学校は、周りを楠の森に囲まれた、広い緑の庭でした。庭の隅には、街灯のような一本の高い月色灯が点っており、その下で、白い服を着たひとりの女性教師が立って、書物を開き、しばし不思議な音韻の呪文を歌っていました。
空には梅の種のような、ほんの少し欠けた月があり、薄藍の空に沈み込むようにかすかに青く染まった光を放っていました。庭のあちこちには、小さな水晶の結晶が、キノコのように生えており、それが月光を吸いこんで、月色灯とともに、緑の庭の教室を明るく照らしていました。
生徒たちは、教師を取り囲んで、自分の敷物を思い思いのところに置いて座り、しばし教師の呪文の歌に聴き浸っていました。
やがて教師は呪文を歌い終わると、生徒たちに語り始めました。生徒たちはみなそれぞれ、地球上で生きていたときの影を背負っており、表情にどこか歪みを見せ、ひざの上に肘をのせて面倒くさそうに斜めからこっちを見たり、目に強い反抗の色を見せながら、腕を組んで胸をそらしたり、馬鹿にするような目で女性教師の姿をなめるように見ていたりしていました。
教師は、石のように落ち着き払った静かな声で、生徒それぞれの名を呼びながら、それぞれにそれぞれの罪の意味を教えてゆきました。
「でも先生!」生徒の一人が声をあげました。それはモンゴロイド系の顔をした、少々頭の薄く禿げた黒髪の小男でした。
「それは、私がやったんじゃありません!裏から怪に操られたんです!」教師はその男の顔を見ると、静かな声で答えました。「ええ、そうですね。今地球上には、怪がたくさんいます。そして、人の人生を狂わせてやろうと、いつも狙っています。あなたの心には、いつも怪がささやいていました。憎い、憎い、ねたましい、ねたましい、と。でもあなたには、その声に反抗することもできたのです。結局は、あなた自身が、怪の言葉に屈して、それに従ってしまったのです。それを罪ではないとは決して言えません」
すると生徒は目をぎらつかせ、まだ何か文句を言いたげに、ぶつぶつと口の中で何かを繰り返していました。女性教師は、その生徒をしばし見つめると、右手で不思議な所作をし、天を指差して呪文を唱えました。すると、月色灯の上に、緑色に光る大きな紋章が現れました。それを見たとたん、生徒たちは一斉に緊張し、急いで姿勢を正して頭を下げました。中には指を組んで祈り始めるものもいました。
紋章は、月の世を導くある一柱の神の紋章でした。地球上では神を信じないという者も、ここにくれば誰もが神の前に頭を下げました。ここでは、実際に神の姿を見、その御業を見たことがない者はいないからでした。
教師もまた、その紋章に頭を下げ、深く感謝の言葉を述べると、また一定の儀礼の所作をして、紋章を消しました。生徒たちの間に、ほっとした空気が流れ、彼らはしばし呆然としながら互いの顔を見合わせました。ざわざわとし始めた生徒たちを、教師は鎮めると、さっきの小男を立たせ、自分の罪を述べるようにと、厳しく言いつけました。男は、苦しそうな顔をしながらも、仕方なく語り始めました。
「…はい。わたしは、会社で、ひとりの有能な部下に嫉妬し、彼の才能をつぶしました。それによって、彼は自分が地上で果たすはずだった仕事を果たすことができなくなり、結果的にそれは、多くの人を苦しめることになってしまいました」
