久しぶりの雑誌「現代思想」。副題は、DSM-5時代の精神の〈病〉。
掲載のどの論考も読みごたえがあった。読むべきものだった。発見があった。
論者のうち、齋藤環は、精神科医にしてラカン派の評論家、想田和弘は、映画監督、小泉義之は、本を読んだばかりの哲学者。あとは、知らないひとだった。
齋藤環は、震災の前から、かなり読んでいる。ひきこもり関係、文芸評論関係、いちばん新しいのはヤンキー論か。精神科の医者でラカンを参照する評論家なのだが、ラカン派の精神分析医ということではないらしい。
冒頭は、連載「家族・性・市場」第99回「精神医療現代史へ・追記2」、社会学者立岩真也。
精神病院は、精神病者を社会から隔離して収容する施設であり続けたが、現在、そのあり方の転換を迫られるなかで、病院ではなくて居住する施設になろうとしたり、認知症治療の病院に転化しようとしたりしているらしい。そこでは、一つの企業体として経営を続けていくという視点があることは否めないようだ。この日本で、精神病院とは、精神科の医療とは、どんなものであったかを思い出させてもらった。
次の連載「科学者の散歩道」第7回は、「医は仁術」展について、理論物理学者佐藤文隆が紹介している。
明治以前の藩政期、人体解剖というのはどういう意味を持ったことだったのか。また、現在、普通に言われる漢方というのは、「実は江戸時代に日本で創造された和風伝統医学なのである。…中国や台湾に行くと本物の『漢方』医療に出会えると思うのは錯覚である。」(22ページ)
福沢諭吉による西洋の学問の導入のことなども触れられている。
「『精神病』者集団、差別に抗する現代史」は、その集団の活動に関わってきた、山本真理への、立岩真也によるインタビュー。山本真理も、精神病の当事者のひとりであり、「精神病」者集団も、差別のもとに置かれた当事者自身による当事者集団のひとつであると。
「いまだ収容ビジネスの呪縛から逃げられぬ日本 司法精神病院の廃絶に取り組み始めたイタリア」は、アル中患者として入院経験のあるというジャーナリスト大熊一夫によるイタリアの状況の紹介。
「モザイクが守るのは誰か」は、映画監督・想田和弘。
「岡山市にある精神科診療所「こらーる岡山」の世界にカメラを向けた『精神』(観察映画第2弾、135分、2008年、DVD=紀伊国屋書店)というドキュメンタリー映画を制作・公開した。」(56ページ)
「Open Dialogue ことばの生成と郷土の減衰」は、斎藤環による、「統合失調症の治療法として知られる」(63ページ)オープンダイアローグの紹介である。
長くなるが、引用する。
「相談を受けた者が責任をもって治療チームを招集し、依頼から24時間以内に初回ミーティングが行われる。参加者は患者本人とその家族、親戚、医師、看護師、心理士、現担当医、その他本人に関わる重要な人物など。このミーティングはしばしば本人の自宅で行われる。/OPD(=オープンダイアローグ)の哲学において中心的役割を担うのは、家族療法家である。治療の対象は最重度を含む統合失調症事例である。…(中略)…セラピストは複数の専門家(多領域にわたることが望ましい)からなるチームを作り、危機にあるクライアント(とその家族)に即座に会いに行く。OPDのミーティングはしばしばクライアントの自宅で行われる。全員が一つの部屋に車座になって座り、やりとりが開始される。/そこでなされることは、まさに「開かれた対話」である。このミーティングは、危機が解消されるまで毎日続けられる。基本的にはたったこれだけで重篤な統合失調症が回復し、再発率も薬物療法の場合よりはるかに低く抑えられるのだという。」(65ページ)
これは、とても画期的なことだと思う。
いや、精神の病というのが、人と人との関係の中で発症してくるものだとすれば、人と人との関係の中で癒されるということも、またあたり前のことに過ぎないわけだが。その中で、具体的にどういう人間関係が必要なのか、どういう具体的な手法が有効なのか。それが、まさしくオープンダイアローグという手法なのだろう。
斎藤が、想田和弘の映画「精神」をとおして、精神科医山本昌知の発言で知った言葉として「人薬」というものがあるという。
「民家を改造した氏の診療所では患者やスタッフの区別もない雰囲気の中で、お茶を飲んだりおしゃべりしたりという独特の空間ができあがっている。人と人との距離がおのずから近づくようになっており、自然なコミュニケーションが成立している。OPDの発想は、この種のコミュニケーション空間の延長線上にも位置づけることが可能である。」(76ページ)。
斎藤の前の著作で、この「人薬」という言葉をはじめて目にした時、なにか少し、馴染まないところを感じて、ひとつはネーミングとして語感がいまいち馴染まないということもあったのだが、人間と人間の関係性こそが薬でもあるということは、至極当然、言わずもがなのことに過ぎないのではないか、と思ったこともある。人間と人間の関係性のなかで、人間はさまざまな精神疾患を発症する。であれば、人間と人間との関係性の中で癒されていくということもあたり前のことでしかない。人間こそが、人間に対して毒でもあり、逆にだからこそ、薬でもある。
そもそも、人間と人間の関係性のなかのひとつの出来事、ひとつの物事として薬というものがあるのであって、論理的に、そもそもそれを包含する大きな概念を持ってきて説明とするというのは、実は、説明になっていない、というふうに思ったということだ。(ここは、とても大雑把な言い方だし、そうでない言い方、捉え方もあるのだが、詳しい説明は省略する。)
しかし、今回、改めてこの言葉に接して、なるほど、この言いかたはこれとして「あり」のもの言いだなとも感じた。
精神医学も、そもそも人間の関係性にこそ立ち返るべきであり、そこから発想していくことが必要で、有効なのだ、ということを再発見する契機となりうる言葉なのかもしれない、「人薬」という言葉は。
オープンダイアローグという言葉は、注目していきたいところだ。
この後にも、タイトルと内容をごちゃまぜに列記するが、「グローバル化する精神医療」、「DSMは何を排除したのか?」、「精神科病院に「住む」ということ」、「外傷性神経症から限りないレジリエンスへ」、中国のドキュメンタリー映画監督の王兵への映画『収容病棟』に関するインタビュー、哲学者小泉義之(「ドゥールーズと狂気」を読んだばかり)の論考「人格障害のスペクトラム化」などなど、現在の私にとって面白く、ためになる、刺激的な論考が並んでいた。
ところで、DSMとは、「アメリカ精神医学会による『精神障害の診断・統計マニュアル』」(86ページ松本卓也「DSMは何を排除したのか?」)の英語のスペルの頭文字である。日本の精神医学会においても、広く使用されているらしい。日本社会に広く浸透した「グローバリズム」の一環ということにはなるのだろう。役に立つものであると同時に限界もあり、大きな問題もある、ということらしい。詳しくは、この雑誌を読むなり、ネットなり、図書館なりで調べてほしい。
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