ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

「内田樹による内田樹」株式会社140B

2013-10-07 01:14:14 | エッセイ

 140Bというのは出版社の名前。なんとなく紛らわしい名前だ。何かのいわれはあるのだろうけれども。ま、それはさておき。

 内田樹による11冊の著書の自作自注ということだ。しかし、「さっぱり作品そのものには言及されず、そこから思いついた違う話ばかりしておりますので、本書のブックガイドとしての有用性についてはあまり期待しないでください。」(まえがき 7ページ)

 私としては、取り上げられている本の半分以上は読んでいた本なので、むしろ、「違う話」を面白く読めた。自作自注とうことでは、それほど新しい知見は貰えないのだろうとたかをくくっていたが(では、なぜ、わざわざ買って読むのか、ともなるが、面白くは読めるのだろうとは考えて、でも)、結果として、読んで良かった。内田師に、内田先生に、また、良きことを教えていただいたというところ。「違う話」のみでなく、同じ話も含めて。

 そうだな。内田樹の教育論は、いま、とても大切な行論だと思う。

 「この本(「先生はえらい」ちくまプリマー選書)が出たのは教育改革の論議がかまびすしかった頃です。政治主導での教育改革が勧められ、教育に市場原理を導入して、教育機関を淘汰圧にかけて、適者だけを生存させるべきだという議論が連日メディアをにぎわしていた頃です。」(53ページ)

 「でも、教育というのは人間がやる仕事です。…『お前たちはダメだ』と教師に向って罵倒の言葉を投げつけておいて、『ついては教育改革をするように』と要求するというのは無理です。…『教師を罵倒する』というのが最悪の選択だということは誰だってわかるはずです。」(54~55ページ)

 学校の先生というのは、確かに、就職先として、多くの学生たちが志望する先であると同時に、つらい職場である、大変苦労の多い職場であるという話はついてまわる。現場の先生たちが疲弊しているということも、多々語られることだ。

 「僕は『教育』というものを『集団の存続のために公共の福祉を優先的に配慮できる一定数の公民を育てること』というふうに定義しています。」(66ページ)

 「学びのシステムを持たない集団は存続することができない。…教育制度が存在するは、共同体が生き延びるためです。」(83ページ)

 教育は、授業を受ける子どものためにあるのではない。まして、その親のためにあるのでもない。教育を受ける子どもが、成績良く学んで、個人として立身出世をするとか、良い会社に就職するとか、そういう個人的なメリットのためにあるのではない。

 「教育とは代価に見合う教育商品・教育サービスを提供するビジネスの一種である」(85ページ)などという考えが蔓延するところに教育の危機は存するのだという。

 顧客である学生、生徒に教育サービスを提供する販売員が教師であるなどという勘違いがまかり通っていると。

 「下流志向」(講談社)についての解説ではこう言う。

 「この本での結論は、『学びからの逃走』は市場原理が教育課程に侵入してきたことの必然的な結果だということでした。」(258ページ)

 続けて、教育のみでなく、社会全体のことまで論は広げられる。

 「あらゆる社会制度を市場原理の中に溶かし込んでゆく流れがあります。世界に行き交うすべてのものは『商品』に変えられる。それが誰でも『貨幣』で売り買いできるように、値札をつけて『市場』に並べられる。『消費者』たちはそれらの『商品』を比較考量して、最も安価で、最も質の良いものを選択する権利があり、義務がある。これが市場原理に基づく世界の成り立ち方です。これを全世界的な規模で、例外なし、『聖域』なしに、すべての人間的事象に適用しようとするのがグローバリズムです。」(258ページ)

 「自由貿易主義者は『関税障壁』『非関税障壁』というものを目の敵にしますが、その『障壁』はどれも機能は同じです。ものの流れを妨げることです。グローバリティー(全体包括性)に対するローカリティー(部分分離性)です。」(259ページ)

 「固有の言語もまたグローバル化に対する強力な障壁として機能する。/そして、通貨、度量衡、宗教、商習慣、食文化などなど。これらはすべて国民国家のローカリティーをかたちづくる『障壁』です。」(260ページ)

 「グローバリストにとって当面の政治的課題が『国民国家の解体』であるのは当然のことです。」(261ページ)

 この行論が、現在のTPPに関する議論と関連していることはいうまでもない。TPPとは、あらゆる障壁をなくそうとする動きである。その流れで、スローフードの運動とは何かも語られる。

 「食文化の『マクドナルド化』や生活習慣の『アメリカナイゼーション』はもう半世紀以上前から全世界的スケールで進行しております。これがたぶん最も成功したグローバル化の様態と言えるでしょう。/でも、もちろんこれに対する反グローバリズム的な運動もあります。イタリアの『スローフード』運動がそうです。伝統的な食材を伝統的なレシピで食べるという流れです。」(262ページ)

