月は青みを帯びた蛋白石であった。空は青磁色であった。大地は黒い鋼だった。
今、その鋼の大地の上に、四角い、白と青磁色の碁盤模様の大きな薄い板が浮かんだ。それは、ひととき、ある目的のために生まれたひとつの舞台であった。数十人の上部人たちが、その舞台を囲んで、静かに様子を見守っていた。どこからか、ちりん、と言う鈴の音が聞こえた。それと同時に、白と青磁色の碁盤模様の舞台の隅に、一人の白い服を着た上部人が現れた。そして、それより二秒遅れて、その反対側の隅に、緑色の服を着た上部人が現れた。二人は、顔を見合わすと、同時にうなずき、舞台の上の、自分の定位置に、互いに向かい合いながら静かに座った。
一息の風が、はあ…、とかすかなため息を伝えてきた。静寂を少し和らげようとしたのだった。静寂に全く凍りついてしまえば、背景が、きりりと割れて壊れてしまうような気がしたからだ。空気は緊張して千切れそうな琴糸のようにはりつめていた。二人の上部人は、舞台の上で互いに鋭くまなざしを交わし合い、同時に、「ふ」と言った。「はじめる」という意味であった。石のような沈黙が、一瞬、落ちた。ほかの上部人たちは舞台を囲み、静かに見守った。
「てるに」と、白い服の上部人がきらりと言った。すると間髪いれず、緑の服の上部人が、「えぉみ」と言った。すると白い上部人が目を鋭くし、「かぉゆ」と言った。緑の服の上部人は、肩をかすかに揺らし、「るぁい」と答えた。彼らは、詩によって問答をしていた。それは、彼らにとって、剣を交えあう魂の真剣勝負のようなものだった。上部人たちはよく、こうして、真理を追うために、あるいは神よりの未来の言葉を探るために、詩の言葉を用いて対話し、戦うことがあった。彼らの交わした詩の対話は、以下のようなものである。念を押すが、最初の言を発したのは、白い服の上部人であった。
「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉に、何は棲む」「青き翡翠の蛙棲む」「青き蛙は何歌う」「白き虹なす玉を吐く」「玉の言葉は何故に」「鉛の風の呼ぶ故に」「鉛の風は、何をする」「己の灰の影を拭く」「影は浄めて消ゆるのか」「消ゆるとすれば何痛む」「痛むと言うは、どの声か」「それは真珠を焼く煙」「焼いたものなら、あるものか」「消えしものなら歌はない」「歌は何を望むのか」「赤き泉の声ゆえに」「赤き泉はなぜ赤い」「緑の薔薇の見えぬ故」「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉は、どこにある」「閉じし眼の、金の鳥」「鳥はいつ鳴く、いつ歌う」「神の眼の青む時」…
彼らはこうして、高い詩の言葉を、剣をあわせるように投げ合いながら、真理を追いかけ、未来を占っていた。戦いとは言うが、勝負がつくようなものではなかった。勝者も、敗者も生まれはしなかった。ただ、互いに戦ったという、喜びだけがあった。己の力を、同じ力で返してくれる相手がある、それが彼らの大きな喜びであった。彼らにとって、戦いとは、そういうものであった。
無粋なことではあるが、彼らの詩の言葉の戦いを、分かりやすく、以下に解説しておく。
「緑の薔薇はどこに咲いている。薔薇とは、真理の表現だが、それは緑ゆえに森にまぎれて、目には見えないのだ」「その薔薇は、赤い泉のほとりに咲いている。命のめぐりの源の、真の愛の泉である」「その愛の泉には、何が棲んでいる」「青い翡翠の蛙のような、愛らしい真実の心が生きている」「その心は何を語る」「とりどりの色をまといながらも、清らかに白い、素直な愛の調べを歌う」「その歌は、何のために歌われる」「鉛のように重い影を背負う者の、悲哀を、許そうとするために」「鉛のように重い影を背負う者は、何をしているのか」「自分の灰色の影を、消し去ろうと、懸命に布で影をぬぐっている」「影は、ぬぐって消えるものか」「消えるものならば、蛙の愛を呼ぶものか。影の痛みに泣くものか」「影の痛みは、何より生じた」「真珠のような愛を焼きつくし、すべてを失ってしまったのだ」「真珠の愛は消えたのか」「いや、消えはせぬ。それは決して燃えはせぬ。痛い火傷は負いつつも、真の愛は消えはせぬ」「その愛は、なぜ歌っているのか」「赤い泉の声にかきたてられ、歌わずにいられぬのだ」「泉の水はなぜ、赤いのか」「緑の薔薇の真実を、虚偽の風より守るため、真の紅を隠しているのだ。いつか真の蘇るとき、緑の薔薇にそれを塗る」「緑の薔薇は、どこに咲く」「赤き泉の、ほとりにて」「赤き泉は、どこにある」「それは人間の閉じた目の奥に棲む、愛の小鳥。それは影に眠る人間の魂の奥、真の愛の棲む、悲しくも静かな沈黙の檻」「その愛の鳥は、いつ、鳴くのか、いつ、歌うのか」「神の、清き愛の眼が、青い地球の上に、開くとき」…
ほおぉ…と、舞台を囲んでいた上部人たちから、歓喜の声がもれた。「んるぅ」と誰かが言った。「まさに、すばらしい。これは、真実だ。現実の地上世界も、まことに、そうなっていくだろう」という意味だった。誰かがそれに、「つ、ぃぬ、ろ」と答えた。「そのとおりだとも。どのように歌おうとも、我々はいつも同じ歌を歌っている。愛をたたえている。絶え間ない愛の美しい行いのすべてをたたえている。その表現の仕方は人によって皆違うものだが、そのたたえる歌の、これほど巧みなことを見るのは、実に、久しぶりだ」と彼は言ったのだ。
