何で、こんなところに向日葵なんて咲いているんだろう。
奥の四畳半の雨戸は、長いこと閉めっぱなしになっていたので、渾身の力をこめて押しても引いても根を生やしたように動かず、ぎちぎちと窓枠にしがみついていた。半時間も格闘して、ようやく戸袋におしこんだが、じっとり汗ばんだ額を拭って、ふと窓の外を見ると、突然ひょろ長い向日葵の花と目があって、フミは一瞬、虚をつかれたように驚いた。
「あれまあ、いつの間に……」
真夏の太陽の下に咲き誇る、女王のような向日葵の花のイメージにはほど遠く、ほんの子供の手のひらほどの、ちんまりと小さな花は、申し訳なさそうに少しうつむいて、フミのいる部屋をおずおずとのぞいている。
「あの時からだから……、やれやれ、もう三か月以上も、ここを開けなかったことになるのか」
フミは指折り数えながら、自分自身の変貌ぶりに驚き、少しあきれた。確か、五月の終わりの頃だったろうか。日勤の仕事を終えて、家で簡単な夕食をとっていた時、突然、空が落ちてくるかのような雷鳴が響いた日があり、カミナリがこの世で何よりも嫌いなフミは、あわてて家中の雨戸を閉めて回ったのだ。この奥の四畳半は、以前はフミの娘が使っていたのだが、娘が嫁に行ってからは物置部屋同様になっていて、つい面倒で雨戸をそのままにしておいた。一人暮らしになってからもう何年になるだろう。娘と一緒に暮らしていた頃は、窓の開け閉めにかぎらず、何事にも必要以上に神経質になっていたものだが。
「それにしてもアンタ。一体どこから来たんだい? あたしは種をまいた覚えなんてないだけどね」
フミは、どこからか迷い込んで来た猫にでも言うように、小さな向日葵にたずねた。この窓は北向きで、しかも裏のブロック塀がぎりぎりまでせまっていた。幅にして五十センチもない、コンクリートのような硬い地面に、向日葵は薄緑のひょろ長い茎を健気にさしこんでいる。
「おやぁ?」
フミは、網戸を動かそうとして、敷居の溝の隅に、白いトゲのような特有の形のゴミの塊がこびりついているのに気づいた。つまみあげてみると、それはどうやら向日葵の種のカラらしかった。
「……わぁかった。犯人はルリだね」
ルリというのは、二年ほど前からフミが飼っている、ルリゴシボタンインコの名前だった。ふだんは鳥籠の中に入れているが、フミが家にいる時は籠から出して家の中で放し飼いにしてやっている。セキセイなどとは違い、ボタンインコのクチバシはちょっとした凶器に近い。その鋭いクチバシで、古い木造家屋はあちこちをかじられ、柱も鴨居もルリの噛み跡がないところはなかった。この網戸にも、そのルリの作品らしい、親指ほどの穴が数か所空いている。そして向日葵の種はルリの好物というわけだ。たぶんルリの食べそこなった向日葵の種がこの穴から外に出て、それが芽をふいたのだろう。
ナゾときが終わると、フミは四畳半を出て居間の方に掃除機をとりに行った。休みの最初の一日は、家の掃除にあてることに決めていた。
「ルリ、もう少しそこにいるんだよ」
鳥籠の入り口をがちゃがちゃ鳴らしながら、外に出たそうにしているルリをたしなめ、フミは四畳半の畳に掃除機をかけにいった。
*
玄関の方で、郵便のバイクが停まる気配がしたのは、缶詰とノリだけの味気ない昼食を終えて間もなくのことだった。休みをとったとて、何もすることのないフミは、いそいそと玄関を出て、郵便受けの中を探った。中には保険会社がよこしたハガキが一枚と、白い封書が一通。真っ白な和紙の封筒の表書きに、下手な毛筆の文字で『小杉フミ様』とあった。差出人は『マツオカ』とだけ書いてある。
フミは眉間を寄せ、使用済みの鼻紙でも触るように、それをつまんだ。この白い手紙は、ここ十数年の間、二~三年おきに必ず届いていた。左上がりの特有のクセのある字が、妙ちきりんな虫のように紙の上を踊っている。年月を経て、虫は多少行儀よく列を乱さなくなったが、根本的には昔とそれほど変わってはいない。見ていると、今にもごそごそはい出してきそうで、せっかく忘れかけていた昔の傷にざわざわとたかりにこられるような気さえして、フミは寒気がした。