 そして、もう一度、教育のことに立ちかえる。

 「現代の教育崩壊の最大の原因は、本来教育に関与すべきでないとされる二つのもの、政治と市場が教育に全面的に関与してきたことの結果であると僕は考えています。緩慢にしか変化すべきでない教育システムに向って、『政治的状況と市場動向に伴って、学校はめまぐるしく変化しなければならない』と言うわけですから、教育制度が土台から揺らぐのはあたり前のことです。」(268ページ)

 教育は、市場と政治からできるだけ遠く離しておかなければならない。

 

 内田樹と言えば、レヴィナスを語らないわけにはいかない。

 「レヴィナスと愛の現象学」(文春文庫)に関して、「レヴィナスはいわば『自分で自分の髪の毛をつかんで、中空に浮こうとしている』人間に似ています。」(166ページ)

 「この世界に整序をもたらし、霊的な『雪かき仕事』をするのは生き残った人間の役割です。もしアウシュビッツを生き延びた人間に生き残った根拠があるとすれば。それは『私がアウシュビッツを生き延びることには根拠がない』という事実をまっすぐに受け入れることしかありません。/逆説的な言い方になりますが、『自分がここに存在することにあらかじめ用意された根拠はない』という命題を引き受け、『それゆえ、私が存在することの根拠は、私がこれから自力で構築するしかないのだ』という実践的な宣言をなすものだけがおのれの存在根拠を見いだすことができる。」(166~167ページ)

 「『自分の髪の毛をつかんで中空に引き上げる』ものに足を支える根拠はありません。でも、人間は『そういうこと』ができる。なぜか、できる。じりじりとしか持ち上がりません。でもじりじりとなら持ち上げられる。そういうアクロバシ―が人間にはできる。それこそがおそらく人間を人間たらしめている本質的な力なのだ、と。」(167ページ)

 「主体性を基礎づけるのは『私はここに存在する』という単なる名乗りではありません。そんなことをいくら大声で呼ばわっても、私たちの主体性は基礎づけられない。『私はここに存在する』という名乗りが主体性の基礎づけになるのは、それが『どこかに人間はいますか?』という問いかけに対して『はい、ここにいます』と答えたときです。『私があなたの探しているその人間です』と答えて、一歩踏み出したときに、その人は他の誰によっても代替不能であるようなおのれの唯一無二性を証し立てることができる。」(177ページ)

 「私の他には名乗り出る人がいないときに名乗り出ること、それが『選び』ということの本質であり、それが主体を主体ならしめる。レヴィナスはこう書いています。」(178ページ)

 このあたりのことは、大変難しいことかもしれない。

 レヴィナスについては、そう簡単に言ってしまうことはできない。まるごと引用してそのまま投げ出しておくほかない、というように。

 でも、少しだけ、言い直して見ようか。

 「私が存在することの根拠は、私がこれから自力で構築するしかない」。そして、「私はここに存在する」という言葉が意味を持つのは、助けを必要とする誰かに求められたとき、それに応答するときのみであるということ。さらには、他の誰もが応えないときに「私が」、「私こそが」と名乗り出るときのみであるということ。

 これは、私が、成年に達する前から、考えていたことであるような気がする。そして、いま、ここにいたって、直面していることでもあるような気がする。

 内田樹は、反グローバリズムで、ローカリズムの側に立つし、教育は、そう簡単にころころと変えてはいけないと言う。これは、私もまったくそう思う。そういう立場に立つ。いま、内田樹が、社会の在り様に関して、もっとも妥当なことを述べる、準拠すべき論者である、と思う、私にとって。教育は、そう簡単に変えてはいけない。

 

 さて、また別のことになるが、科学というものについて、「街場のアメリカ論」(初版NTT出版)についての論のなかで、こういうことを言っている。

 「ポパーの卓抜な比喩を借りれば、仮説は闇夜を照らすサーチライトのようなものです。…あらゆる科学的理論は『諸事実の選択と整序に際してわれわれを援助することをもって機能とする暫定的仮説』以外のものではありません。」(214ページ)

 あらゆる科学の理論は、当然にいつでもどこでも正しいのだ、ということはない、という話。科学的な根拠のある話、最近はやりの言い方で言えば「エヴィデンス」がある話、というのも、いつでもどこでも正しいのだと鵜呑みにしてはいけないということ。「あらゆる科学的理論」は、常に「暫定的仮説」に過ぎないのである。本当の科学者は、いつも謙虚なものなのだ。

 文学者は、常に嘘つきであるが、ほんとうの科学者は、「私は常に正しい」などとは言わないものだ。

 


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