対話の勝負は、数分で終わった。しかしそれは、それを聞いていた上部人たちにとっても、また対話をしていた上部人たちにとっても、何時間もの時が経ったように、感じられた。それほど、深い、対話だった。彼らは互いに、深く語り合った。互いの愛に、深く入り込み、響き合い、剣のようにことばをぶつけ合い、その激しい痛みと、苦しみと同時に、己の中にみなぎる力の存在を感じる、高い喜びに、酔いしれた。これほどの力がある者がいるのだと、対話を交わした上部人たちは、互いに互いを見つめ、微笑みあい、喜びを与えあった。この戦いは、彼らにとって、存在する自分と言うものが何者であるかを知る嬉しさを味わうことのできる、幸福の一つであった。
「おり」「ちぬ」「ぃみ、と」…ふたりはしばし、舞台の中央で手を握り合い、会話を交わし、互いをたたえ合った。「すばらしかった。君の言葉はわたしの胸を激しく打った」「その言葉を、そのまま君に贈りたい。わたしも、かなり、痛かった。だが嬉しかった。君の力は、すばらしかった」「感謝する。また、戦おう。君がいることが、わたしは、嬉しい。君という人がいることを、神に、感謝する」「わたしも、ともに、感謝する」…
こうして、対話の勝負は終わった。二人の上部人たちが舞台を降りると、舞台はすぐに消えた。集まっていた上部人たちは、しばし、花が風に騒ぐように、それぞれに自分の歌を発し、そばにいる誰かを相手に小さな問答をした。愛とはなんとすばらしいものだろう。これほどたくさんのものがいながら、皆、自分たちは同じ、愛というものなのだ。それなのに、愛はみな、違う。何千、何億、何千億、数え切れないほどの、愛の美しい形がある、表現がある。創造は、無限の彼方まで広がっている。歌っても歌っても、歌はつきることがない。花が咲いて、枯れても、また咲き、歌うことが、永遠に途切れることがないように、歌は新しく生まれ続ける。新しいものは、次々と生まれ続け、無限に成長し、発展してゆく。なんという喜びか。そして時に、こうして、力の拮抗する相手とぶつかりあい、戦い交わすことは、実に、嬉しいことだ。痛くも苦しい、己の喜びの、叫びだ。
ほう、つ。やがて上部人たちは、対話の戦いの熱の名残を胸に灯しながら、それぞれ自分の持つ仕事の元へと帰るために、次々とそこから姿を消していった。今日交わされた詩の対話によって、占われた結果は、確かに、神の愛の物語からもたらされたものだろう。真実、その対話の結果の通り、やがて、地球に、神の真実の愛の眼が開き、人類が愛に目覚め、自ら歌い始めるときが、必ず、来ることだろう。その場にいた、誰もが、それを硬く信じた。そしてそのためにこそ、自分たちは、あらゆることを、やってゆくだろう。ただ、愛のために。
ああ、何もかも、美しかった。彼らは、この上ない幸福を感じて、帰って行った。
最後に、ただひとり、緑の服の上部人が、残った。彼は、自分の仕事に戻るまで、まだ少し時間があったので、今少し、対話の余韻に浸っていたかったのだ。彼は、微笑みながら、自分の右手を見た。そこに、白い服の上部人が、最初に、「てるに」と言った時、自分が受けた衝撃の跡が、青いあざとなって残っていた。あれは、痛かった。緑の薔薇とは、神が、人間のために、巧みに、嘘の彩の中に紛れ隠しておく、真実の愛の隠喩だと、彼はうけとった。それはどこにあるのか、彼は瞬時に「赤き泉のほとり」…つまりは、人間の奥にも確かにある真実の愛の中だと答えたのだが、はたして、それが的確な表現だったかどうかは、そのとき判断できなかった。だがその答えは確かに相手の胸の的を打ったようだった。快い反撃が、返ってきた。嬉しかった。
「ほむ」彼は言いつつ、青磁色の空に浮かぶ月を見上げた。そろそろ仕事に戻る時間がせまった。「りつ、ひ、よの」彼は言った。…幸福だ。ああ、人間に、この幸福を、教えてやりたい。この、真実の愛の、幸福の、どんなにかすばらしいことかを、なんとか、彼らに教えてやりたい…。
彼は、口笛を一節吹くと、そこから姿を消した。誰もいなくなったその場所に、しばし静寂が降りたが、風が、ふと、何かに感じて、震えた。見えない、何者かが、空気の向こうから、この場所を静かに見ている気配がした。それは一瞬、い、と言ったと思うと、白い月の光の中に、大きくて透明な顔をゆるりと出してきた。どうやら、上部人とは違う何者かが、ここで行われていたひととおりのことを、ずっと見ていたらしい。その透明な顔は、風にまばたきをすると、かすかに口の端をあげて微笑み、それだけで、魔法を起こした。
瞬時のうちに、鋼の黒い大地に、緑の薔薇の園ができた。苺水晶の砂利を底に敷き詰めた小川がその中にひとすじ、流れていた。その小川の源をたどると、そこには、紅玉を盛り上げたような小さな赤い泉があった。誰が魔法をしたのか。それはわからなかった。ともかくも、この美しくも不思議な奇跡を、上部人たちが見つけるのは、これから数日後のことだ。
風が驚いているうちに、透明な顔はどこかに消えていた。緑の薔薇は甘やかな香りを放った。風はやがて喜びの歌を歌い、麗しい緑の薔薇の園の上を快く流れ始めた。青磁色の空の彼方に、かすかに、鳥の羽ばたく音が、聞こえた。