世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-04-01 07:31:27 | 月の世の物語・上部編

上部世界に、苦い邪の臭気を放つ、大きな暗い沼があった。そこは常に、黒い憎悪と怨念の熱に温められたぬるい泥の湯が、おおお…とうめきをあげながら、風もないのに、かすかに水面をゆらめかせていた。ときに、坊主のような灰色の大きな泡が、底の方から浮かび上がり、それは、しばし水面を漂ったかと思うと、おん、と言って、猛烈な臭気を放ち、弾け、消えた。それは、上部世界において、もっとも苦しいものを見ねばならぬところであった。ここを訪れる者はいつも、深い悲哀を、瞳に染めた。だれもが、来るたびに、「む」と言った。「もはや、これまでか」という、意味であった。だが、「ち」…いや、まだ…、と、だれかが、かすかな苦悶の声で答えるのだ。その声の主が誰であるのか、みな、知っていた。その苦しみの、どんなにつらいことか、はげしいことか、みな、知っていた。そして彼らは、そのかすかな声の主のために、何かをせずにはいられなくなり、心をかきたてられ、すぐにそこから姿を消し、聖者の姿となって、何らかの行動をとるために、上部から降りてゆくのだった。

今、ひとりの上部人が、その沼の水面上に片膝をついて座り、一つの、小さな薄紅色の炎を見つめていた。それは、一輪の、蓮の花であった。黒い腐臭を放つ汚れた沼の中で、その薄紅の蓮だけは、小さくも、清らかに、懸命に水の上に花を立てながら、かすかな歌を歌っていた。「つぁい」それを常に見ている上部人は、ため息のように言った。まだ、いける、という意味だった。まだ、助かる、という意味だった。彼は、あきらめては、いなかった。

この、黒い沼が、かつて、清らかにも青い瑪瑙の木に、無数の薄紅の蓮の花をつけた、巨大な大樹であったことは、今となっては、とても信じられないことであった。蓮は、人類の積み重ねてきた、苦くも醜い嘘を、ただ静かに見守りながら、何も言わずに見ていた。そして影から、静かな真実の石を、彼らの影に添え、彼らが、嘘の中に沈み、心凍えて死んでいくことから、助けてきた。蓮は、人類の嘘に、否と言えなかった。ただ、悲しく、目を細め、時に涙を流し、その憐れなことに、自ら苦しみながら、黙って、影から支えてゆくことしかできなかった。

「はぃ、ぬ」…なんという、忍耐の日々であろうか、蓮樹よ。蓮樹の管理人であるその上部人は、今、その大樹の中で、ただ一輪残った、蓮の花を見ながら、言った。涙をとめることは、できなかった。蓮は、今にも消えそうな蝋燭のともしびのように、かすかに風に揺れながらも、何とか耐え忍び、咲き続けた。時に、花弁がひとひら、命萎えた乙女のゆらりと倒れるように、はらりと落ちようとしたが、そのたび、蓮は、「の」…もう一度、と言って、花弁を再び立たせた。そんなことが、何度も、何度も、続いた。蓮は、咲き続けた。もう、自分の他には、蓮花はいなかったからだ。最後の蓮は、耐え続けた。耐えに、耐えに、耐え続けた。蓮樹の管理人は、涙をとめることができず、呪文で花に力を注ぎながら、神に祈り続けていた。「と、とぅい、とぅい…」…神よ、お助けを。今ひとたび、お助けを。あと、ひとたびだけ、お助けを。ああ、もうひとたび、お助けを…。

蓮は、咲き続けた。ああ!上部人が、あるとき、言った。とうとう、蓮の花弁の一枚がはらりと落ち、沼の中に、溶けていったからだ。管理人は、顔を歪め、唇を噛み、「んく」と言った。だめだったか、という意味だった。しかし、花はまだ咲いていた。花弁を一枚失いながらも、力弱くはあるが、確かに、歌を歌っていた。まだ、希望はあった。彼は、花を見つめ続けた。涙はとまらなかった。それは沼の中に落ちてゆき、一息、青い光となって沼の中に溶けて行った。それはしばし、魚のように、沼を泳ぎ、かすかな希望の光を一瞬、沼の奥に灯したかと思うと、すぐに闇に塗りこめられ、消えていった。