「ばかばかしい」とつぶやいて、いつものように破り捨てようとしたが、なぜか今日は手に力が入らない。
「雨戸にてこずったからかね」
めんどうになって、そこらの溝にでも捨てようかと思ったが、その前にいいことを思いついた。ルリのおもちゃにしてやればいい。その方が手間がはぶけるし、ルリのストレス解消にも役立つ。
家の中に戻ると、フミは台所のテーブルの上で新聞紙をかじっているルリの前に、それをおいた。フミの思惑どおり、ルリはすぐ白い封筒にかじりついた。
「おいしいかい? ルリ」
フミは、するどいクチバシで器用に紙を切り裂いて行くルリに声をかけると、居間の方に戻ってテレビのリモコンに手を伸ばした。
「やれやれ、休みの日に、一緒に遊びに行く友人すらもいないとはね」
フミはおもしろくもないテレビ番組を見ながら、自嘲的に、そんな思いをぶちぶちと言った。ルリを飼いはじめてから、特に独り言が増えたように思う。
「三十年間、バカみたいに働いてきた。日勤も夜勤も、男と同じくらいこなしてきた。それでも給料は、同期の男の半分さ。どうなってるんだろうねぇ、世の中は」
ルリががじがじと紙をかじる音が、フミの愚痴に伴奏のように寄り添う。
「おまけに、そうやって苦労して育てた娘は、嫁に行ったらナシのつぶてときたもんだ。もう何年も、顔も見せやしない」
画面の中で、カニのような顔をした漫才師が、子供のような背丈の相方の頭を、何度もこづいている。テレビからあふれ出す笑い声に、フミはお追従ぎみに、けらけらと笑ってみた。笑いながら、頭はどこか別の空間を泳いでいる。胸の破れ目から、何かがじりじりと漏れてるような気がして、みょうに落ち着かない。どこがおもしろいんだろうねぇ、こんなの。つぶやいた拍子に、砂ぶくろのような虚無感が不意に落ちてきて、まるでビニール人形のように、フミの体がひゅるひゅるとしぼんだ。
「……三十年だよ」
ため息とともに、フミはぼそりとつぶやいた。
「三十年、働いたんだよ。たった一人の娘に、恨まれてまで……仕事してきたんだよ……」
背をまるめ、荒れた自分の手の甲に向かって、フミはぶつぶつと吐いた。紙くずをくわえたルリが、かしゃかしゃと爪の音をたててテーブルの上を横切る音が、虚ろに響く。
フミの勤めている薬品会社は、最近の不況のせいで仕事が少なく、社員はみな代わる代わる休みをとるよう、半ば強制的に上部に言い渡されていた。フミも、何年ぶりかで有休をとり、十日あまりも仕事を休むことになった。盆や正月以外でこんなに長く休むのは初めてだ。景気のよかった頃は、まるまるひと月も、休みなしで働いたこともあった。残業も夜勤も厭わなかった。スーパーウーマンだなどと上司におだてられ二人分の仕事をおしつけられたって、難無くこなす体力もあった。
こめかみが熱くなり、なにかがのどの奥からこみあげてきた。涙腺に涙がたまりはじめたのがわかった。フミは顔をおおった。一人暮らしなのだから、泣いたって、だれもとがめやしない。そうは思っても、何かをはばかって、フミは嗚咽をあげたくなるのを、歯ぎしりをしてこらえた。だが涙だけはとめることはできなかった。
仕事しかなかった。仕事しか、自分の存在する意味はなかった。それなのに……。
五十歳以上の社員は、みんなリストラのリストに入っているといううわさもある。もしかしたらフミも、ひっかかるかも知れない。まだ五十にはぎりぎり届かないが、一人暮らしの中年女に、世間は何かにつけ、冷たいのだから。
気がつくと、テレビが終わっていた。オフタイマーにしてあるので、ある程度時間が経つと、テレビは自動的に消えるようになっている。時計を見ると、もう三時を過ぎていた。ずいぶん長いこと、ぼんやりとしていたものだ。今日は、家中を掃除しようと決めていたのに、まだ奥の四畳半と六畳の居間しかできていない。
コーヒーでもいれようと、フミは立ちあがった。じっとしているのはよくない。手があくと、よけいなことを考える。何事につけ、涙が出そうになるのは、あまり認めたくないけれど、年のせいもあるんだろうか。
コーヒーメーカーのスイッチを入れると、フミは戸棚を開けて、昨日買っておいたスナック菓子の袋を取り出した。と、突然、ルリが、ギギッ、と耳にささるような声をたてた。
