月の世にも、月食はありました。それは、地球世界のような道理で起こるのではなく、地球の運航を助けている、ある見えない星の神が、月の神のもとを訪れることで、起こるのでした。
「少し欠けてきましたね」青年は、大きく焚きあげた月珠の篝火のそばで、かしこまりながら言いました。そこはある湖の上で、小さな船を湖面に流し、その上で、彼はひとりの聖者とともに、篝火を守っていました。
「そうだのう」聖者は船の上に立ち、月を見あげながら言いました。月の世での月食は、滅多に起こることではなく、以前に起きたとき、青年はまだ生まれておりませんでした。ですから、月の世にあるほとんどのものが、ここでの月食を見るのは初めてでした。
月光がなくなれば、多くの罪びとが狂い、闇の怪がうごめき、月の世の道理が大きく揺らぐ怖れがありました。そこで、月の役人も、聖者も総出で月の世に降り、あらゆるところで、大きな月珠の篝火を焚き、食の間、決して月光を絶やさないようにしておりました。
青年がともにいる聖者は、白い髭と髪を長くのばし、瞳は灰色で眼光は見るものを縛るように鋭く、薄光を放つ白く古めかしい衣服をまとい、微かにゆれる船の上、青年に背中を見せながら、微動だにせずに立っていました。一見すると老人のようでしたが、声は若々しく、それを聞いているだけで、みずみずしい力が胸に盛り上がるような気がしました。青年は本当にこんな方がいらっしゃるのかと、聖者のそばにかしこまりながら、静かな感動を覚えておりました。
「おお」聖者が声をあげました。見えない星の神は、月の神の前で激しくゆれうごき、一気に月を隠してしまいました。月はまるで爪のように細くなり、残った光もまるで少しずつ崩れていくように、だんだんと消えていきました。
と、聖者は何かの合図をするように、右手に持っている杖で船の底を、とん、と打ち、その音は空高くまっすぐに響きました。それとほとんど同時に、月の世のあちこちから、同じような音が聞こえてきました。そしてそれを合図にするように、月の世に降りている各地の聖者たちが、大きく笑い声をあげました。青年はびっくりして、思わず聖者を見上げました。
聖者たちは布袋のように呵々大笑し、それは美しい斉唱となって、空中に響き渡りました。笑い声は月の世をも満たし、つられて多くの人々も笑い始めました。青年も思わず笑っておりました。すると、胸の底から、たとえようもない歓喜の渦が生まれ出て、いっぺんに全身を満たしました。彼はなすすべもなく、すばらしい幸福感の中に一瞬我を失い、篝火の下にへたりこみました。涙が流れ、船底に滴り落ちました。月の世にいる人々も、ほとんどが笑いながら泣いておりました。耐えきれずに地に伏し、神よ、と喉を割って叫ぶ者がいました。
見えない星の神は、とうとう、月の光をすべて隠してしまいました。青年ははっとし、篝火を動かし、一層高く光を焚きあげました。月食の前から感じていた暗闇に対する恐怖も、歓喜の中に消えておりました。
聖者の笑い声は、いつしか歌に変わっていました。太鼓の音がどこからか聞こえ、単調なリズムを繰り返しました。歌は、長い呪文を繰り返し、それは聖者の口から出る一筋のゆらぐ光となって見えました。美しい月の神をほめたたえ、見えない星の神のお働きに感謝し、すべてのものは美しく、愛に満ち、幸福であることを、聖者たちは不思議な詩の言葉で歌いあげていました。
歌は、どれだけ長く続いたものか、ふと気がつくと、隠れた月の光が、微かに細く見えてきました。おお、と月の世全体がゆれるような声があがりました。
やがて、見えない星の神は去り、まるで新しく洗いあげたような白い月が、地を照らしました。青年は篝火を下ろし、その光を休め、ほっと息をつきました。歓喜の震えが、まだ体に残っていました。そのせいでしばらく動くことができず、青年が気付いたとき、もう聖者は姿を消しておりました。彼は、今までに感じたことのないような寂しさを感じました。
こうして、月の世は無事に月食を切り抜けることができました。闇に暴れ出す怪もほとんど無く、人々の心が、暗闇を恐れて狂うこともありませんでした。見上げると月があるのが、こんなにうれしいことだったのかと、人々はしばし、語り合いました。
