モーツァルト@宇奈月

湯の街ふれあい音楽祭 モーツァルト@宇奈月
scince2010年秋。毎年9月に音楽祭を開催しております。

1月27日はモーツァルトの誕生日

2014年01月27日 | モーツァルト伝
きょうは、モーツァルトの誕生日です。1756年生まれなので、まあ、200何才かですね(笑)
日本では、宝暦6年。中国は、乾隆(けんりゅう)帝の治世です。
日本の歴史と対照すると、そんなものなんだなって思います。浅間山の噴火とか、天明の大飢饉とかがモーツァルトの生きていた時代のことですね。
モーツァルトがない世界なんて、今の私たちには考えられません。

モーツァルトの時代はイギリス産業革命です

2013年09月25日 | モーツァルト伝
宇奈月アマデウス祝祭管弦楽団のリハーサル見学会のためにモーツァルトについて調べてみました。同じ時代にどんなことがあったんだろうと、そういうことです。何となく古い人って感覚だけで、うまく歴史の風景とかみ合わないんですよね。
1756年生まれですから、生きていらっしゃったら、250歳をちょっと過ぎたところで、4回目の還暦ってところですか。さんじゅでも4回目かな。亡くなってから50年目にザルツブルクでモーツァルト音楽祭が開かれ、今のザルツブルク音楽祭につながっているので、200年くらいやっているんですね、あの音楽祭は。すごいなあ。もっとも、日本でも100年以上のおまつりはあるし、伊勢神宮の式年遷宮なんて1000年単位ですから。
それで、モーツァルトの頃の日本はっていうと、寛政の改革の頃です。地球規模で影響を与えたと言われ、北半球を凶作にしてフランス革命のきっかけになったとも言われる浅間山の大噴火とそれに続く東北の飢饉の、ちょうどそのあたりです。噴火で巻き上げられた火山灰が日差しを遮って寒くなったわけです。
アメリカでは独立宣言から独立戦争、フランスはフランス革命。
フランス革命から2年後だったかな、処刑されたルイ16世の王妃マリー・アントワネットに6歳のアマデウスが求婚したエピソードが残っているわけです。
イギリスでは、ワットの蒸気機関が発明され、水力発電もこの時代に生まれました。産業革命がいよいよ曙光を放ち始めたわけです。
そんな風に考えると、王家とかいう時代から近代へ移ろうとする時代だったことがよくわかりますね。諸侯が音楽家に曲を注文して自分たちのために演奏する、あるいは、パトロンとして庶民に聞かせる。そんな時代がいよいよ終わろうとしている感じです。時代の変わり目にこういう天才が現れるものなのでしょう。あるいは、天才が現れたゆえに時代が変わるのか。いずれにしても、時代の空気が天才を天才たらしめた感じはあります。
新しい楽器が生まれたり、次々に改良されたり。ピアノもそうです。チェンバロからフォルテピアノへと進む時間にアマデウスは好奇心満載のきらきらした目を輝かせてその響きから曲を描いていたでしょうね。
そんなことを考えていました。

あ、これじゃなかった。これはきてぃ・みゅーじっくるーむさんのピアノ。

これです、これ。練習中の稲生亜沙子さんです。今のピアノに比べると、ハンマーのストロークが半分くらいしかなかったので、あのアマデウスの軽妙さはそこから生まれたという人もあります。
アマデウスが、シンセサイザー知っていたらどんな曲を作っただろう。
ね、滝沢卓さん。あ、ちょっと似てるな。風の音楽家と勝手に呼んでいます。
中断していましたモーツァルト伝、近日中に再開します。イラスト入りで絵本仕立てにするつもりです。お楽しみに。

もうひとりのアマデウス

2012年12月27日 | モーツァルト伝
歴史上もっともよく知られた音楽家のひとり、アマデウス・モーツァルトは、厳しい父とアマデウス自身の母への思慕、アマデウスの陰でその才能を発揮することなく生涯を終えた姉とともに、家族の物語として語られることも多くあります。

