「なんでわしがこんなところにいなければならんのだ」
そこは深い密林の中の、小さな泥の川のほとりでした。仕立てのいい立派な服を着て、腕を組んで偉そうに川辺に立っている男が、頭に血を上らせて怒っていました。青年と竪琴弾きは、黙って顔を見合わせました。「蛙ですね」と竪琴弾きがささやくと、青年は黙ってうなずきました。森の木々が梢を分け、月が彼らを照らしていました。
「わしは世間のために人生をささげた男だぞ。人間なぞ、ほんとに何もわかってないのだ。わしがなんとかしてやらないと、馬鹿なことばっかりするんだ。なんでもかんでもやってやったのに、そのわしがなんでこんなとこにいるんだ」男は生きていたころ、ある町の議員をしていたことがあるそうでした。彼はそれなりの業績を残したつもりでしたが、それは多くが、彼の大言壮語を、部下が総出でなんとかしたものでした。つまり彼はほとんど何もせず、世間に文句ばかりを言って、自分は改革者だ、などと言って威張っているだけだったのです。家族には、靴の並べ方にさえ文句を言い、おれがいなければこんなこともできんのかなどといつも怒っていました。彼は自分をとても偉いと思っていましたが、実は誰も何も言わないだけで、周りの者には相当に嫌われておりました。
こういう類の者は、月の世に落ちると、たいてい蛙に変化(へんげ)するのが普通でした。密林の川のそばに落ちたのもたぶんその前兆でしょう。竪琴弾きは、琴糸をはじいて、いちいち彼の言葉を清めながら、ため息をついていました。そのそばで、青年はポケットを探り、ひとつの、銀色に光る玉を取り出しました。
「なんです? それ」竪琴弾きが尋ねると、青年は、「ちょっと試してみたいんだ」と言いました。それは、青年が古い記録をもとに作った、魔法の玉でした。水晶に銀を練りこみ、玉にして、聖域で七日間森の風に染めて作るのです。彼はその玉をくるくると手のひらの上で回すと、ふっと息を吹きかけ、文句を言っている男に向かって撃ちました。玉は男の額にあたり、男は、「あっ」と声をあげました。
玉は男の額にめり込み、きん、と音がして割れました。すると、白砂を流すような厚い月光が彼の上にいっぺんに降りかかりました。何もかもは一瞬でした。声を上げるひまもなく、月の光の中を、何か白い長いものがまっすぐに降りてきて、男を一息に丸のみにしたかと思うと、小さなものをすぐに排泄し、またいっぺんに、空に昇って行きました。
「なんです? あれは!」竪琴弾きが上を見ながら叫ぶと、青年も叫びました。「蛇神だ! 蛇神だ! あっちの世界から降りてきたんだ!」
「でもなぜ?」竪琴弾きはまだ茫然と空を見上げていました。青年は心を落ち着かせ、蛇神が排泄していったものを、手に取り上げました。それはなんとも、小さな小さな青蛙でした。
「おやまあ、なんともかわいらしい…」竪琴弾きが目を細めて言いました。
「でも、人がこんな小さな蛙になるのは初めてだ。どういうことなんだろう?」青年は割れてしまった玉を拾い上げ、手のひらの上で揺らしながら、少し耳に近付けてみました。まだ微かに風の音が聞こえ、聖域の澄んだ香りや光の音がしました。
周囲を見回すと、銀の粉が川の周りのあちこちに散らばり、星のように光っていました。それも微かに、聖域の香りを放っていました。
「…そうか、きっと、この玉のせいで、ここに仮の聖域ができたんだな」青年が言うと、竪琴弾きが尋ねました。
「でも、なんで蛇神が降りてきたんです?」
「さあ、それはぼくにもわからない」青年は割れた玉をポケットにもどしながら、言いました。
「それにしても、聖なるもののおやりになることは、厳しいですね」竪琴弾きは、蛙を見ながら言いました。彼は、蛇神に、ありとあらゆる虚栄と慢心をはぎ取られ、全身を清められた結果、そうなったのでした。蛙は青年の手のひらの中で、心細そうに震え、助けを請うように、けるる、と鳴きました。青年は、笑いながら、言いました。
「だいじょうぶだよ、お月さまが導いてくださる。しばらくはこの川で勉強するんだ」
そうして青年は、蛙を川に放しました。蛙は泥の川に浮かびながら、誰かを恋うように、けるる、けるる、としばし鳴き続けていました。