世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-10-26 07:20:53 | 月の世の物語・天人楽

北斗だ。北斗が、見える。

はじめに什が気付いたのは、そのことだった。(おかしいな、今は昼間で、星は見えないはずだが)什はそう思いながら、起き上がろうとして、初めて、自分がいつの間にか公園の芝生の真ん中にあおむけに倒れているのに気付いた。そして、目は動くものの、体は倒れたまま、芝生に吸いついたように、微動だに動けないことにも。
(おや?どうしたのだろう?)彼はしばしの間、棒のようにかたまった自分の体の中で、少し心が焦ったが、すぐに落ち着きを取り戻した。何が起こったのかは、すぐにわかる予感がした。

体を芝生に預け、そのまま、あらためて空を見ると、そこは昼間の青ではなく、夜の闇だった。そのくせ、自分の周りにある公園の遊具や大きな楠の木や、公園のそばの田舎家は、明るく、はっきりと見えた。まるで、昼の風景から、空だけ夜に塗り替えたようだ。

(とにかく、わたしは、たおれたまま、動けない)と、什は妙に穏やかな気持ちで、自分に言った。(今頃の季節なら、昼間の北斗は、あそこらへんに見えるな。子どもの頃、よく星座盤をいじっていたことがあるから、何となくわかる)什は、倒れたまま、しばし足元の方の空高くに見える北斗七星を見つめていた。(やあ、ミザールのそばに、アルコルが見える。それも妙に、はっきりと見える。どうやら、わたしは、死んだかな?長生きできるとは、思っていなかったが)

什がそう思うと、少し深いため息が、すぐそばから聞こえた。そして、聞いたことのあるようなないような、不思議な声が、言った。
「死んではいませんよ。死ぬところでしたが、危ないところは、なんとかしました」
(なんとかした?)什は、そう心の中で言いながら、首を声のした方に回した。突然軽々と首が動いたことに、少々驚きながら。すると彼は、自分のそばに、灰色のセーターを着た外国人の若者が、片ひざをついて座っているのを見た。彼は少年のような美しい顔だちをしていて、金髪を短く刈り、瞳は青玉を砕いて光を混ぜたような、見たこともないほどきれいな青だった。
(やあ、きれいな人だ。青い目が、空よりも澄んでいる)
什が笑いながら心の中で言うと、青い目の若者は、悲しげに笑いつつ、口の中でかすかに何かをつぶやいたあと、「こるみ」と言った。すると什は、なぜかそれに引き込まれるように、「ほ、きり」と言った。そして不思議に、什には、その意味がわかったのだ。それはこういうことだった。

「天の君、思い出されませ」「ああ、今、思い出しました」「あなたは死んではいけないはずでしょう」「たしかに、そのとおり。まずいことをしました。死んでしまったかな?」「いいえ、助かります。死にかけてはいますが、ある方法で何とかなります。その方法は…」「いわずともかまいません、わかっています」「おやりになりますか」「ほかになにがありますか」「しかしそうなると」「わかっています。わたしも人も、だいぶ痛い思いをする。しかし、できることです。このようなことを経験するのは初めてではありません」

什は、自分の肉体を離れてゆっくりと起き上がり、立ちあがった。そして、地面に横たわっている、自分の肉体を見た。「あぃき」と什は目を細めながら言った。…自分をこうして見るのは、ひさしぶりです。この肉体は、生まれる前のわたしとよく似ている。
目を閉じて横たわったまま動かない自分は、白く細い顔をしていた。短髪があまり似会わない。目を覚ましたら、髪を伸ばそうと、何となく什は思った。その什に青い目の若者は焦るように言った。
「なぇ」…ゆっくりとしていることはできません。あなたが死んでは困るのです。「ふみ」…心配することはありません。すべてはわかっています。

什は、肉体から離れたまま、ゆっくりと周りを見回し、そこにいる花や木たちの霊を見た。植物たちは何やら眩しげな顔で什を見つめていた。ああ、なじみの顔がわかると、什は思った。什が植物に興味を持ち、彼らに声をかけるようになったのは、ここ数年のことだ。学校を卒業して会社勤めを始めてからのことだった。彼は、社会に出て、初めて、自分が嘘を全くつけない人間だと気付き、この世で生きて行くことがとても難しい人間だと気付いた。そんな彼にとって、時には苦い嘘もつかねばならない会社の仕事は、とても苦しかった。それでも、無理に会社に通ったが、やはり職場になじむことができず、友人もできず、何気ない人の言葉に、心に刺を刺されるような苦しみを味わい続けなければならなかった。その苦しみを、詩を書いたり、植物に癒しを求めることで、何とかしていたのだが、それも追いつかなかった。心は傷の重みでどんどん重くなり、彼の心臓を傷めていった。そしてついに、彼は職場でやってはならないことをやり、それを理由に解雇されたのだ。