「心配しなくても、ちゃんとあげるよ」
フミは、いらないチラシをテーブルの上に広げると、その上にスナック菓子をぱらぱらとおいてやった。ルリは、とことことテーブルの上を歩き、菓子をうれしそうにつついた。スズメなどの小鳥は、両足をそろえてちょんちょんと飛ぶように移動するものだが、ボタンインコはこうして足を交互に出して、人間の子供のようによちよち歩く。その様子が、なんともかわいらしく、フミは気にいっていた。
「あの子は、もういくつくらいになったろう……」
フミは菓子をほお張りながら、天井をみあげ、目を細めた。一度だけ、本当に一度だけ、フミは自分から娘を訪ねていったことがある。娘の住んでいる家の近くに、車を停めて、ばかみたいに何時間も待っていた。ようやく家から出て来た娘は、小さな赤ん坊を胸にかかえていた……。
「出産のお祝いを贈ろうと思って、いったんだよ。でも、とうとう、声をかけられなかった。結婚に反対して、最後はケンカ別れみたいにして、出て行ったからね……。でも、幸せそうで、よかった。あの娘は、きっと、あたしみたいな失敗はしないよ。けっこう、かしこい娘のようだもの……」
コーヒーメーカーが電子音でできあがりを知らせた。でもフミは、ぼんやりと思いにふけり続けた。自分とは違う人生を選んだ娘。あの娘は、多分、一生自分を許さないだろう。
*
連休二日目の朝、奥の部屋の窓を開けると、向日葵はまだそこに咲いていた。
「おはよ、向日葵ちゃん。元気にしてたかい」
フミはしばらく窓辺に寄り添い、向日葵をながめた。表の通りから、かすかに吹き込む風のためか、向日葵はうなずくように小さく花弁をゆらしている。
「あんたも、律儀に咲くことはなかったのにね。元々はインコのエサだったんだから。苦労して咲いても、こんなところじゃ、ろくな種はとれやしないよ」
バカダネ、と言おうとして、フミは、向日葵が急に下を向いて、しおれたような感じになったので、あわてて言葉をとりつくろった。
「あ、でもりっぱだよ。こんなとこで、ひとりで咲いたんだからね。水も肥ももらえなかったのにねぇ。りっぱなもんさ」
フミは、半ば、返事があることを期待しているかのように、向日葵の花をじっと見つめた。でも向日葵は、今度はみじんも動かなかった。風の具合だとは思ったが、フミは少し腹が立って、乱暴に網戸をしめ、部屋を出ていってしまった。反抗期の娘の、親をにらみ返してくる挑戦的な顔が脳裏をよぎり、フミはクモの巣をはらうように頭のまわりを手ではらった。ああいやだ。そんなこと思い出したくもない。
居間のカーテンを開けると、朝の日差しが差し込み、部屋の中から夜の気配をぬぐいとる。夜勤明けの朝、娘に絶対にカーテンをあけるなと言い渡して、眠ったのを思い出す。娘は一人で朝食をとり、一人で学校に出ていく。夕食のしたくも風呂のしたくも、あの子の仕事だった。家事のほとんどを、フミは娘におしつけていた。
ルリを籠から出し、朝食を作るために台所に行くと、テーブルの下に、黒いものが落ちているのに気がついた。何げなく拾ってみると、それはどうやらチラシのようだった。ふちに少しルリがかじった跡がある。黒っぽい単調な模様が一面に描かれてあるが、フミにはその模様が一体何なのか、しばし認識できなかった。わかったのは下の方に書いてある文字を読んでからだ。銀色のゴシック体の文字で、『小杉ユリオ版画展・流氷の海』と印刷されてある。
ああ、流氷か。フミは合点がいったようにひとりうなずいた。そういえばこの模様は、そんな感じだ。黒と白の単調な氷原が画面いっぱいに広がり、その真ん中ほどに、朱色の花芯をあらわにした一輪の花が、幻のように立っている。
じっと見ていると、何だか冷たい風に巻き込まれて、絵の中に吸い込まれていきそうな気がして、フミはチラシをさっと裏返した。絵なんて、そんなもの、わざわざ見に行く人の気が知れない。それにしても、小杉ユリオ? みょうな名前だけど、どこかできいたような……