蓮花は、震えた。あまりにも、苦しい、と、あえいだ。管理人は、杖を揺らし、鈴のような音を鳴らすと、かすかにもささやくような、優しい声で愛の歌を歌い、花を、励まし続けた。そして、あらゆる悲哀の風から、その、ほんの小さな灯を、何とか守り続けた。今少し、今、少し、がんばってくれ…。「ふ、いゆ、まえ、とぅい」…神よ、蓮は、なんという、ことを、耐えねばならないのか。だが、花はそれでもいいという。この花は、それでも、いいという。神よ、なんという美しい花を、あなたはお創りになったのか。なんという悲しい花を、あなたは、お創りになったのか…。

管理人は、世界に、その一輪の蓮と自分以外には誰も存在しないかというように、ただただ、長い時を、蓮の前に佇み、愛の歌を歌い続けた。清らかな真実の言葉で、励まし続けた。蓮は、咲き続けた。ただ、ひとりだけで、長い長い時を、歌い続けた。そして、かすかな希望を、生み続けた。嘘を清め、人々の魂を支える希望の、ただ一つの光を、灯し続けた。それは地上世界に、確かな影響を、及ぼしていた。人々は、嘘の世界の裏に生きている、何か目に見えないものの気配が、常に自分を支え続けていることに、かすかながら、気付いていた。それが何なのかを、深く考えることは、滅多にしなかったが、彼らは、そのかすかなともしびを、心の奥で、信じ続けていた。それがこの、ただ一輪の蓮の歌であることを、人類が知るのは、はるかな、はるかな、未来のことであろう。

管理人は、愛の呪文を、やさしく歌い続けた。あなたは美しい、すばらしい、なんという清らかな希望なのかと、感嘆し続けた。花は、笑った。絶望にあえぐ、茎の痛みに耐えながら、笑った。「ぃ」…ありがとう、うれしい。と蓮は言った。そして、歌い続けた。何度も、何度も、繰り返し、かすかな声で、しかし、音韻を一つも外すことなく、確かな、正しい歌を、正しい音律で、歌い続けた。希望は、燃え続けた。

ああ! また、一枚の花弁が落ちた。管理人は目を閉じ、「ぬ」、と言った。…愚かな、なんと、愚かな。人類は、蓮の希望を、侮辱したのだ。なんと愚かな! 彼は叫びを飲み込み、こみあげる涙に言葉を震わせがらも、歌を歌い、蓮を励まし続けた。まだ、蓮は咲き続けていた。薄紅の光は、失われていなかった。

やがて、蓮は、ただ一枚の花弁を、残すのみとなった。歌は、まだ続いていた。灯は、今にも消えそうであったが、まだ、光を、残していた。その、一枚の花弁ですら、かすかな風にも、痛いといって、揺らめいた。だが、蓮は痛みに耐えた。最後の花弁を、支え続けた。「とぅい、ととぅい、とぅい…」神よ、お助けを。もうひとたび、もうひとたび、お助けを、お助けを…、管理人は祈った。そして、歌を歌い続けた。蓮は、希望を、歌い続けた。そして、光を、灯し続けた。「いゅる…」管理人は耐えられぬというように言った。いつまで、これが、続くのか、という意味だった。もはや、これまでなのか、という意味だった。

「をぅ…」かすかに、蓮が、ため息をついた。それと同時に、最後の花弁が、揺らめいた。そして、それが、力なく、黒い沼の水面に向かって、倒れようとした、そのときであった。

とん……

鋼の大地の、はるか、彼方から、清い、斉唱の歌が聞こえた。管理人は、思わずそこから立ち上がり、その歌の聞こえた方角に目を向けた。地平線の、はるか向こうに見える空を、清らかに白みがかった、薄紅の光が、照らしていた。