「そうですね。あなたのしたことは、ごく簡単なことでした。ただ、その人のした仕事の、小さなところにケチをつけ、親切を装って余計な進言をしたのです。あなたは何度も繰り返し、そうやって彼を巧妙にいじめ続けました。そして、彼は自分の仕事全てをあなたに否定され、自分というものは馬鹿なものだと思いこまされてしまったのです。そして、本来やるはずだった仕事をすることが、できなくなってしまった。それは一見、たいしたこともないことのように思えましたが、実は大変なことだったのです。彼は使命を持っていました。地上に降りて学び、ある事業を興し、それによって、人類の罪の一部を浄化するという、大事な仕事をするはずでした。彼がそれをやれば、たくさんの人が、罪から解放され、生きるのがより楽になるはずでした。しかし彼がそれをやることができなかったため、いまだ人々はその罪の償いに苦しめられ続けているのです」
教師の言葉を聞きながら、男はうつむいて苦しそうにきょろきょろと目を動かしていました。いらだたしさが彼の足を妙な格好にねじらせていました。教師は男を座らせると、また続けました。
「このように、地球上には今、憎しみや妬み、孤独、悲哀、恐怖、さまざまな悪知恵を巧みな屁理屈に隠した偽善があふれています。地上で生きることはまことに苦しい。多くの人は、怪のささやきに負け、人生を失敗してしまいます。でも、中には、それに耐えて、何とか正しく道を歩もうと、あらゆる挑戦を続けている人もいます。彼らの存在が、地球上の生をかろうじて何とか支えているのだと言えましょう。では次の質問です、人類は、いつも、同じことが原因で、人生を失敗します。それは何ですか。答えてください」
教師は、庭の隅に座っている、きつい化粧をしたひとりの白人の老婆を指差しました。彼女は自分を何とか若く見せようと、少女のように髪を長くたらし、花模様の可憐な服を着ていました。老婆は答えました。「はい、それは、『NO』ということです」
「そう、そうです。NO、いやだ、きらい、だめだ。あるいは、『ちょっとそれはねえ』、『やめてよ、信じられない』、『馬鹿みたい、そんなこと』、『ほかにもっとちゃんとしたことはできないの?』、『まだそんなことやってるのね』…などなど、あなたはよく、自分の娘にそう言っていましたね」教師の言葉に、老婆は憎悪と嫉妬の混じった目で彼女をにらみながら、小さな声で震えながら答えました。「…はい、そのとおりです…」
老婆は、娘が自分より若く、愛らしく、未来と希望にあふれているというだけで嫉妬し、彼女の人生をずっと邪魔し続けました。娘はそんな母を憎み、やがてある男と結婚すると同時に、母親のいる実家には一切顔を見せなくなりました。そして母親が夫を失い、ただ一人残されて、病に落ちても、決して彼女に会おうとはしませんでした。結局彼女は、娘に見捨てられ、一人小さな家の隅で、娘を含めて世間の人皆を呪いながら、老い衰えて孤独に死んだのです。彼女の遺体が警察によって見つけられた時には、彼女はもう白骨に近い状態になっていました。
「人生の多くの失敗は、そう、『いやだ』と言ってしまうことが原因なのです。『おまえなど、いやだ』、『そんなことをするのは、いやだ』、『つらいのは、いやだ』…、人間はよくそう言います。そして全ての人を拒否して馬鹿にし、自分だけをいいものにしたがります。他人は馬鹿にして、自分だけが偉く、最もすぐれているのだと、思いたいのです。それはなぜでしょう。はい、次の人」
女性教師は、今度は別の、黒い眼鏡をかけた肩幅の広い褐色の男を指差しました。男は立ち上がり、それが法律だから仕方ないという感じの、事務的な言葉で返しました。
「はい、それは、人間がいつも、存在痛に苦しんでいるからです」
「そうですね。人類はいつも、存在痛に苦しんでいます。それは、この自分が、馬鹿で、必要のないものだと感じている、とても悲しい痛みです。怪はいつも、生きている者にささやき続けているのです。『おまえなど、いらない』、『おまえなど、馬鹿だ』、『はやく死んでしまえ』…。その声に心を侵された人々は、嘘の鎧で卑屈な自分の心を守り、巧妙な隠喩で他人を馬鹿にし、憎悪を隠して微笑み、皆と仲良くするふりをして、ひとりの部屋で胸の憎悪をぐつぐつと煮込みながら、誰かを罠にはめるための、巧みな知恵を編んでいるのです…」