実は、、もうひとり、アマデウスがいたことが、黒部市国際文化センター「コラーレ」の通信紙「コラーレ・タイムス」に掲載されています。
2月11日の「コンサートforキッズ」に関連した今月のキーワードとして紹介されています。
モーツァルトの息子フランツは、アマデウスの死後、母のもとで父の夢を再び果たすべく厳しく育てられます。2歳の時には、父と同じアマデウスに改名し、もうひとりのアマデウスが誕生します。
彼の運命が如何に展開したかは、ぜひ、「コラーレ・タイムズ」をお読みください。
歴史は人の生き方の重なりで生まれます。
ここにも、奥深い襞を感じさせますね。

モーツァルトの自由

2011年07月30日 | モーツァルト伝
モーツァルトの楽曲の特徴として、フォルテやピアノなどの指示が少ないのだそうです。それゆえ、演奏者やコンダクターに自由度があるという話を聞きました。
なるほど、そういうこともあるのかもしれません。
モーツァルトを再現するということではなく、モーツァルトの音楽を創造する瞬間が、モーツァルトの楽曲にかかわったものには訪れるような気がします。

長屋のモーツァルト3

2011年02月20日 | モーツァルト伝
毎度のお運びに感謝申し上げます。そろそろ、春めいてまいりましたな。オーストリアなんてなところも、こう2月あたりになるってえと、こう日差しがめっきり明るくなるんですかな。いいもんですなあ。
 昔の奉公人なんてのは、1年に2回、1月16日と、8月16日だけお休みがもらえたなんて話で、奉公に上がってから3年は里心がつくといけないなんてことで、家に帰ることも許されず、家の近くのご用向きなんてのも他の小僧さんにやらせるなんてことだったようですな。
 なかまが藪入りに帰っている日には、1月なら寒さの盛りです。すっかり人気のすくない部屋でせんべい布団にくるまって、おっかあなんて泣いていたのかもしれません。
 だから、旦那さんに呼ばれて、お前もそろそろよかろう、里心がつくなんて心配もあるまいなんてお許しを頂戴して、最初の藪入りなんてことになると、これはもう何日も前から、帰るほうも迎える方もそれはもううきうきで。金馬さんのおはこだった「藪入り」なんてのは、そこらをよく描いていますな。
 こちらのお話に出てくるみのきちは、もう奉公に上がって何年か経って、自分の時間も少し持ているような、そんな年頃でしょう。なじみのお客さんや、なかよしも増えていることでしょう。

