事実上、かのじょの最後の作品となった絵である。これ以後の絵画表現には、すべてわたしがかかわっている。興味ある人は、見比べてみなさい。
この美しい詩人は、ジーザス・クライストの再来という設定だが、もちろん、これはどう考えても、かのじょ自身である。ジーザスはもっと明るく男性的だ。このしっとりと憂いを帯びた表情はかのじょのものである。
篠崎什の歩んだ人生もほぼ、かのじょと同じだった。世間に受け入れてもらえず、自閉者としてしか生きられなかった。ただ、什には、るみというかわいらしい恋人がいた。それだけで、彼の人生は明るい方へと導かれた。だがかのじょには、るみのように自分をまっすぐに愛してくれる人間は、いなかった。
なお、かのじょは、釈尊を描いたように、ジーザス・クライストの絵も何度となく描こうとしたのだが、成功しなかった。釈尊のときはうまくいったのだが、ジーザスとなると、裏側の見えない人間がさまざまに邪魔をするのである。よってかのじょには、どうしてもジーザスが描けなかった。
これ以後、わたしが、かのじょの代わりにジーザス・クライストの絵を描くことはあるかもしれない。だが、あまり気は進まない。
細いひとみ、細い鼻、うすい唇という、この特有の美貌には、実在のモデルがいる。それについては、後に語ろう。