上司は彼に頭ごなしに言った。「この能無しめ!永遠にこの世からいなくなれ!」

その言葉は、瞬時に、什の心臓を砕いた。彼はその時死んだ。本当に、死んでしまった。だが、生きていた。口は勝手に動き、申し訳ありませんと言って、彼は上司に頭を下げて、会社を出て行った。彼が何をやったのか?説明するのもおかしいが、要するに、彼は、取引相手に対する愛に勝てなかったのだ。弱い者を、切り捨てることが、どうしてもできなかった。それが、会社の不利益につながることでも、どうしてもできなかった。それだけだった。

言葉は人を殺すこともできる、ということは真実だが、什のような生き物には、それは即死につながることがある。言葉だけで、心臓がとまることがある。什は死んでいた。だが生きていた。彼は最初の職場を解雇されてから、人の勧めで何度か職場を変えて仕事をしたが、どれも長続きはしなかった。どうしても、嘘をつくことができず、そして他人の嘘には簡単に引っ掛かり、罠に落ちた。人々はそんな彼を、影から陰湿に嘲笑った。どれくらいの月日を苦しんだのか。彼はとうとう、自分の内部がガラスのように砕けて崩壊して行くのを感じ、今日、本当に死を考えながら、ふらふらとこの公園まで来たのだった。

「をる」と、什は昔のことを思い出しながら言った。…あのときから、わたしのかわりにわたしを生きていてくれたのは、あなたですね。若者は答えた。「いてぃ」…そうです。あなたはもう死んでいました。わたしがかわりをやることで、心臓機能を守り、生命を保存しておりました。まだ肉体は生きています。「とみ」…神に感謝します。人類は助かる。「る」…おはやく。

什は若者を振り向き、まぶしく明るい不思議な笑いを見せた。それを見た若者は思わず目を伏せ、頭を下げた。什は彼に向かってにっこりとうなずき、人間の言葉で言った。
「ありがとう。感謝します。あなたのおかげで助かります。これからわたしは、わたしの段階を、自らあげます」
「はい」若者は静かに答えた。

什は空を見た。北斗が輝いている。ミザールのそばに、アルコルが寄り添っているのが、はっきりと見える。什は言った。「あの星のように、あなたはいつもわたしのそばにいるのですね」若者は早口で答えた。「天の君、それは真実ではありません。ここから見れば、あれらの星は夫婦のようによりそって見えますが、実際は、もっとはるかにはなれている」「そんなことは知っています。無粋をせずとも、夫婦でよいではありませんか。あなたはわたしの妻ですか、夫ですか」「では、妻の方に」若者は答えたが、心は火にあぶられるように焦っていた。早くしないと、本当に肉体が死んでしまう。「天の君、お願いたします」若者は頭を下げて、たまらずに言った。什は笑いながら、うなずいた。そして前を見ると、自らの肉体を見下ろしつつ、口の中で水晶玉を転がすような不思議な歌を歌った。それは、愛ゆえに、わたしであるがゆえに、今、わたしは、わたしを捨てます、と言う意味の、深い謎の呪文だった。

瞬間、什の姿が、金髪の若者には見えなくなった。一瞬、世界がぐらついた。暗い奈落の深みに引き込まれるようなめまいを、彼は共鳴としてともに感じた。戦慄の悲鳴が世界をガラスのように割ったような気がした。静寂が大気を重い砂にし、それが肺に詰まるかのように苦しかった。若者は、暗闇の壁の向こうに、絶望が大きな穴を開けているような恐怖を感じた。だが彼は口に苦い呪文をふくんでその惨い冷たさに耐えた。