八:ええ、そうなんですよ。ご隠居に聞いたら、まあ、それが大変な話だったんです。まさかそんなこととは思っていないでしょう。びっくりしました。
みのきち:へー、それでこれがその曲のことを書いたもんなんだね。すごういじゃないか、八さん、熊さん。
八:ええ、ま、この湯豆腐がおいしくってね。ここらの豆腐てなあ、箸で割るくらいのもんでしょ。それが真っ白で、すっと触るだけで切れちゃうくらいに柔らかくってきめが細かい。何でも京豆腐なんだそうで、京の女に人はこういうのを食べていなさるからあんなにきれいで。あ、違いますね。そっちの話じゃなくて。
熊:おかべっていうんだそうだ。
八:だから、そっちじゃないだろう。へえ、おかべっていうんだそうです。まろはおかべが所望じゃなんておっしゃるんですかね、へえ。いやいや、そっちじゃなくて「しんどう」の方だって。
みのきち:おかべってのかい。そっちもいいけど、へー、「しんどう」ってのは音楽を作る人だったんだね。これが、その人が書いたものなの。田んぼの中におたまじゃくしが泳いでいるみたいだね。
八:ほら、ほらほら、熊、そうだよ。みのきちさんだってそういうじゃねえか。あっしもそういったんですよ、ねえ、そう見えるでしょう。どうも、音の高さや長さなんかを指図したものらしいんですがね、あとで長唄の師匠にでも見せてみようかと思っているんですよ。
みのきち:ほんとだね。話を聞くと、本当の音が聞きたくなるね。どんな曲なんだろうか。でも、どうして、そんなことをご隠居がご存じだったんだろう。
八:ええ、そこんところです。いちばん驚いたのは。あんまり、どこにでも聞こえちゃよくないようなんで、ちいせえ声で話しますがね。大黒屋ってのは先代から始まったお店だそうですが、へえ、そうです、今の旦那が三代目になりますね。ご隠居が2代目。お店も順調に大きくなっていますが、初代は何でもけっこうな年になってからお店を始められたんです。蝦夷地から帰ってこられて、蝦夷地や何かと交易するような商売を始めて、まあ、今のようなお店になったそうで。
みのきち:そうだよ。うちのお店でもご贔屓いただいているんだ。ずいぶん、苦労されたんだとかご隠居が話されたことがあったよ。
八:そうでしょう、そうでしょう。実は、ご隠居の先代ってのは、元々は伊勢の船乗りだったそうです。江戸まで荷物を運ぶ途中に嵐にあったんだそうです。
みのきち:そら、大変だね。で、どうなったの。
八:半年だか、そこら海の上を流れて、流れ着いたのは、蝦夷地のまださらに北の島で。とにかく、その島で4年ほど、島の人とすごしたそうですが、ことばも身の回りのことも全部違うのでずいぶん面倒もおおかったようです。
みのきち:え、外国の人といっしょにくらしていたの?それご禁制でしょう。
八:そうなんですよ。だから、大きな声で話せないんです。先代ってのはたいした人ですね。どうしても国に帰りたいってんで、なんとかその方法を工面しようと、とにかく島を出て、おろしあに行こうと、いかだのようなものをこしらえておろしあの陸までなんとかたどり着いたんだそうです。そこから、おろしあの帝にお願いすればなんとかあるんじゃないかってんで、あっしらは「地球儀」てのを見せてもらったんですが、そこには日本なんか見えないくらいに小さくて、その何百倍もありそうなおろしあのさらに向こうの端っこにある都まで出かけて、なんとかみかど、いや、このみかども女の人だっていうんですけれどね、お願いして、帰ってくることができたんだそうです。船で嵐に遭ってから10年ほどだそうです。
みのきち:じゃあ、お店を開いたのはそのあとのことだね。
八:ええ、そうなりますね。先代は蝦夷地に着いて、そこから江戸にきなすったということらしいんです。こっちで所帯持って、蝦夷地と荷物のやり取りする商売を始められたんだそうで。大黒屋ってのは、船頭の時のなめえで、そのまんま屋号にしたんだそうですよ。
みのきち:じゃあ、どうして「しんどう」なんてのを知ってたんだろうね。
八:そこですよ、そこ。先代が、おろしあの帝に会ったっていったでしょ。そのためには、ずいぶん待たされたんだそうです。あっしらも、帝、天子さま、お上なんてのは近くに寄ることさえできねえや。お大名の行列だって、こうやって下向いていなくちゃなんねえ。それを、日本から流れていった人が会おうなんてのはとてもじゃないが考えられねえ。何でも先代が、こうやっておろしあの国の端から端までやってきたことに感激する人があって、まあ、お公家さんなのかな、そんな人が口をきいてくださったっていうけれど、それでも難儀なことだったはずですぜ。待っている間に、先代はなかなかいろんなことを勉強していく人だったようで、向こうの鳴り物も勉強しなすったにちげえねえんだ。そのときに、聞いたのが、「しんどう」の話で、この田んぼにおたまじゃくしも、そのときに手に入れなすったものらしいんです。
みのきち:へー、そうなんだ。それにしても、八さん、えらくしっかり覚えたじゃない。すごいね。ごめんね、あたしが変なこと聞くものだから。じゃ、「がくせい」ってのもその人のことなんだね。
八:そう、そうなんだそうです。「せい」ってのは、「聖人」のことで、「がく」ってのは、鳴り物っていうのか、曲のことなんだそうです。

ってんで、八が聞いてきたのは、今私たちが「がくせい」だの、「しんどう」だので聞き及んでいるモーツァルトの話。少々、時代のことばが混じり合っていますが、そこはご容赦を。

