ぼくは、気仙沼市という東北の三陸沿岸の地方小都市に暮らしている。
この小文は、「田舎で暮らすということ」と題しても良かった。「田舎」というのは、必ずしも田園のなかの集落、あるいは、山間の谷間の村ということではなく、都会に暮らす者が、その出身地を「田舎」と呼ぶ、その意味合いにおいて。
しかし、自分のまちを、いささかの町場であると観じてきた身としては、「田舎」という呼称はしっくりとこない。
これは、大都会、地方の中心都市、人口10万以下、5万人程度までの市、そして、町、村というヒエラルキーの中で、小都市であっても「市」は「市」であり、町でも村でもないという、妙な思いあがりではある。大都会・東京が、日本の中心であり、トップであり、目指すべき未来であり、目指すべき欧米の諸国に連なる先進地である。気仙沼は小なりといえども、デパートがあり、商店街があり、若干の都市性は有するもので、「田舎」とは違う。
若い頃、ぼくらは都会にあこがれた。中学生のころから、ロックバンドを組んで、イギリスやアメリカに憧れ、欧米により近い東京にあこがれた。高校生の時は、もうすぐにでも東京に出て行きたくてうずうずしていた。
卒業後、首都圏の大学に進学し、このまちを飛び出した。(進学した先は、埼玉で、首都圏のなかでの地位は、まあ、微妙なものではあったが。大学自体も微妙な位置にいた、といえる。)
4年で大学を卒業し、2年間、会社勤めと満員電車での通勤を経験し、気仙沼のまちに戻ってきた。(入社した会社も、上場企業とかではなく、かといってつまらないというのでもなく、微妙だったと言える。2年のうち半年は、今はもう散り壊された原宿セントラルアパート1階で販売の仕事をしていた。子会社が運営するセントラルパークという飲食小売のテナントショップの管理補助をかねてとは言いながら、自分の給料分も売り上げられないような酷い販売員だった。上階には、糸井重里氏の事務所があった。)
気仙沼に帰って、30年過ぎた。このまちは、どこか不思議に洗練され、ひとをひきつける魅力をもったまちだと思っている。住んでいるひとびとにとっても、そして、ひょっとしたら、外に住む、あるいは、特に都会に住むひとびとにとってこそ、魅力的ななにものかをはらんでいるに違いない。(それはたとえば、あの糸井重里氏が、その「ほぼ日」支社を、なぜかほかでもなくこの気仙沼に置いたことにも表れていると、ぼくは思う。糸井重里氏は、間違いなく、現代日本資本主義社会の最良の部分を体現したひと、少なくともそのひとりだ。こんなことを言われても、ご本人は迷惑だろうが。上京した当時、渋谷と池袋のパルコは、ほんとうに特別な場所だった。それまでの日本とは全く違う場所だった。そこは日本の未来だった。セントラルアパート、同潤会アパートのあった原宿表参道も。)気仙沼の不思議な魅力の在り処については、考えているところもあるが、また改めてまとめてみたい。
東京にいる間ずっと、はるか気仙沼を懐かしみ、おかしなことだが、憧れてさえいた。
津波で、気仙沼の気仙沼たるアイデンティティーを最も深く体現していた内湾周辺の街並みや、魚市場周辺は壊滅した。
それでも、ぼくらは気仙沼に住み続けている。端的には、仕事があり、住居もあるからだが。
多くの人は、多少の災害があっても、同じ土地に住み続ける。これは気仙沼に限った話ではない。それは、端的に生存し続けるための、喰い扶ちを稼ぐ仕事があり、住まいがあるからだ。仕事を失くせば、仕事を求めてどこかほかの土地に移る。それだけのことかもしれない。でも、本当にそうだろうか?
