青い鳥船は、一人の聖者と、二十数人の青年を載せて、衛星のように、地球を回っていました。鳥船の内部には、各種の知能器や観測機などが装備され、青年たちが、常に地球の様子を観測しながら、知能器のキーボードを打ったり、観測機の画面をのぞきながら、さまざまなデータを記録したり、地上にいる聖者様や青年、少年たちから送られてくる情報の暗号を解読したり、たまに、何らかの事故で傷が生じた水晶球を修理するのを手伝うために、地球上に降りたりしていました。
青年たちは、月の世の青年と、日照界の青年と、ほぼ半々の数で構成されていました。月の世の青年は、日照界の青年の影のない明るい態度やまっすぐな発言に戸惑い、日照界の青年は、月の世の青年が、時に地球上の影を見るときの悲しげにも鋭い視線に、胸を突かれることがありました。ですが彼らは、人に違いがあるのは当然だと知っているので、特に何も気にすることもなく、お互いの違いをそれぞれに興味深く学びながら、助け合って仲良く協力しあい、日々の仕事をこなしていました。
聖者はただ、青船の中で一人立ちつくし、いつも、青船の扉を開いて、静かに地球を見下ろしていました。
「やあ、ガゼルくん」月の世の青年が、ある日照界の青年に声をかけました。彼は数年前まで、日照界においてガゼルの導きをしておりましたが、その仕事で少しミスをしてしまったことをきっかけに、しばらくガゼルの導きを他の青年に預け、代わりに、この地球の状況を観測する青船の仕事に志願し、それをお役所に認めてもらったのでした。
「これ、昨日のデータなんだが、翻訳してくれるかい?」彼を「ガゼルくん」と呼んだ月の世の青年は、彼に少し暗色に煙った水晶の板を渡しました。その日照界の青年は、実年齢に比しては少し幼げな少年のような顔をしており、それほど年の変わらぬ他の青年たちに、少々からかい気味に、「ガゼルくん」と呼ばれていました。彼はそれに時々苦笑もしましたが、気にしてもしょうがないと思い、なんとなくそう呼ばれるのを、自分にもみんなにも許していました。
ガゼルの青年は、月の世の青年から渡された水晶の板を、キーボードに放り込み、画面に映り出た複雑な暗号や紋章を解読し、普通の言葉に翻訳していきました。そして一仕事終わると、ふっと息をつき、何気なくすぐ横の窓を見て、ガラスに映る自分の顔を見ました。丸い大きな青い目の少し幼げな顔は、確かに、何となくガゼルに似ているようにも思えました。
(あの仕事も、長いことやってたからなあ…、僕も、だいぶガゼルに影響されたのかな)彼は髭の無い自分の顎をなでつつ、ガラスに映る自分に向かって、少し照れたような笑いを見せました。
ガゼルの青年は、翻訳したデータを再び水晶の板に記録し、透明になってキーボードから出てきた水晶の板を、さっきの月の世の青年に渡すために、立ち上がりました。
すると、ふと彼は、青船の扉のそばで、常に凍りついたように立ちつくし、地球を見下ろしている聖者の厳しい横顔に目が行きました。聖者は常に杖を離さず、ただそこにあるだけの人形のように立ちつくし、青年たちに何を命令することもなく、ただ地球を眺めていました。聖者が何をしているのか、青年たちには一切わかりませんでしたが、聖者が、地球を見ながら常に、自分たちには見えないものを見つめ、魂の奥で彼らには決してわからない仕事をしているのだということは、わかりました。聖者は時に、かすかに眉をゆがめ、目を閉じ、おお、と嘆きにも似た声を上げることがありました。青年たちは、それを聞くと、一瞬静まりかえり、手元の仕事から目を離して一斉に聖者の方を見ました。すると青年たちの胸に、まるで亀裂を生むような鋭い痛みが走りました。まだまだ修行が足りぬと言われる彼らにも、何となくわかることはありました。
きっと聖者様は、地上に今生きているという、あの『誰か』という人を、常に見ているのだろう。その『誰か』という人が、誰なのかは、聖者以外は誰も知りませんでしたが、ただ、『聖なるもの』を荷っている方だということは教えられていました。青年たちは、聖者の悲哀を感じながら、皆同じような感情をかみしめていましたが、それを口にすることはなく、沈黙のうちに、しばし、地球と、その『誰か』という人のために、皆で祈りを捧げるのでした。
その頃、日照界では、女性魔法学者が、同じように、地下の天文台の中で常に地球を観測していました。彼女は、知能器の上に浮かび上がる青い地球の幻を、キーボードをいじってくるくると回しながら、どんな小さな変化も見逃さず、記録してゆきました。