実は、このお話全くのフィクションなんですが、漂流してアリューシャン列島に流れ着き、そこからシベリアに渡り、さらにロシアを横断してエカテリーナに謁見。10年を経て日本に帰ってきた大黒屋光太夫。光太夫が遭難した1782年は、天明の飢饉、そして、モーツァルトは26才、コンスタンツェと結婚した年。エカテリーナに謁見した1791年はモーツァルトが亡くなった年です。
そんなことから、おそらくは、ロシアにも天才音楽家モーツァルトの名声は聞こえ、そして、ペテルブルクに滞在していた光太夫もそのことくらいは知っていたんじゃないかってんで、そういう作り話です。

帰国した光太夫は、松平定信らの聞き取りを受けた後、小石川に家をあてがわれ、妻も迎えているというので、じゃあ、大黒屋さんて店でも開いてロシアや蝦夷地交易くらいやっていても不思議じゃない。あ、ロシアは抜け荷になるか。そんでもって、この時代になれば、その光太夫の倅が隠居しているころ、世はまさに幕末の緊迫を増している季節かなと。直に鎖国が破れ、外国の文化が一気に入ってくる、その少し前にモーツァルトの音楽が長屋に華開くのであります。
「ジャズ大名」みたいだけど。

最後は講談調になりましたが、長屋のモーツァルト談義、次回をお楽しみに。


長屋のモーツァルト2

2011年01月29日 | モーツァルト伝
えー、毎度のお運びをありがとうございます。何ですな、こうして、道具も何もなく、適当な話を聞かせておあしをいただいている仕事ってのは、世界的に見ても落語ぐらいじゃないかってことで、だったら、ワシントン条約で保護したり、トキみてえにひとっところへ集めて人工繁殖、なんてことはできませんが。最近では、少し評判もよくなって落語に親しもう、落語で勉強しようなんて人も出てきた様子で、ありがたいことやら、同業が増えて迷惑やら。
 そんなことはどうでもよろしいですな。
 雪がずいぶん降って参りました。宇奈月のスキー場の方もなかなかよいコンディションです。また、そちらにもお運びをいただければうれしく思います。
 さて、江戸時代にモーツァルトのおうわさがあったら、てな変なことを考えたものですが、お話の2回目になります。オチがないので、少々心苦しいのですが、受験シーズンに配慮ということでご勘弁を。

 お店の丁稚みのきちに聞かれて「がくせい」「しんどう」のことを大黒屋のご隠居さんのところに聞きに行った八さん、熊さん、ご隠居が見せたいものがあるってなところで、前回お開き。