ゆ、という、神の声が聞こえた。「始まる」という意味であった。

管理人は、再び、蓮を見た。花弁はもうすでに落ち、小さな船のように、水面に浮かんでいた。蓮は言った。「し」…ああ、やっと、終わった…、と。

そして蓮は、沼の中に、よろよろと、溶けて、消えて行った。管理人は消えてゆく蓮の前にすがりつくようにひざまずいた。そして、涙して、言った。「ふぉう、る、もぇ」…蓮よ、あなたは、とうとう、やりとげた。耐え抜いた。なんという、つらい日々であったか。感謝する。最後まで、やりぬいてくれたことに、これ以上はないほどの感謝を、あなたに捧げる。

くぉん、という音が鳴り響き、世界に新しい風が吹くことを告げた。桜が、咲いたのだ。新しい時代が始まる。蓮樹の時代は、終わった。あの苦しくも、むなしい、虚偽の影の時代は、終わった。それはまだ、地上世界には、確かには、現れてはいないが、もう、時代は、すっかり、変わってしまったのだ。

管理人は立ち上がり、沼の中に、すっかり溶けてしまった、最後の蓮花の跡を、しばし見下ろした。彼女は、もうここにはいなかった。花の気配は、もうすっかり消えていた。あまりにも、苦しすぎたのだろう。使命が終わったと同時に、彼女は、帰って行ったのだ。彼女は、神の用意して下さった、柔らかな土のしとねの中に、たぶん、何千年もの間、小さな種となって、眠ることだろう。再び花咲く時がくることは、あるだろうが、それはよほど、未来のことであろう。彼女の疲れが癒えるまで、神は優しく、彼女を、やすらいの中に抱きしめることであろう。

ふと、風が、ひとひらの白い紋章を、彼の元に持ってきた。彼はそれを受け取り、それを読んだ。かすかに、人々の叫び声が聞こえた。
「ふ」…最初の風が吹いたか。彼は言った。桜樹システムは完成した。新しい時代の始まりとともに、地上に、ある人が、降りて行ったということが、その紋章に書いてあった。「ゆる、つ」…始まった。真実の鐘が地上に鳴り響く。しかしそれは、あらゆる嘘の沼に、大きな浄化の渦を起こすことになるだろう。

ほう…、彼はためいきとともに、周囲を見回した。美しき蓮樹のなれの果てである、黒い沼は、まだ泡を立て、臭気を放っていた。彼は目を歪めた。そして、高い声で、「ゑる!」と叫んだ。すると、それに呼応するかのように、何人かの上部人が、すぐにそこに姿を現した。

「のえ」「はり」「き、せ」「い」彼らは沼の上に顔を合わせ、しばし会話を交わした。そして、手はずを整えると、それぞれが沼の上の自分の位置に立ち、同時に、杖で沼の水面をたたき、こん、と高い音を鳴らした。すると、沼の上に、氷のように青い灯を焚く、何本かの青い欅が現れた。「ほぅ、み」誰かが言った。それを浄化せよ、という意味だった。それと同時に、欅の中に仮の魂が点った。

こん、こん、と、上部人たちは繰り返し杖で音を鳴らした。そのたびに、青い欅の木は増えていった。やがてそこに、一面を青い炎で埋め尽くされたような、静かな欅の森が現れた。沼は、欅の根元にまだあったが、かすかに変化は訪れた。欅は、沼の水を吸い上げ、それを清め始めていた。苦い時代の蓮の花の苦しみを、欅は味わった。なんと、美しい花だったのかと、欅も言った。たたえられずに、いられなかった。これを、なんと、表現するべきなのか。そのことばを、わたしはまだ、学んでいない。でも、自らに強いて言わせれば、かつてなき、かつてなき、あまりにも、すばらしい花であったとしか、言えなかった。蓮よ。感謝する。人類に代わり、あなたに、高い、感謝をささげる。欅は、言いながら、沼を、清め続けた。