その頃什は、どこかの暗闇の、深い奈落の底へとまっさかさまに落ちていた。どれだけ落ちても、底につかず、永遠に落ち続けるのではないかと思った。だが什にはわかっていた。奈落に落ちたことなど何度もあったからだ。彼は闇の中で自ら光を放ち、それに虹色に反射する自分の壁を見つけた。よし、あれが底だ、と思った。そして彼は、奈落に見つけた自分の底に指で触れた。氷が指の皮に吸いつくような痛みを感じたが、彼は迷わず、片腕だけで、簡単にそれを突き破った。音もなく、白い光が視界を埋めた。全身を砕くような痛みは一瞬だった。什は悲鳴も上げなかった。そして什は、いかにも楽々と門を抜け、古い自分の殻を脱ぎ、新たなものとなって、すぐに奈落から戻ってきた。

什の姿が、再び若者の目に見えた。長い時がかかったと思われたが、それはほんの数分のことだった。若者の目に、新しい什の姿が見えた。それを見た時、若者は、あまりの現実に、息を飲んだ。

新しい什は、何も言わぬまま、ゆっくりと自分の肉体に戻っていった。

風が吹いた。金髪青眼の聖者は、しばしの時を待った。やがて、公園の芝生に横たわった肉体の指が、かすかに動いたかと思うと、それはふと目を開けた。そして彼は、二、三度まばたきをしたかと思うと、ゆっくりと半身を起こし、小さなくしゃみをした。

「なんだ?眠っていたのか?こんなとこで」肉体に戻った什が、周りを見回しながら言った。もう、肉体を離れていた間あったことは、すっかり忘れていた。金髪青眼の聖者はほっと胸をなでおろした。

什は立ち上がり、空を見た。もちろん、もうそこは昼間の青空になっていた。星など見えるはずはないのに、什は何となく、北斗のことを思い出し、ミザール、ということばが、胸に蘇った。(ああ、なにか詩が浮かびそうだな。ミザール、アルコル、アルカイド、フェクダ…)

什はそのまま何にも気づくことなく、聖者に背を向けて、静かに公園を出て行った。聖者は密かにその後を追ったが、涙をこらえることができなかった。もはや、ここまでいかねば、できないことだったのか!

何が、あったのか?説明をするのも無粋だが。什は、死んだのだ。本当に、死んでしまったのだ。生きているあの什は、もはや元の什ではなかった。この生涯を終え、天の国に戻ったとしても、もう二度と、あの王に出会うことはできない。同じ人ではあるが、もう、あの美しい王と、同じ王ではないのだ、あの人は。彼は、生きるために、無理に愛の段階を上げ、それまでの自分を殺し、全く新しい自分として再生せねばならなかったのだ。そうでなければ、生きることができなかった。

天の国の人々は、何を思うだろう。王の新しい瞳を見て、何を感じるだろう。悲嘆の涙を流している聖者とは反対に、什は何か不思議な幸福感に包まれていた。仕事をクビになったことも、人に騙されてひどく嗤われたことも、何でもないことのように思えた。何もかもを愛の中に抱きしめられるような気がした。澄みとおる風が胸の中を通ってゆく。愉悦に心がひよこのように転がっている。道端の花々に目を向けながら、什は、そう言えば、今日は朝から、死ぬことばかりを考えていたと、思い出した。それで公園に向かったのだった。薬のようなものももってなかったし、木に首をつるせるような長い紐も持っていなかったが、なぜかあそこにいけばすぐに死ねるような気がしていた。

「そうか、わたしは一度、死んだのだな」什は言った。聖者は彼の後を追いながら、「はい、そうです」と彼には聞こえぬ声で言った。だがその声は、かすかに什の胸に響いた。彼は「ミザール、そしてアルコル」と言った。そして突然、後ろを振り向いた。そこに、誰かがいるような気がしたのだ。什は、見えない者に向かって、笑った。その信じられない笑いに、まるで赤子のような、あるいは狂者を思わせるような、澄むにもほどがあるほど澄んだ愛に染まった笑いに、聖者は目を閉じた。もはや、生きているはずのないものが、生きていた。

篠崎什は、その日から一年、床屋に行かなかった。髪を女のように長く伸ばし、不思議な微笑みをしながら、働きもせず、町をよく散歩する姿を、人に見せるようになった。彼は毎日のように詩作にふけり、やがて詩集を一冊出した。その冒頭にあった詩はこういうものだった。

ミザール 
そして アルコル

ともにいよう しばしのあいだ
君は見えず 君はいない
けれども君はいつも 
わたしのそばにいて
わたしが生きるための
空気をつくってくれるのだ
知っているとも

光を編む 透き通った神の指が
ゆっくりと開く 空の絵本の中で
わたしたちは 出会える
君を愛している
ああ 愛している

ミザール
そして アルコル



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