八;猿の頭蓋骨じゃあなけりゃあ、水母の肋骨かなんかだよ。
熊:そんなものあるわけねえじゃねえか。
八:あるわけないから珍しいじゃないか。そうだろ。
熊:この間、水神様の縁日に行くってえと6尺の大イタチがいるなんて威勢のいい声がかかるもんだから、まあ、話の種だ、だまされたと思って入ってみたわけよ。するってえと、だまされたね、うん。すっかり、だまされちまったい。
八:え、なんだい、イタチの大きいのをこうぎゅーっと引き延ばしたのかなんか
熊:なら、いいよ。小屋ん中入ってみると、長い板が立てかけてある。そこにイタチでも張り付いているのかと思ったけれど、どうもそうじゃねえ。おやじ、長いね、この板って言ったら、ええ、長いですよ、6尺ありますからね、って言いやがるんだ。
八:6尺
熊:ああ、6尺。どこかで聞いたなあと思ったんだ。だけどよ、何か足りねえだろ。するってえと、立てかけてある板の真ん中のへんにぽつんと何か赤いものが見えるんだよ。こりゃあ何だろうと思ってさわろうとしたら、おやじが、さわっちゃいけねえよなんて叫ぶんだ。何でだよ、こりゃ何だよって聞いたら、そら、血だよ、って。
八:ひどい話だね。最初から落ちが見えてそうじゃないか。え、何、6尺の大きな板に血ぃ。それで、6尺の大イタチ。ばかだねえ。それで、いくら払ったの?え、20文?そば食えるじゃねえか。え、いい板でありゃきっとケヤキの一枚板だって。どうでもいいよ、そんなこたあ。
隠居:おいおい、いいかな。そんなおかしなものを見せるわけがないよ。まあ、この間、小野小町が源義経に書いたラブレターってのを売りに来た奴がいたな。そんなものあるわけない、時代が違うよなんて言ったら、あるわけねえから珍しいなんて言っていたけれどね。おおかたそんなものだろう。何でも商売にする人があるもんだな。そんなんじゃありませんよ。ええっっとどこだったかな。ああ、これだこれだ。ほこりがたっているね。まあ、みてもよくわからないものだからねえ、ついごぶさたしちゃったよ。ふぅ、ふー、ごほごほ。
八:何です。黄表紙ですか?え、違う。あ、さてはわじるしでも、隅に置けませんね、ご隠居。え、違う。まああ、そうでしょうね。帳面みてえなものじゃないですか。紙、ですか。これは、何かちょっと違いますね。はあ、線みたいなものがたくさん書いてあって、これはひょっとすると家なんかの絵図面か何かですか。え、違う。ああ、黒い点々が書いてあって、ひげみたいなものが並んでいる。おたまじゃくしみてえですね。ほら、熊、みてごらんよ。これきっと誰かが田んぼのなかにいたおたまじゃくしを絵に描いたんだぜ。
熊:そんなおたまいねえよ。ほら、こいつなんか、尻尾が幾重にも分かれている。こいつなんか、よこにつながっているじゃねえか。おたまなんかじゃねえよ。
八:そら、きっとおたまの目刺しかなんかだよ。蝦夷地のあたりではそんなのもあるかもしれないじゃないか。
隠居:おたまの目刺しだなんて、誰がそんなもの食うんだね。大体、ああいうのは干しちゃうとなくなっちまうよ。ああ、まあ、熊さんのいうとおりだ。絵図面のようなものといえば、そういうものだな。これはなあ。西洋から、さる事情で手に入れたものだ。
八:あ、やっぱり。やっぱり、「さる」ですね。頭蓋骨じゃなくて、肋骨だ、ほらここんとこ、きっと肋骨にひびが入ったんだ。
隠居:いや、そのさるじゃない。私の父親の道具から見つけたものでね。そういえば、小さいころ、いくらか聞かされたことを思い出したんだ。うん、私の父はね、船乗りだったんだが、まあ、そのことは長くなるから今はやめておこう。これはな、「おんがく」というものを記しておく、ものなんだ。ほら、長唄なんかでも節書いたものがあるだろう。ああいうやつさ。そんなもの師匠からおせえてもらえばいいって。なるほど、そうだねえ。どうしたものか、西洋の方ではこういうのを書いて、別の人に弾いてもらったりしたんだそうだ。ほら、ここに五本の線があるだろう。さっき、八がおたまじゃくしといったのを、その頭になるところをここに書いて、音をしめしたものなんだそうだ。じつはな、これが、その「がくせい」という人が作ったものをうつしたものなんだそうな。
八:え、そうなんですか。「がくせい」ってのはカエルですか!あ、おたまみてえだけど、おたまじゃないんだったな、がくせいってのは三味線かなんかの師匠ってことですか。
隠居:まあ、そうなるかな。だけど、ちょっとちがっていてね。西洋ではえらい人の前で楽器をひいてそれで仕事にしている人があるっていうんだ。花街にいるって。そりゃ、芸者だろう。そうじゃなくって、殿様みたいな人たちに何か一節作ってみたり、ほら、あすこで歌舞伎やっているだろう、ああいうう小屋で「おんがく」ってのを弾いてみたりしているんだそうな。
八:へえー、「がくせい」ってのは長唄の大師匠みたいなものなんですね。え、ちょっと違う。新内流しなんか、川端のあたりでちょっと飲んでいる奴の前で色っぽいのを作って歌っているじゃありませんか。え、あ、ああいうんではない。お武家様が聞くんですか?へー、お武家様なんてのはホラ貝やなんかを聞くもんと思っていましたが。
隠居:お前たちと話していると、どうもややこしいいね。それはそうだね。見たこともない、聞いたこともない話だろうからな。どうだい、今日は仕事はもういいんだろう。だったら、うちで何かこしらえてあげるから、よばれていきなさい。いやいや、遠慮なんかはいい。この紙を見ていたら親父様のことがちょっと思い出されてね。誰かに話したくなっちまったよ、ぜひ、聞いておくれよ。今、奥向きに支度させるから。おーい、おい、ちょっとなあ、表の、ほら、最近できた京豆腐の、ええっとおかべとか言ったな、何かあの白くてのっぺりしたのを買ってきなさい。湯豆腐でもしようじゃないかい。ええ、ああ、八や熊もいっしょだよ。少し奮発してね。さあ、じゃあ、どこから話そうかな。

