつきました。彼の名は、柿種日(かきのたねび)と言い、とほのふきねたちと同じ、この工房で働く職人でした。
「このたびは、何年でございました?」いなみのをゆきが、たずねました。するとかきのたねびは、落ち着いた様子で笑いながらも、しばし黙し、微笑みは崩さぬまま、かすかに苦しみの色を瞳に見せ、言いました。「五十四年で、ございました。急な、病でして。心臓が苦しいと、思いましたら、もう何もわからなくなりました。気づいたら、病院にいて、しばらくはもったのですが、治療のすべもなく、七日ほどの苦しみの後、ここに帰ってきた次第です」
「このたびの人生は、いかがでした」とほのふきねが、たずねました。するとかきのたねびは、目を閉じ、しばらく、甘苦いものをじっくりと味わうような顔をして、ほう、と長い息をついてから、静かな声で、言いました。
「…むずかしいもので、ありました。生まれる前、なさねばならぬと思っていたことの、十分の一のことすら、できませんでした。わたしは、人生を八十九年も授かり、その時を使って、人間の世に、愛と恵みを持っていくはずでしたが、どんなに苦労をしても、世間の硬い壁を越えることができず、誰も真剣に相手をしてくれませんでした。心労と焦りが病を生んだのか、人生は五十四年で無念に終わりました。せめて、できたことは、小さな本を一冊書き、それを残してきただけです。生きていた頃、わかっていた限りの、真の愛の意味を、物語に変えて書いてきました。それも、人々が読んでくれる可能性は、低いと思います。わたしが生きて、人の世に残してきたものは、しばしの間、家族が形見として残してくれるだけでありましょう」
とほのふきねと、いなみのをゆきは、悲しそうな目をして、かきのたねびを見つめました。かきのたねびは、薄い悲哀の水に、しばし心を泳がせた後、ふと風に気づき、顔をあげました。
「おや、王様が」とほのふきねが言いました。
「まあ、ほんとうに、また歌っていらっしゃる」
「なんとおやさしい声だ」
ゆこう みちはきびしく つらく そしてながい
だがわたしはゆこう それがわたしの
だれにもはじぬ まことのみちならば
「まことの、みちならば」風を追うように、かきのたねびが、王様の歌を、繰り返して歌いました。すると、ほたほたと、涙が、かきのたねびの目から落ちました。
とほのふきねも、歌いました。いなみのをゆきも、歌いました。
まことの、まことの、道ならば……
三人は同じ悲哀の水を泳ぎながらも、心に薄絹をかぶるようなあたたかな幸福を味わいました。
「ほんとうに、くるしかった。でも、よい人生でした」かきのたねびが、言いました。
とほのふきねと、いなみのをゆきは、そんなかきのたねびをかこみ、ほほえみました。何も言わずとも、すべては、わかりました。
とほのふきねは、むかし、キリスト教徒として、人の世に生き、業病を患う人たちの村に住んで、彼らのために、一生をささげたことが、ありました。いなみのをゆきは、昔、仏教徒として、阿弥陀の救いを信じ、親を亡くした子ども、親に捨てられた子どもたちのために、一生をささげたことがありました。かきのたねびは、むかし、ある国の政治家として生き、国同士が憎み合って起こした戦争を止めるために、命を賭して活動をしたことがありました。みな、そうやって、真のために人生をささげてきた人たちでした。
月の世の、天の国には、そんな人が、多く住んでおります。たいていは、職人として、魔法の技を学び、様々な美しいものを作っては、深き罪を犯した人々のために、尽くしているのです。