月曜日
晴天
祝日・体育の日
秋の味覚といえば、もちろん焼いも、作りました。
皆様に「うまいうまい」と言はれ、ついつい調子に乗っ
て、フライパンの前に陣取る。(厚手のフライパンに合
う素材は、茨城県産のイモ、後はジャガイモだけ。それ
以外はパッとしなかった。)
イクヨの仲間達には好評だったと思う?
(ヨシノ・カノウナツ・ヨシダ・ムラカミ・オオツ)
焼いも
メールで知らせる。
ウチイケに持って行こう
19:30~地区協議会 田中宅
終わって
ナカヤマ地区部長とマクドーでコーヒータイム
女店員さんより挨拶される。(嬉しかった)
PCからのメールが通じなかったので、設定を
解除してもらう。
大陸発見記念日(Columbus Day)
(アメリカ合衆国) 1492年、クリストファー・コロンブス
(クリストバル・コロン)が率いるスペイン船隊が新大陸アメリカに到達した。
西周りの航海でジパング(日本)とインドを目指したもので、コロンブスは最
初の到達地がインドだったと亡くなるまで信じていたた。
―こよみのページ‐http://koyomi.vis.ne.jp/より―
クリストファー・コロンブス
1451年頃 - 1506年5月20日)はイタリアのジェノヴァ出身の探検家・航海者・
商人。大航海時代において最初にアメリカ海域へ到達したイタリア人である。
―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』―
コロンブス ―「我が生命の永遠の軌道を」全集69―
コロンブス(一四五一年~一五〇六年)についてはあまりに有名であり、
皆さま方もよくご存じのことと思う。ヨーロッパから西方のアジアに
向かう西回り航路の発見を夢見て、アメリカ大陸に到達したコロンブ
ス。新大陸の先住民の立場からの批判もあるが、人間世界を大きく広
げた彼の先駆性は、歴史上高く評価されていくにちがいない。しかし、
彼の後半生はどうだったか。
彼は四度にわたる航海を行う。第一回はバハマ諸島の一つに到着、キュ
ーバ、ハイチなどの島々を探検し、大成功で帰ってくる。
彼の名声はヨーロッパ中にとどろきわたった。第二回の航海は、船は十
七隻、千五百人にのぼる乗員で意気揚々と出発するが、思ったほどの成
果を生まない。
第三回、第四回と彼は航海に出る。しかしそれほどの成功はしない。
とくに二回目、三回目の航海の折には、コロンブスに対する多くの不満
の声が植民地から本国に持ちこまれており、王室や世間から冷たい目で
見られるようになっていた。第三回のさいには、査察官によって手錠を
かけられ、スペインに送還されるほどであった。
最初は、王室も世間も讃嘆し、大英雄であった。そして今に残る新大陸
到達者としての名声。しかし、それに反し、晩年は不遇であった。
関節炎やマラリアにかかり、王室の冷遇に不平をかこちながら、失意の
うちにその生涯を終えている。
さてコロンブスの生涯で、指導者としての教訓となるものが一つある。
それは、「開拓者」として必要な「先駆性」「行動力」をもっていたコロン
ブスも、その開拓された土地で、「指導力」「統率力」が発揮できなかった
ことである。
そのため現地には多くの不満や反発があり、それが国王らの耳に達し、王
室からの冷遇となって彼自身にはねがえってきている。
―池田先生のスピーチより―
晴天
祝日・体育の日
秋の味覚といえば、もちろん焼いも、作りました。
皆様に「うまいうまい」と言はれ、ついつい調子に乗っ
て、フライパンの前に陣取る。(厚手のフライパンに合
う素材は、茨城県産のイモ、後はジャガイモだけ。それ
以外はパッとしなかった。)
イクヨの仲間達には好評だったと思う?
(ヨシノ・カノウナツ・ヨシダ・ムラカミ・オオツ)
焼いも
メールで知らせる。
ウチイケに持って行こう
19:30~地区協議会 田中宅
終わって
ナカヤマ地区部長とマクドーでコーヒータイム
女店員さんより挨拶される。(嬉しかった)
PCからのメールが通じなかったので、設定を
解除してもらう。
大陸発見記念日(Columbus Day)
(アメリカ合衆国) 1492年、クリストファー・コロンブス
(クリストバル・コロン)が率いるスペイン船隊が新大陸アメリカに到達した。
西周りの航海でジパング(日本)とインドを目指したもので、コロンブスは最
初の到達地がインドだったと亡くなるまで信じていたた。
―こよみのページ‐http://koyomi.vis.ne.jp/より―
クリストファー・コロンブス
1451年頃 - 1506年5月20日)はイタリアのジェノヴァ出身の探検家・航海者・
商人。大航海時代において最初にアメリカ海域へ到達したイタリア人である。
―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』―
コロンブス ―「我が生命の永遠の軌道を」全集69―
コロンブス(一四五一年~一五〇六年)についてはあまりに有名であり、
皆さま方もよくご存じのことと思う。ヨーロッパから西方のアジアに
向かう西回り航路の発見を夢見て、アメリカ大陸に到達したコロンブ
ス。新大陸の先住民の立場からの批判もあるが、人間世界を大きく広
げた彼の先駆性は、歴史上高く評価されていくにちがいない。しかし、
彼の後半生はどうだったか。
彼は四度にわたる航海を行う。第一回はバハマ諸島の一つに到着、キュ
ーバ、ハイチなどの島々を探検し、大成功で帰ってくる。
彼の名声はヨーロッパ中にとどろきわたった。第二回の航海は、船は十
七隻、千五百人にのぼる乗員で意気揚々と出発するが、思ったほどの成
果を生まない。
第三回、第四回と彼は航海に出る。しかしそれほどの成功はしない。
とくに二回目、三回目の航海の折には、コロンブスに対する多くの不満
の声が植民地から本国に持ちこまれており、王室や世間から冷たい目で
見られるようになっていた。第三回のさいには、査察官によって手錠を
かけられ、スペインに送還されるほどであった。
最初は、王室も世間も讃嘆し、大英雄であった。そして今に残る新大陸
到達者としての名声。しかし、それに反し、晩年は不遇であった。
関節炎やマラリアにかかり、王室の冷遇に不平をかこちながら、失意の
うちにその生涯を終えている。
さてコロンブスの生涯で、指導者としての教訓となるものが一つある。
それは、「開拓者」として必要な「先駆性」「行動力」をもっていたコロン
ブスも、その開拓された土地で、「指導力」「統率力」が発揮できなかった
ことである。
そのため現地には多くの不満や反発があり、それが国王らの耳に達し、王
室からの冷遇となって彼自身にはねがえってきている。
―池田先生のスピーチより―