ってんで、ご隠居が話し始めたのが、何とこれがモーツァルトの物語。なぜ、ご隠居がモーツァルトのことなど知っていたのかは、これは次回のお楽しみ。またのお運びを。


長屋のモーツァルト その1

2011年01月13日 | モーツァルト伝
えー、しばらくのお付き合いをお願いいたします。

 世の中には、しらねえこと、わからないことだからけなんですが、知ったかぶりをしてわけしり顔に話す人もいると思えば、案外いろんなことを知っていて、知っているくせに人に質問したりして、困らせちゃうような人もあるようです。

 落語の方では、えー、たいてい、八とか、熊とかいう長屋の住人がものをよく知らないことになっていて、大家ってんですかな、江戸時代の長屋はちゃんとその長屋を差配する人がいて、そのうえに大家さんもいるてなかたちだったそうですな。長屋ごとに門があって時間になると閉めちゃったりするそうで、まあ、それが門限なんてことばに残っているようですが、時間が過ぎちまうと通りから通りに抜けられなくなって、いちいちあいさつして開けてもらわなくちゃならなかったんだそうで。

 それはともかく、たいてい、この大家ってのがおおかたわけしりの知ったかぶりで、「ちはやふる」なんてお話に出てくるのはまさにそういう人で。

 一方で、お店の奉公している小僧さんあたりで知恵の回るのがいて、ちょっと意地悪な大人をからかってやろうなんてのがでてまいります。昔は、身分でお侍の子はお侍、町人の子は町人なんて決まっておりましたが、人なんてものは備わったものはあっても案外親に似ずにトンビがタカなんてことも申しますから、小さいうちからいろんなことに気が回る子もあったのかもしれません。
 いえね、こんな話をいたしますのは、わたくしどもが少々大切にしておりますモーツァルトってえ人が生まれた1756年ってのは、日本でいえば宝暦6年。明和、安永、天明と続いて、亡くなったのが寛政3年です。日本じゃお江戸の時代も半ばを過ぎ、例えば、天明2年から8年は大飢饉で明日食う米がないくらいならまだしも、ずっと前から何にもくえねえ、年貢の取りようもなってくらいに大変だったころなんですな。
 当時ってのは、米はお金ですが、お金を田んぼで育ててたなんてのは日本ぐらいのものなんだそうです。お天道様の気まぐれでお金まで干上がっちゃった。飢饉が始まった天明2年は、モーツァルトがコンスタンツェさんと結婚なすった年で、天明8年は「ジュピター」を作曲した年です。