やがて、空から、白い雪が、降り始めた。それを浴びて、欅は、青い炎を少しひかえ、その神の清めの中に自らを預けることにした。雪は、欅の森の中に忍び込み、その青の中に静かに染み込んでいった。雪は、氷ではなく、清らかな石英の光の粉であった。欅は、その雪の助力を受け、一層力強く、沼の水を吸い上げた。沼の水は清められ、だんだんと青くなっていった。上部人たちは、繰り返し、杖を鳴らし、歌を歌い続けた。

やがて、清めの儀式は終わった。いつしか、かつては沼であったそこに、白い石英の光と青い欅でできた、青白く燃える美しい森ができた。上部人たちは、森の隅に集まり、相談し合い、一つの魔法を、行なった。声を合わせ、呪文を、歌った。すると、森のあちこちに、薄紅の灯が、点った。それは少し、桃の実にも、似ていたが、色は、確かに、蓮の色であった。薄紅の灯は、青白い欅の森の中に、星のように灯り、あでやかにも、清らかな、幻想の図を描いた。沈黙のこもる、この浄化の森に、その幻の蓮の記憶は、おそらく、永遠に近い時を、点り続けることであろう。そして、人類がこれに気づくときまで、上部人たちは、この森と、蓮の記憶の灯を、守り続けることであろう。

沼の汚れをすっかり浄化するには、まだ時間がいるが、これですべては、終わったと同じだった。蓮樹の時代は、とうとう、終わった。

「りぃ!」ある上部人が言った。すばらしい、この上なく、美しい、と森の風景に感嘆したのだ。

彼らは神に感謝の祈りをささげた。ほう、と誰かが言って、杖を持たない方の手を舞うように揺らせ、手の中に、幻の、一輪の蓮の花を出した。蓮樹の管理人であった上部人は、それを懐かしそうに見つめ、悲しげに微笑んだ。なんという年月であったろう。苦しかったろう。蓮よ。彼は言った。「ふぃ、をみ」…眠れ。全てを忘れて、眠っておくれ。誰も、もう二度と、あなたを、苦しめはしない。

とん…と、また、遠くから、桜樹の声が聞こえた。それは、蓮への感謝の声だった。そうだ、桜もまた、耐えてゆくのだろう。そして、われわれもまた、これから、やってゆくのだろう。新しきことの、すべてを。

「ひ」人類よ、と彼は言う。「す、てぬ、ふ、くるぇ」…今は、何も知らなくてよい。蓮は何も求めはしない。だが、はるか未来、おまえたちがここに上がって来た時、この森を見て、何を、思うだろうか。かつての、苦しき闇の時代、一体誰が、自分たちを助けてくれていたのかを知って、おまえたちは、何を思うだろうか。

「ふ」と、上部人たちはいうと、管理人ひとりをそこに残して、消えて行った。管理人も、「ふ」と言って彼らに感謝し、見送った。彼はしばし、ここにとどまることにしていた。離れることは、まだできそうにも、なかった。あの、最後まで残った一輪の蓮が、忘れられなかった。

「とぅい、とぅい…」神よ、神よ、もうひとたび…、彼はささやいた。すると、森の上の空に、夢幻のように、巨大な薄紅の蓮の花が、浮かんだ。彼は、驚きとともに、それを見上げた。空の彼方から、からん、という澄んだ鈴の音が聞こえた。それとともに、かすかに、「す…」という神の声が聞こえた。蓮樹システムは、使命を完了した、という意味であった。管理人の目に、涙はまたあふれた。神はすべてをごらんになっていた。すべてを、認めて下さった。

蓮よ、おまえは、嘘に、否と言わなかった。ただそれだけで、人類を、助けた。あなたをたたえる。あなたを、この上なく、愛する。虚無の時代の希望はすべて、あなたが生んだのだ。

そして、桜樹の時代が、始まる。愛が、やってくる。水晶のように清くも硬い、真実の、愛が。人類はまだ、何も知りはしない、これから起こることを。…すべては、神の、御心のままに。

管理人は森の隅にたたずみ、ただ、蓮の幻を、それが風景の裏に隠れてゆくまで、見上げていた。


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