教師は声のトーンを上げ、一息呪文を唱えて、その場に流れる不穏な空気を清めてから、続けました。「その地球上で正しく生きるためには、存在痛をなんとかしなければなりません。そして怪のささやきに負けぬため、愛を、しっかりと学び、それを実行する強さを身につけねばなりません。愛こそが、存在痛を癒すただひとつのものです。全ての不幸は、人が、人を馬鹿にすることから始まります。それは愛ではありません。人の存在を、丸ごと否定することなのです。真実の幸福は、人が人を愛することから始まります。みなさんに問います。愛を、知っていますか?」すると生徒たちは一斉に、「知っています」と答えました。教師は言いました。「では、愛を、実行することを、あなたたちはできますか?」すると生徒たちはざわめき、ため息をつき、あるいは顔をそむけ、あるいは下を向いて自分の膝をたたくなどして、それぞれの気持ちを表しました。彼らにとって、愛は、とんでもないものでした。地球上でそれをやれば、一斉に怪に襲われて、人生の全てを壊され、悲劇的な死に追いやられてしまう恐れがあるからです。ですから常に、外見は愛を装いながら、他人よりも賢く立ち回り、自分の人生だけを何とかうまく運ぶことが、一番大事だと考えるのが、彼らの当たり前になっていました。
教師は別に驚きもせず、その様子を静かに見守っていました。彼らの中のためらいや憎悪や不安やさまざまにうごめく暗い気持が、その場の空気を痛め、それが一斉に教師に対する嫉妬へと燃え上がり、ハエのように集合して群衆の暗黒に変化していくのを、月光や水晶の光が密かにさまたげ、静寂の中に散らしていきました。
そのとき、月色灯が、鈴のような音を歌い鳴らし、授業が終わったことを告げました。生徒たちの中に、ほっとゆるんだ空気が生まれ、彼らは肩の力を抜いて互いの顔を見あい、苦い歪んだ笑いを見せました。
「では、今日はここまで。次の授業は七日後です。必ず皆、ここに集まってください。来ない方は罪になります。わかっていますね」教師が言うと、生徒たちは一斉に、はいと答え、教師の合図を待ってその場から立ち上がり、敷物を持って次々と姿を消してゆきました。緑の庭に、生徒の姿がなくなると、教師はひとり月色灯の下で、ふっと息を落とし、右手で魔法をして白い碗を出すと、月光を汲んでそれに白い粉薬を混ぜ、一息に飲み干しました。
ああ、今日も終わったわ。薬を飲んで、生徒たちから浴びていた汚れを清めると、彼女は月を見上げながら誰にいうともなくつぶやきました。すると、楠の樹霊のひとりが、彼女に声をかけ、ねぎらいました。
「いつも大変ですね、先生」女性教師はその声に振り向き、笑顔を見せながら言いました。
「仕事ですもの。大変だなんて言ってはいられないわ。罪びとはいつも、形だけは立派に答えて、なかなか本当の進歩を見せてはくれないけれど、こうして繰り返しやっているうちに、何とか真実に導いていけるのではないかと、そう思ってやっているの」
すると楠の樹霊は、少し悲しげな目で彼女を見つめ、「…はるかな道ですねえ」と、慰めとも皮肉ともとれぬ言葉を言いました。女性教師はただ黙って、笑っていました。
やがて女性教師は、手に持っていた白い碗を消すと、薄藍の空に浮かぶ月や、常に生徒たちを照らし、励まし続けてくれていた水晶たちに礼をし、神に感謝の祈りをささげ、自分も少し休むために、そこから姿を消しました。
だれもいなくなった緑の庭の学校では、かすかに青い月光が、神さまだけが知っている本当の未来の秘密を言いたげに、小人のようにくすくすと笑いながら水晶の中に忍び込み、次の授業のための準備をし始めました。