「あのゆらぎが見えてから、もう三年は経っている。でもあれから何も変化は見えない。聖なるものは何をしているのかしら」彼女は口元に手をあててしばらくじっと地球を凝視しているうちに、ふと飲み物が欲しくなり、助手を呼びそうになりました。
「ああら、いけない。彼は今いないのだわ」魔法学者は少々口を歪め、苦笑いしながら、右手で簡単な魔法をし、お茶を作りました。そしてそれを一口飲んで、言いました。
「ああ、やっぱりだめね。ちゃんとした魔法で作らないと。あまりおいしくないわ」そう言いつつも、彼女は再びお茶に口をつけ、まだ若く未熟だった頃の味などを思い出しながら、ゆっくりとそれを味わいました。そしてお茶の器を、また簡単な魔法で消すと、もう一度地球に目をやりました。
「今頃彼は、あそこらへんにいるのね」彼女は地球上のある一点を指差し、そこに光をともしました。「神は、お優しくも、お厳しい。できることだろうけど、それをやるのはつらいでしょうね。あなたは…」魔法学者は、その地球上の一点の光を見つめながら、彼に語りかけるように言いました。そしてしばしの休息をした後、彼女は再び、地球を観測し、『聖なるもの』の降りていったという、地球上の、ある一点に光る青い大きな目印を見つめました。彼女はその青い光にも問いかけました。
「聖なるものを荷うという方、何をされているのですか。神は、あなたを、どうお導きになっているのですか?」
すると、知能器が作る幻の地球が、それに答えるように、かすかに横に揺らいだような気がしました。彼女は一瞬何かに魂をひきこまれるようなめまいを感じ、体が揺れて、足元がふらつきました。彼女は頭をぶんぶんと横に振って、すぐに自分を取り戻すと、目を見開いて驚きを見せ、幻の地球から顔をそむけて、ふう、と深い息をつきました。「…いけない。誤るところだったわ。聖域の秘密には決して触れてはいけない。そこに触れると、この私でさえ、嵐に巻き込まれる恐れがある…」
魔法学者は気を取り直し、再び知能器の前に座って、地球の幻を回して、観測を始めました。
そのようにして、何年かの月日が、過ぎました。ある日、魔法学者は、地球上に小さくも透明な美しい渦が巻いているのを見つけて、茫然と目を見開きました。
「聖なるものが、動き始めた!」彼女は思わず叫び、椅子から立ち上がりました。その渦は、ハリケーンやタイフーンのような雲の渦ではなく、目に見えない人類と怪の魂が作り上げる、血しぶきにも似た、心の叫びの渦でした。言葉を変えて言えば、それこそが地球の魂の渦でした。彼らは、地球上にあり得ない聖なるものの気配を感じ、恐れを抱き、魂を裂くような叫びをあげ、憎悪や狂気の嵐の中で自分を見失いつつありました。あの、渦の中心、風の結界に囲まれた聖域に、あの人はいらっしゃる。その恐ろしい霊圧の差に、人類は驚いて、逃げまどい、自ら起こす嵐の風に、これから迷っていくのだ。
「嵐だ、最初の嵐が起こった!」彼女は叫びました。そして、地球上のもう一点に点る光を見つめ、なつかしい彼のことを思いました。「…あなた、始まったわ、とうとう。あなたも、行くのね、あの嵐の中を。あのすさまじくも美しい、浄化の嵐の中を…」彼女はその一点を強い悲哀に満ちた目で見つめ、彼のために目を閉じ、指を組んで、神に祈りました。
「お導きを、彼にお導きを!神よ!」
その頃、青船の中では、大騒ぎが起こっていました。青年たちは知能器や観測機の間を飛び回り、データを投げ合っては、地球上に起こったその小さな渦を見つめ、茫然としながらも、刻々と変わっていく渦の状況を正確に記録してゆきました。地球各地に埋めた水晶球が、次々に点滅し、振動し、まるでその嵐を祝福するかのように、一定のリズムをとって単調な旋律を奏で始め、それが地球を少しずつ揺り動かしていくのを、観測機がとらえました。
青年たちが、観測機をのぞき、あるいは知能器の画面から、あるいは窓から直接地球を眺めながら、口々に言いました。
「これが、嵐か!」「すごい。すさまじくも醜いが、信じられないほど、美しい」「まるで、薔薇のようだ!」「神の道理とはこれだ。僕らの予測をはるかに超えている」「すごい、真実は、あまりに正確だ。こんなに正確な渦など、あり得るのか!」「本当に、本当に、地球に、渦が、咲いた!」
ガゼルの青年は、聖者のそばで、青船の扉から、地球に咲いた最初の渦を、茫然と見つめていました。人類が、おののいている。神が、動いていらっしゃる。地球上で、何かが、起こり始めている!
