19世紀フランス文学の傑作である。一定の年齢になったら、新刊を追うことはやめて、19世紀フランス小説を中心とした古典を読み漁ることで時を過ごしたいと夢想してきた。バルザックとか、ゾラとか、モーパッサンとか、フローベールとか。
なぜか、デュマとか、ユゴーとかは、範疇に入ってこないが、まあ、付随して読むこともあるだろう。
ああ、あとは、あのスペインの風車小屋に突撃する、ラマンチャの騎士、えーと、セルバンテスの『ドン・キホーテ』か。イタリアあたりの近代の小説につながってくる物語とか。
ロシアについては、ドストエフスキーはだいたい読んでいるし、トルストイは、なぜかあまり食指が動かないので、でも、まあ、ドストエフスキーの再読ということはあり得る話ではある。
プルーストの『失われた時を求めて』と、ジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』は、冒頭で投げ出したけれども、『ユリシーズ』は読んだし、まあ、あとはイギリスの19世紀小説とか、アメリカの現代小説を少し幅を広げて読むか、というようなところだろうか。
いずれ、19世紀フランスを軸にして、その前に遡るか、後ろに下るか、読書の環は繋がっていく。
そういえば、サルトルの「自由への道」が、岩波文庫の確か第2分冊まで読んで中断している。続きも買ってはあるので、次はそちらに行こうか。
フローベールは、若いころに「ボヴァリー夫人」は読んで、「プヴァールとペキシュ」は、わりあい最近読んでいる。岩波文庫三分冊の2007年の第4刷だから、ここ十年以内ではある。まだ、読書の記録をネット上に上げることを始める前のようだ。
「ボヴァリー夫人」は、美しい既婚女性の恋愛事件の話だったりして、大きな影響を受けたような気がする。写実主義の嚆矢とされる作品である。(松岡正剛氏の千夜千冊に、いいことが書いてあるので、ぜひ、ご一読を勧めたい。)「プヴァールとペキシュ」は面白かった。どう面白いのかは、また別の機会に譲りたい。もう一度読み直して紹介すべきかもしれない。小説というものの枠を拡げてくれるような小説の一種ではあるだろう。
「感情教育」は、英語のカタガナ語でいうと「センチメンタルなエデュケーション」である。「センチメンタル」か。センチメンタル・ジャーニー、感傷旅行。ふむ、ここでのセンチメンタルは、必ずしも感傷的ということもでないだろうが、でも、やはり、どこか感傷的でもあるようなところもある。
若いころに読めば、相当のインパクトがあり、相当の影響を受けた書物であったかもしれない。
スタンダールの「赤と黒」のジュリアン・ソレルだとか、「パルムの僧院」のファブリス・デル・ドンゴだとか、人妻との恋愛沙汰とか、美しい恋愛とか含めて、相当に深い影響を受けたものだった。詳しいことは忘れたが、私は日本のジュリアン・ソレルである、などと思い込みというかなんというか、妄想めいたことも言っていたような気もする。
しかし、いまとなって、この小説を読むと、主人公フレデリックは若くて身勝手でいい気な青年。有閑階級の不労所得者でまあ、勝手なことばかり言っている感じ。いまいち感情移入ができない。
複数の人妻に言い寄ったり、ココット(高級娼婦)のような女を囲ったり、年若の女と結婚するとかしないとかもてあそんだり、まあ、遊び歩いている。子供っぽい感傷とか、子供っぽいナイーブさというか、このナイーブというのは悪い意味での子供っぽさである。
さて、
「一八四〇年九月十五日、朝の六時頃、出帆まぎわのヴィル=ドゥ=モントロー号がサン=ベルナール河岸の前で、もくもく煙の渦を上げていた。」
と、小説は始まる。この船上で、主人公は、ジャック・アルヌーとその夫人と運命の出会いをする。
「今までに、これほどの小麦色した肌のつや、胴あいの美しさ、陽にすきとおって見える指のしなやかさを、見たことがなかった。」
昔だったら、わたしも、このあたりで一発でノックアウトされていたかもしれない。
ここから、人妻アルヌー夫人と青年フレデリックの不自由な恋愛が始まっていくわけだが、順々にそのほか数名の女性との関わりが描かれていく。
一方、時代背景も描かれる。
1789年、フランス革命がはじまって、ナポレオンのクー・デタ、王政復古などいろいろあって、そののち、翻訳者の生島遼一によれば、
「一八四〇年代、つまり七月王制末期から二月革命を経て六月事変とつづき、さらに逆転してナポレオン三世の第二帝政にいたるフランス氏は単なる挿話的な事件ではなかった。これが近代史でフランス国民が体験した無比の精神的危機をはらむ曲折だったことは周知のとおりで、当然これは重要なロマネスクを作家に提供する。王政復古期や七月王政期が、バルザックやスタンダールに時代史的小説を書かせたように。二十代のフローベールはこの時代の目撃者でもあったのだ。」(翻訳者による解説 下巻319ページ)
冒頭の、アルヌー夫人と出会うセーヌ川を行く船旅のシーンや、ココット風の恋人ロザネットと遊ぶパリ近郊の行楽地の風景、青年にあこがれる年若い少女と散策する田舎の風景など、自然と建築の景観を描写する、写実するところ、また、二月革命ころからのパリの街と快楽に満ちた仮面舞踏会、貴族も集まる競馬場、劇場、様々な階層を含む青年たち、群衆の姿、資本主義黎明期の小ブルジョア、大ブルジョアの姿が活写されるところ、新興資本主義の初期の工場の光景、労働者の有り様。
主人公に感情移入できないなどとは言いながら、いつのまにか、様々な描写に引き込まれて最後まで読み進めてしまう。
後半、大ブルジョアのダンブルーズ夫人を籠絡する様子などは、美しいアルヌー夫人との思いどおりにならない苦しい恋愛や、ロザネットとのさや当ても含めて快楽に満ちた色恋、年若い少女の憧れを手玉に取ったような取り扱いの経験を経て、まさしく「教育」を受けて学んだ結果ということになるのだろうが、どうもこう都合がいいとも思えてしまいながら、しかし、この教育の全過程をわくわくと興味深く読み進めるというようなことにもなってしまう。
いわゆるパリ・コミューンは、ナポレオン3世の第二帝政のあと、1870年代のこととなるようだが、この小説の時代背景となる大革命の後のフランスの社会の有り様は、なんとも混沌として収拾がつかず、ギロチンに代表される血なまぐさい殺戮も日常茶飯事のようで、革命の代償の大きさ、そういう大きな犠牲の上に成り立っている現代のフランスであり、ヨーロッパ諸国であり、世界であるというようなことにも思いが巡る。はたしてその時代のその場所に私が生きていたとしたら、革命を支持し通すことができただろうか、とまで思ってしまったりもする。
この小説は、男女の色恋沙汰をとおして、ある青年の成長の過程を描いていると同時に、当時の社会の在り様を活写しているし、すぐれた風俗小説ということになるのだろうし、まさしく写実小説ということにもなりえているのだろうと思う。
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