「少し欠けてきましたね」青年は、大きく焚きあげた月珠の篝火のそばで、かしこまりながら言いました。そこはある湖の上で、小さな船を湖面に流し、その上で、彼はひとりの聖者とともに、篝火を守っていました。
「そうだのう」聖者は船の上に立ち、月を見あげながら言いました。月の世での月食は、滅多に起こることではなく、以前に起きたとき、青年はまだ生まれておりませんでした。ですから、月の世にあるほとんどのものが、ここでの月食を見るのは初めてでした。
月光がなくなれば、多くの罪びとが狂い、闇の怪がうごめき、月の世の道理が大きく揺らぐ怖れがありました。そこで、月の役人も、聖者も総出で月の世に降り、あらゆるところで、大きな月珠の篝火を焚き、食の間、決して月光を絶やさないようにしておりました。
青年がともにいる聖者は、白い髭と髪を長くのばし、瞳は灰色で眼光は見るものを縛るように鋭く、薄光を放つ白く古めかしい衣服をまとい、微かにゆれる船の上、青年に背中を見せながら、微動だにせずに立っていました。一見すると老人のようでしたが、声は若々しく、それを聞いているだけで、みずみずしい力が胸に盛り上がるような気がしました。青年は本当にこんな方がいらっしゃるのかと、聖者のそばにかしこまりながら、静かな感動を覚えておりました。
「おお」聖者が声をあげました。見えない星の神は、月の神の前で激しくゆれうごき、一気に月を隠してしまいました。月はまるで爪のように細くなり、残った光もまるで少しずつ崩れていくように、だんだんと消えていきました。
と、聖者は何かの合図をするように、右手に持っている杖で船の底を、とん、と打ち、その音は空高くまっすぐに響きました。それとほとんど同時に、月の世のあちこちから、同じような音が聞こえてきました。そしてそれを合図にするように、月の世に降りている各地の聖者たちが、大きく笑い声をあげました。青年はびっくりして、思わず聖者を見上げました。
聖者たちは布袋のように呵々大笑し、それは美しい斉唱となって、空中に響き渡りました。笑い声は月の世をも満たし、つられて多くの人々も笑い始めました。青年も思わず笑っておりました。すると、胸の底から、たとえようもない歓喜の渦が生まれ出て、いっぺんに全身を満たしました。彼はなすすべもなく、すばらしい幸福感の中に一瞬我を失い、篝火の下にへたりこみました。涙が流れ、船底に滴り落ちました。月の世にいる人々も、ほとんどが笑いながら泣いておりました。耐えきれずに地に伏し、神よ、と喉を割って叫ぶ者がいました。
見えない星の神は、とうとう、月の光をすべて隠してしまいました。青年ははっとし、篝火を動かし、一層高く光を焚きあげました。月食の前から感じていた暗闇に対する恐怖も、歓喜の中に消えておりました。
聖者の笑い声は、いつしか歌に変わっていました。太鼓の音がどこからか聞こえ、単調なリズムを繰り返しました。歌は、長い呪文を繰り返し、それは聖者の口から出る一筋のゆらぐ光となって見えました。美しい月の神をほめたたえ、見えない星の神のお働きに感謝し、すべてのものは美しく、愛に満ち、幸福であることを、聖者たちは不思議な詩の言葉で歌いあげていました。
歌は、どれだけ長く続いたものか、ふと気がつくと、隠れた月の光が、微かに細く見えてきました。おお、と月の世全体がゆれるような声があがりました。
やがて、見えない星の神は去り、まるで新しく洗いあげたような白い月が、地を照らしました。青年は篝火を下ろし、その光を休め、ほっと息をつきました。歓喜の震えが、まだ体に残っていました。そのせいでしばらく動くことができず、青年が気付いたとき、もう聖者は姿を消しておりました。彼は、今までに感じたことのないような寂しさを感じました。
こうして、月の世は無事に月食を切り抜けることができました。闇に暴れ出す怪もほとんど無く、人々の心が、暗闇を恐れて狂うこともありませんでした。見上げると月があるのが、こんなにうれしいことだったのかと、人々はしばし、語り合いました。