彼は、ふと、隣にいる聖者の、杖を持つ手が、かすかに震えているのに気付き、聖者の顔を見上げました。すると、聖者のひたすら地球を見つめている目のふちに、微量の液体がたまり、それが光の筋となって、聖者の頬を流れるのを、ガゼルの青年は見ました。聖者は静かに目を閉じ、あらゆる悲哀が自分に振りかかって来るかのように口を噛み、眉を歪め、おお、と嘆きの声をあげました。そしてガゼルの青年は、聖者が、まるで空耳のように、かすかな苦悶の声で、こうつぶやくのを聞きました。
イエ…ス…
青年ははっとし、まじまじと聖者の顔を見つめました。イエス?今イエスと言ったのですか?喉までこみあげてきた問いを、彼は無理やり飲み込み、ただ茫然と、聖者を見つめ、しばらくしてまた、地球の渦の方に目をやりました。
「イエス?あなたは、イエスなのか?」
ガゼルの青年は、脳裏にあの深くも鋭く澄んだ青い瞳を思い浮かべながら、渦の中心に向かって、問いかけました。
その頃。
天の国では、また、奏楽の途中で眠ってしまわれた王様の寝顔を、梅花の君が、そっとそばに寄り添い、悲哀のにじんだ優しげな微笑みで、見つめていらっしゃいました。
幻の王様は、いつもの御椅子にお座りになり、ひじかけにひじをついて頬を支え、眠りながらも、かすかに眉を歪め、少し苦しそうに、うっ、と、喉を鳴らされました。そしてしばらくすると、その閉じた目に小さな玉のような涙が滲み、それは頬を流れて、ほとりと彼の膝の上に落ちました。
「わが君…」梅花の君は、もはや自分の心を隠すこともなく、幻の王様に声をかけられました。「愛する、わが君…、苦しいのですか?そんなにも、苦しいのですか?」
彼女は手に持った琴の弦をかすかに鳴らし、その音で、王様の涙の苦しみを清めました。そして、ひじかけに置いた片方の王様の御手に、自分の手を、おそるおそる重ね、その清らかな御手に触れて、ああ、とため息をつかれました。彼女は、自分の愚かさを責めながらも、震えながら涙を流し、こうしてしばらく、幻とはいえ、愛する方とふたりでいられることの、静かな喜びに浸ることを、許してくださるようにと、神に願いました。
「わが君、…すべては、夢ですわ。ひとときの、ひとときの夢……」
梅花の君は、王様の御手に触れた自分の手を、聖なるものからおそるおそる逃げるように、そっと離すと、今度は琴を抱え、王様の眠りの邪魔をしないように、かすかな音をかき鳴らしながら、愛をこめて、子守唄のように清らかな慰めの歌を歌いました。
「いつかは、終わる夢…」
目を閉じると、彼女の脳裏に、青い地球の姿が浮かび、その上に咲いた、小さくも見事な、真実の赤い薔薇の花が見えました。
ああ……
眠る王様が、ため息のように、かすかな声をあげられました。
天の国の月は、その夜、望月でございました。
(完)