フミは一瞬、首筋に氷を塗られるように、ぴりりと体を緊張させた。椅子をどけて、テーブルの下を見てみると、昨日ルリに渡したはずの白い封筒が落ちていた。封筒は長い方のへりを大方かじられてはいたけれど、まだほとんどは無傷のままだった。かじられた口からは、チラシと同じ黒い紙がはみだしている。フミは、汚いものに触れてしまったかのように声をあげて、チラシを投げ捨てた。
そのとき、突然、天井がぐらりと揺れた。あふあふと心臓がしぼむような動悸を感じて、フミは倒れるようにテーブルにつかまった。
(こすぎ? 小杉ユリオだって? 何を、ばかな……)
フミはあえぎながら、よろよろと床の上にくずおれた。目をとじても、脳みそが湯に溺れているようなめまいが、全身をめぐった。あふれてきた涙が、台所の床をぬらした。
*
小杉ユリは、フミの娘の名前だった。正確に言えば、結婚する前の名前。今は森下ユリになっている。
「何年、たったのかね……」
めまいがおさまっても、しばし床の上に寝転んだまま、フミはつぶやいた。
小杉ユリオ。どういうつもりだか知らないけれど、多分、娘の名前から、つけたのだろう。別れた男の名前なんて、思い出したくもないが、あいつの本名は、もっと普通の、どこにでもある平凡な名前だった。
めまいの残りが、額のあたりをぐるぐるまさぐっている。疲れているんだろうか。この頃は、あまりちゃんと食事をとっていないような気がする。目を閉じると、意識が遠い記憶の封印にひきずりこまれ、絞り出されるように、数々の断片が浮き上がってきた。
今思うと、フミが夫と別れた原因は、他愛のないことだった。若いものにはよくある、ちょっとしたよそ見。二流の芸術大学を出て、臨時教員をしながら画家を目指していた夫は、アスパラガスのようなやせっぽちだったけれど、どこか憎めない笑顔と愛嬌の持ち主だった。
浮気相手は、夫の大学の先輩だった。夫より三つも年上で、たいした美人じゃなかった。でも、高卒のフミに比べれば、まぶしいくらいの教養とセンスがあった。日ごろ、夫との知的な差にコンプレックスを感じていたフミは、夫が不義をしたということ自体より、その辺の方が気にさわったのかもしれない。
小さな地主の一人娘で、わがままいっぱいに育てられたフミは、自分から離婚を主張した。短気を起こすなと言う両親の忠告にも耳を貸さなかった。娘もまだ小さかったし、夫も謝ってはくれたけれど、フミは仕事をもっていたこともあって、躊躇はしなかった。
何かに驚いたのか、椅子の背もたれにとまっていたルリが、ばたばたと飛んで、隣の部屋に逃げていった。フミはゆっくりと身を起こし、乱れた髪をなでながら、ふらふらと立ち上がった。
まだ心臓がどきどきしていた。ルリを追って居間にもどると、まだかたづけていない布団の上に横になった。ルリは鏡台の上で羽づくろいをしながら、時々首をかしげて、不思議そうに飼い主の方を見下ろしている。
「後悔してるのかって、きくのかい?」
ルリの疑問に答えるつもりで、フミはつぶやき続けた。
「……そうさね。もし、今のあたしが、あのころの自分に説教できるのだったら、少し頭を冷やせって、言うかもしれないね……」
未練がなかったと言えば、嘘になる。後から思いを重ねなかったかと言えば、嘘になる。本当は、あんなにあっけなく、去っていってほしくなかった。もし、あのとき、彼が、もう一度、謝りにきてくれていたら……。そんな、あわあわとした期待のようなものが、いつも、自分の中に、潜んでいた。でも、男におもねるようなばかげた女になるなんて、誇りが許さなかった。裏切りは、罰せられるべきだと思っていた。娘を夫に渡さなかったのも、あるいはフミの夫への復讐だったかもしれない。夫は、だれよりも、娘のユリをかわいがっていたから……。
とにかく、あのころから、フミの人生は、どこかが狂い始めた。頼りにしていた両親が次々と病死し、フミは一人で娘を育てなくてはならなかった。両親は財産を残してくれたが、相続税や何やらで整理してみると、フミの手元に残ったのは、結局この小さな家と、いくらかの狭い土地だけだった。
気分が悪い。もう眠ろう。
フミは目を閉じた。頭の奥で、羽虫が震えるような頭痛がしたが、眠ってしまえば、何もかも忘れられる。たとえ、つかの間でも……。
(つづく)