地方自治では、転居による選択みたいな話がある。Aというまちが、Bというまちより税金が安くて住民サービスが良ければ、Bの住民はAに転居する。Bは人口減少し、Aは増加すると。
これは、Xという店の商品が、Yという店の全く同じ商品よりも安いとすれば、Xのほうが売れる、という話と一緒だ。その限りでは、大変分かりやすく妥当な説明である。
でも、ぼくはそれは違うと思っている。
ぼくのように大学に進学して首都圏に移り住んで、そしてその後そのまま住みついているのだとすれば、確かに、それはそのとおりだろう。杉並に住もうが、三鷹に住もうが、埼玉、神奈川だろうが、それは、その役所のサービスの違いが大きければ実利的に選択するだろう。若い夫婦であれば、児童サービスの在り様は間違いなく、条件として大きい。
しかし、ぼくが、いま、気仙沼に住んでいるということは、そういうことではない。(もっともぼくは勤務先が市役所だから、実利的にもここに住んでいるというのは確かだが、そうじゃないとしても。)
地方にいて、その土地に住みるづけるということは、実利とかメリットとかではない。それを超えたなにものかのちからによるのだ。
たとえば、内山節は、その場所における自然との関わりだと言うだろうし、先祖代々積み重ねてきた暮らしだというだろう。恐らくそういうものだと思う。このあたりの議論も、また改めて詳しく考えたい。
もちろん、実害が大きければ住み続けることができない。
放射能の数値が高ければ、その場所に住み続けることは自殺行為だ。具体的に範囲をいうことは、ぼくの能力を超えたことだけれど、一定以上汚染された地域について、いまはまだ帰還すべき時期ではないと思う。除染などはまだまだ先の話だろうと思う。
しかし、良識ある人々が、より安全な地域に移住せよと主張することについて、全くその通りではあるのだが、どこかひっかかりはある。人間は、住み慣れた故郷を、そうやすやすとは捨てられないだろう。
気仙沼だって、完全に安全ではない。津波については、まあまあ、過ぎたことだが、原発事故は未だ終息したわけでない。多少ではあっても汚染していることは確かで、人体に対する影響だって実はあるのかもしれない。ぼくは55歳だし、息子も成人しているから、深刻に悩むことはしていないが。
原発事故で大きな被害を受けた土地に関して、これから数十年もの長きにわたって帰還することはできないのだと思うが、しかし、人間はやはり故郷に帰りたいのだということ、ここについて、ぼくは、ずっと考え続けたいと思っている。
さて、ぼくは、今後とも気仙沼に住み続けたいと思っている。移住することはないと思う(多分)。それは、生まれ育った故郷だから、ということではある。ずっと住み続けている土地だからではある。だが、それとは別の気仙沼の不思議な魅力というものはあって、だからこそ住み続けようとするのだと思う。
で、その魅力というのは、気仙沼に住む人々が行ってきたことの総体なのだ。意志し、想像し、創造してきたこと。生業として行い、趣味や文化として取り組んできたことを含む活動の総体。
共同体として、ともに仲良く暮らしてきたということと、それだけではなく、自由な個人として、自由な個人の集合として、想像力豊かに作り上げてきたことどもがある。
“One for all, all for one.” ということば、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」ということばがあって、それは、全く美しいと思う。まさしくそういうふうに生きていきたいものだと思うが、その一方で、ひとりが自分ひとりのためにきちんと生きるという側面も、絶対に必要なのだ。
言ってしまえば、中庸な、あたりさわりのないことになってしまうが、共同体の中に生きる自由な個人、尊厳をもって自由に生きる個人ということを忘れてはいけない。
自由な個人が、想像力にあふれて、創意工夫に満ちた活動をし、結果を残してきた。その先人たちがいてこそ、この土地があるということ。
「共同体」と「個人」という二つの、ある場合には矛盾してしまう両面。これらは、どちらが正しくて、どちらが間違っているという問題ではない。その両面を相抱えて生きていくということだな。
気仙沼の不思議な魅力というのは、では、具体的には何か、ということは、また、折を見てまとめたい。
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