「震災後のことば 8.15からのまなざし」(宮川匡司編、日本経済新聞出版社)において、詩人中村稔は、見習うべきモデルはないと語る。
中村は、実は、弁護士として、特許権、知的財産権訴訟の第一人者なのだという。
彼の経済の見方は、ある意味、非常にペシミスティックである。現在の資本主義体制は破綻している、経済は成長し続けるということが分からないと。
「戦後は…裕福なアメリカというモデルがありました。…今は…アメリカ経済が、ひどい…ユーロが危ない…中国だって…インド…ということを見てくると、世界的にものすごく暗い。日本には見習うべきモデルはないんですよ。」(48~9ページ)。
「(原発事故の)想定外というのは、安全面もそうだけれども。コストパフォーマンスに基づく資本主義体制が、破綻したということも意味している。」(52ページ)
「私は、毎年GDPが上がらなければならないという発想が、どうもわからないんですね。…徳川時代に…GDPも何も言われていなかった。日本の経済は停滞していた…そんな中で文化というのが成熟したんです。…成長…よりも成熟していくことのほうが必要なんじゃないですかね。」(63ページ)
「要するにGDPが一位になった二位になったとか、…世界的にどういう位置にあるかというようなことを、目指すべきではないと思います。追いつき、追い越せというモデルは、もう世界中にないんですから。」(61ぺ-ジ)
私が、それなりにさまざまな本を読んでいる限り、このような観方はほぼ常識だと言ってよい。どんどん、高度成長を続けていくと楽観的に述べる識者はほぼ存在しない。
もう一方で、同じ本で古井由吉が「リーマン・ショック後の一番恐ろしい言葉は、シティバンクのトップが言ったという『曲が流れている限り、踊るのをやめられない』」(217ページ)と引いて、マネーゲームの恐ろしさを語る。そんな自転車操業めいた経済のゲームから降りられないと思いこんだ経済人、会社人たちが存在することも確かだ。というか、政治の実権みたいなものは、相変わらずそんな人々が握り続けているように見える。生活者であり、消費者であるわれわれは、とっくにそんな経済ゲームから降りている、あるいは、少なくとも降りたいと念じているのに、なぜか、いまだにそんな経済ゲームが続いてしまっている。どうしてなのだろうか?
もう一方で、生産者としてのわれわれも、決して利潤のために動いているのではない。社会にとって必要なものを供給するために生産している。使命を負って生産活動にいそしんでいるはずだ。それで、儲けようとかいうのは、二の次のことのはずだ。
知的財産権訴訟の第一人者として、中村稔は、「そういう大変な技術を持った中小企業が生き延びているから、まだ日本は将来に希望を持つことができるのではないですか。『ものづくり』というのが人間生活の基本にならなければいけない。」(51~2ページ)
「『日本人は信用できる』『日本の製品は信頼性が高い』―そういうことを勝ち得れば、それで十分ではありませんか。」(62ページ)
大変にまっとうな意見、ものの観方である。ものの本を読む限り、識者はほぼ全て同様のことを言っている。そう、私は思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます