金曜日
キュリー夫人を語る25
◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8
生涯の味方
一、かつて、私の母が、まさに臨終という時に、「私は勝った」と語りました。それは、なぜか。
「どんな中傷、批判を受けてもいい、人間として社会に貢献するような、そういう子がほしかった。そして、自分の子にそういう人間が出た。だからうれしいんだ。社会のためにどれだけ活躍したか、挑戦したか、それを見たかったんだ」というのです。
皆さん方もどうか、短大に送り出してくれた父母の深き真心に応えていってください。お父さんやお母さんが、「私は勝った!」と言ってくれるような娘に成長してください。
創立者である私と妻は、大切な皆さん方の前途を、皆さんの生涯の味方として、つねに祈り見守っております。
短大生 一人ももれなく 幸福王女たれ
「私はやりきった!」と
勝利の人生を飾れ
一、キュリー夫人は、優れた教育者でもありました。
「一国の文明は国民教育に割かれる予算の比率で測定される」というのが彼女の持論でした。
(イレーヌ・キュリー著、内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)。
ピエールと結婚してまもなく、キュリー夫人は教員の免許を取り、苦しい家計を改善するために、パリの女子高等師範学校に勤めたことがあります。
この学校は、一流の大家の授業を女性に受けさせる目的で設立された学校で、マリー・キュリーは、初の女性教師となりました。
教え子たちに安心感を与えた
一、教え子の一人は、こう振り返っています。
「キュリー夫人の講義が私に光をもたらした。私たちを眩惑したのではなく、安心感を与え、ひき寄せ、ひきとめた。夫人の性格の率直さ、感受性の細やかさ、私たちのために役に立ってやりたいという願い、私たちの無知と私たちの可能性を同時によく心得ていたこと、そういうものがその原動力だった」
(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)
マリーは、学生たちのために入念な準備をして、授業のやり方も、工夫に工夫を重ねました。
さらに授業の方法や、学校で教える内容自体も、「どうしたら学生のためになるか」を根本に考え、積極的に学校の責任者に訴え、改革していった。マリーは若く、地位も高くありませんでしたが、下から上を変えていったのです。
また、女子学生たちを自宅に招き、親身に相談に乗ってあげました。
家族のこと、勉強のこと、生活のこと、将来の進路についてなど、親切に聞き、真剣に耳を傾け、一人一人の課題に、真心のアドバイスをしています。
当初、マリーは、厳しそうな、近づきがたい先生に見えました。しかし、その奥に、じつに温かい心があるのを知り、女子学生たちは、彼女を深く慕っていくようになったのです。
苦労する学生に手をさしのべた
一、マリーは、博士号の取得に挑んだとき、教え子を、学位論文の公開審査の席に招きました。
どきどきしながら、その光景を見守っていた彼女たちは、試験官の質問に、マリーが的確に、見事に答えるのを目の当たりにし、まるで、わがことのように嬉しくなりました。
彼女たちの一人は、こう綴っています。
「ほかの女性に対する何という大きな手本を、励ましを、マリ・キュリーは今ここに与えたことだろうか!」
(前掲、杉捷夫訳)
マリーは、自分が勝利の実証を示すことで、後に続きゆく若き女性たちの心に、自信と誇りを植え付けていったのです。
皆さん方の先輩たちも、そうした心で、母校の後輩に尽くしてくれていることを、私と妻は、いつも涙が出る思いで見つめております。
マリーは記しました。
「実験室において、教授たちが学生に影響を及ぼすことができるのは、彼らに権威があるからではなく、彼ら自身に科学への愛情と個人的な資質が備わっていることによるところがはるかに大きい」スーザン・クイン著、田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
「権威」で、若き学生の心をつかむことはできません。
マリーは、自分自身が学生時代、大変な苦労をしたからこそ、貧しいなかで勉学に励む学生を見ると、ほうっておけなかった。後輩たちのために奨学金の手配をしてあげたり、さまざまな援助を惜しみませんでした。
そうした姿は、学生のために尽くされる、創価女子短期大学の教員の先生方、職員の皆さん方とも重なり合います。
恩を忘れない
一、彼女は、自分が受けた「恩」を忘れない女性でもありました。
学生時代、マリーは、友人の奔走によって、ある財団から奨学金を受けていました。
マリーは後に、少ない収入の中から懸命に工面して、奨学金として受けとった全額を持参して財団を訪れております。
本来、この奨学金は返す必要のないものでした。それを返すというのは、前代未聞のことであり、担当者は大変に驚きました。
マリーは、自分と同じような境遇の女子学生が困っているかもしれない。だから、一刻も早く返さなければいけないと考えたのです。彼女の律義にして、まっすぐな、そして誠実そのものの人柄をほうふつさせるエピソードです。
マリーは、ラジウム製法の特許取得を放棄し、生涯、質素に暮らしました。それでも、少ない財産の中から、困っている人々のための援助を捻出していました。
かつて親切にフランス語を教えてくれた貧しい女性のために、旅費を工面し、里帰りしたいという希望を叶えてあげたこともあります。その後、この女性は思い出を振り返り、マリーの優しさに熱い涙を流して感謝しました。
一、故郷ポーランドのことも、決して忘れたことはありませんでした。
晩年に彼女が指揮したラジウム研究所には、さまざまな国籍の研究者がやっできましたが、そのかには必ず、ポーランド人がいました。
また、ポーランドに放射能の研究所を建設する計画が持ち上がったときは、彼女の最も優秀な教え子たちを派遣しています。その一人に、ヴェルテンステイン博士という大学者がいました。
彼は後に、ポーランド物理学会の創設者の一人となりますが、この方に師事したのが、パグウォッシュ会議の議長を務め、ノーベル平和賞を受賞したジョセフ・ロートブラット博士です。
ロートブラット博士と私は対談集を発刊しました。沖縄で会見したとき、博士は、マリー・キュリーが亡くなる2年前に会った思い出を、しみじみと述懐しておられました。ロートブラット博士は、まさに、マリー・キュリーの孫弟子に当たるわけです。
戦地を走り負傷者を救助
一、第1次世界大戦が勃発すると、マリーは、長女のイレーヌとともに、負傷者の救護に奔走しました。
48歳で車の運転免許を取り、自ら開発したレントゲン車のハンドルを握り、負傷者の救助のために戦地を駆け回った。彼女は行動の人でもあったのです。
役人の抵抗に遭いながらも、20台の自動車にレントゲン装置をつけ、さらにレントゲン装置を備えた200の放射線治療室をつくった。そして、220班の救護隊を訓練しました。
このマリーの取り組みによって、銃弾などが体内のどこにあるかを知ることができ、効果的な治療が可能となったのです。この診察を受けた負傷者は、100万人を超えたといわれます。
惨状を目にしたマリー・キュリーは、「戦争の理念それ自体にたいしてにくしみ」を抱いていました
(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)。
イレーヌは、「何よりも母が腹をたてたのは、軍事費のためあらゆる国々の富の大半が吸いとられ、有用な活動が阻害されるのを見ることでした」(前掲、内山敏訳)と語っています。
後年、マリーは「平和のための知性の連帯」を築くため、国際連盟の活動にも参加しています。
彼女は学生に尽くした
教え子の回想 「何という大きな手本と励ましを与えたことだろうか」
キュリー夫人を語る25
◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8
生涯の味方
一、かつて、私の母が、まさに臨終という時に、「私は勝った」と語りました。それは、なぜか。
「どんな中傷、批判を受けてもいい、人間として社会に貢献するような、そういう子がほしかった。そして、自分の子にそういう人間が出た。だからうれしいんだ。社会のためにどれだけ活躍したか、挑戦したか、それを見たかったんだ」というのです。
皆さん方もどうか、短大に送り出してくれた父母の深き真心に応えていってください。お父さんやお母さんが、「私は勝った!」と言ってくれるような娘に成長してください。
創立者である私と妻は、大切な皆さん方の前途を、皆さんの生涯の味方として、つねに祈り見守っております。
短大生 一人ももれなく 幸福王女たれ
「私はやりきった!」と
勝利の人生を飾れ
一、キュリー夫人は、優れた教育者でもありました。
「一国の文明は国民教育に割かれる予算の比率で測定される」というのが彼女の持論でした。
(イレーヌ・キュリー著、内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)。
ピエールと結婚してまもなく、キュリー夫人は教員の免許を取り、苦しい家計を改善するために、パリの女子高等師範学校に勤めたことがあります。
この学校は、一流の大家の授業を女性に受けさせる目的で設立された学校で、マリー・キュリーは、初の女性教師となりました。
教え子たちに安心感を与えた
一、教え子の一人は、こう振り返っています。
「キュリー夫人の講義が私に光をもたらした。私たちを眩惑したのではなく、安心感を与え、ひき寄せ、ひきとめた。夫人の性格の率直さ、感受性の細やかさ、私たちのために役に立ってやりたいという願い、私たちの無知と私たちの可能性を同時によく心得ていたこと、そういうものがその原動力だった」
(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)
マリーは、学生たちのために入念な準備をして、授業のやり方も、工夫に工夫を重ねました。
さらに授業の方法や、学校で教える内容自体も、「どうしたら学生のためになるか」を根本に考え、積極的に学校の責任者に訴え、改革していった。マリーは若く、地位も高くありませんでしたが、下から上を変えていったのです。
また、女子学生たちを自宅に招き、親身に相談に乗ってあげました。
家族のこと、勉強のこと、生活のこと、将来の進路についてなど、親切に聞き、真剣に耳を傾け、一人一人の課題に、真心のアドバイスをしています。
当初、マリーは、厳しそうな、近づきがたい先生に見えました。しかし、その奥に、じつに温かい心があるのを知り、女子学生たちは、彼女を深く慕っていくようになったのです。
苦労する学生に手をさしのべた
一、マリーは、博士号の取得に挑んだとき、教え子を、学位論文の公開審査の席に招きました。
どきどきしながら、その光景を見守っていた彼女たちは、試験官の質問に、マリーが的確に、見事に答えるのを目の当たりにし、まるで、わがことのように嬉しくなりました。
彼女たちの一人は、こう綴っています。
「ほかの女性に対する何という大きな手本を、励ましを、マリ・キュリーは今ここに与えたことだろうか!」
(前掲、杉捷夫訳)
マリーは、自分が勝利の実証を示すことで、後に続きゆく若き女性たちの心に、自信と誇りを植え付けていったのです。
皆さん方の先輩たちも、そうした心で、母校の後輩に尽くしてくれていることを、私と妻は、いつも涙が出る思いで見つめております。
マリーは記しました。
「実験室において、教授たちが学生に影響を及ぼすことができるのは、彼らに権威があるからではなく、彼ら自身に科学への愛情と個人的な資質が備わっていることによるところがはるかに大きい」スーザン・クイン著、田中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
「権威」で、若き学生の心をつかむことはできません。
マリーは、自分自身が学生時代、大変な苦労をしたからこそ、貧しいなかで勉学に励む学生を見ると、ほうっておけなかった。後輩たちのために奨学金の手配をしてあげたり、さまざまな援助を惜しみませんでした。
そうした姿は、学生のために尽くされる、創価女子短期大学の教員の先生方、職員の皆さん方とも重なり合います。
恩を忘れない
一、彼女は、自分が受けた「恩」を忘れない女性でもありました。
学生時代、マリーは、友人の奔走によって、ある財団から奨学金を受けていました。
マリーは後に、少ない収入の中から懸命に工面して、奨学金として受けとった全額を持参して財団を訪れております。
本来、この奨学金は返す必要のないものでした。それを返すというのは、前代未聞のことであり、担当者は大変に驚きました。
マリーは、自分と同じような境遇の女子学生が困っているかもしれない。だから、一刻も早く返さなければいけないと考えたのです。彼女の律義にして、まっすぐな、そして誠実そのものの人柄をほうふつさせるエピソードです。
マリーは、ラジウム製法の特許取得を放棄し、生涯、質素に暮らしました。それでも、少ない財産の中から、困っている人々のための援助を捻出していました。
かつて親切にフランス語を教えてくれた貧しい女性のために、旅費を工面し、里帰りしたいという希望を叶えてあげたこともあります。その後、この女性は思い出を振り返り、マリーの優しさに熱い涙を流して感謝しました。
一、故郷ポーランドのことも、決して忘れたことはありませんでした。
晩年に彼女が指揮したラジウム研究所には、さまざまな国籍の研究者がやっできましたが、そのかには必ず、ポーランド人がいました。
また、ポーランドに放射能の研究所を建設する計画が持ち上がったときは、彼女の最も優秀な教え子たちを派遣しています。その一人に、ヴェルテンステイン博士という大学者がいました。
彼は後に、ポーランド物理学会の創設者の一人となりますが、この方に師事したのが、パグウォッシュ会議の議長を務め、ノーベル平和賞を受賞したジョセフ・ロートブラット博士です。
ロートブラット博士と私は対談集を発刊しました。沖縄で会見したとき、博士は、マリー・キュリーが亡くなる2年前に会った思い出を、しみじみと述懐しておられました。ロートブラット博士は、まさに、マリー・キュリーの孫弟子に当たるわけです。
戦地を走り負傷者を救助
一、第1次世界大戦が勃発すると、マリーは、長女のイレーヌとともに、負傷者の救護に奔走しました。
48歳で車の運転免許を取り、自ら開発したレントゲン車のハンドルを握り、負傷者の救助のために戦地を駆け回った。彼女は行動の人でもあったのです。
役人の抵抗に遭いながらも、20台の自動車にレントゲン装置をつけ、さらにレントゲン装置を備えた200の放射線治療室をつくった。そして、220班の救護隊を訓練しました。
このマリーの取り組みによって、銃弾などが体内のどこにあるかを知ることができ、効果的な治療が可能となったのです。この診察を受けた負傷者は、100万人を超えたといわれます。
惨状を目にしたマリー・キュリーは、「戦争の理念それ自体にたいしてにくしみ」を抱いていました
(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)。
イレーヌは、「何よりも母が腹をたてたのは、軍事費のためあらゆる国々の富の大半が吸いとられ、有用な活動が阻害されるのを見ることでした」(前掲、内山敏訳)と語っています。
後年、マリーは「平和のための知性の連帯」を築くため、国際連盟の活動にも参加しています。
彼女は学生に尽くした
教え子の回想 「何という大きな手本と励ましを与えたことだろうか」