 時代がもうちょっと下がったころ、遠山の金さんのころくらいかな、もし、モーツァルトの話が伝わっていたらという話をこしらえてみました。

 長屋のモーツァルトってなところでおつきあいを。なあに、おもしろくなけりゃあ、ささっとやめちまいます、ええ。

みのきち:ねえねえ、八さん。「がくせい」って知っている?
八:え、なんだ、みのちゃんか。お店はどうだい。ええ、あいかわらずなんでもききたがりやだな。え、がくせいかい。まだ、食ったことがねえな。
みのきち:ちがわい、食べ物じゃないや。南蛮のえらい音楽の先生で、なんでも「しんどう」ってもいわれたそうだなんだよ。寺子屋の先生に聞いたんだ。でも、先生もあんまり知らないらしくて、何でも知っている八さんに聞いてみればって、先生が。先生が、そうおっしゃるんだよ。ねえ、八さん。
八:先生が。あっしに。そうですかい。見込み違い、お門違いなんてこともいうけれど、そら、先生もよく知っていなさる。たいていのことは俺に聞いておけばいいからね。知らないこと以外なら何でも知っているからなあ。え、なに、「しんどう」って、ああ、あれあれね、あれかい。こう腰のところにつけてぶるぶるってやるってえと部分やせになるとかいうテレビでやっている奴。
みのきち:えー、何か違うと思うよ。だいたい、テレビって何?
八:あ、そうか、時代間違えちゃったな。EMSか、そら。うーんと、あ、お、おい。いいところにきやがったなあ。おい、熊、熊公。こっちだ、そっちじゃねえよ。一体どこに耳つけてやがんだ。
みのきち:耳はたいてい頭の横だよ。
八:わかっているよ、そんなこと。熊、熊、こっちだ。やっとこっち見やがった。一体どこに目ぇつけてんだ。
みのきち:目はたいてい頭の前だよ。上についてりゃかたつむりだ。
八:わか、わかってるよ。そんなこと。いちいちつっこまない。ひねくれたやつだね、どうも。
熊:おーう、八ぃ。元気だったか、さよなら。
八:あ、あっ、どこへいくんだよっ!
熊:いやな、みのちゃんがいるだろ。苦手なんだよ。何でも聞くだろ、こいつ。この間も、サイってのどんなものですか、って聞かれて、うちにもいるよなんていってえらい恥かいちゃったんだ。
八:それかみさんのことだろ。Wけんじさんのネタだよ。「うちのさい」ってやつだろ。また、時代がかわってるよ。いやね、みのきちがさ、「がくせい」ってのを知っているかいって聞くからさ。
熊:まだ、食べたことがねえな。
八:ほら、こうだろ。おれもそう言ったんだよ。やっぱり、こいつじゃいけねえな。ご隠居のところへ行こうじゃないか、ああそうしよう。それがいいや。
熊:ご隠居さんかい?大黒町の?大丈夫かな。この間の「ちはやふる」ってのもあやしいもんだよ。相撲取りと芸者の話ってことだったけど、おいらはどうもあやしいとおもっているんだよ。いやさ、いいこと聞いたなと思うもんだから仕事仲間に話したんだけど、「からくれない」ってのがおからってのがどうもなあ、なんてすっかりおいらつっこまれてるんだって。いやだなあ、どうも。気が進まないよ。時々、鳥の羽で字ぃ書いてるなんて聞いたことあるぜ。
八:じゃあ、どうすりゃいいんだ。こうやって、勉強しようっていう小僧さんがいるんだ。ちゃんとおせえてあげるのが大人の責任ってやつじゃあねえのかい。いやさ、熊よ。おれたちもよく知らねえけれど、どうせ時間があったってそこらでそばやら酒なんぞつまんでいるだけじゃねえか。ことのついでに、こちらも勉強させていただこうじゃねえかって寸法さ。
熊:また、言うねえ。なるほど、それも悪かねえ。隠居んところのお菓子はうめえからな。
八:また、熊は食欲かい。まあ、いいじゃねえか。みのきち、お待たせいたしやしたね。あっしらが、ご隠居のところへいってちゃんと聞きますから、安心してください。
みのきち:うん、わかった。だけど、あたしはちょっとお店のお使いにいかなくっちゃなりません。あとで、八さんのおうちに寄りますから、くわしいことをそこでおせえてください。
八:あ、え、ああ、そう。そう、そうですか。こまったな、こりゃ。いっしょに聞いてりゃあいいかと思っていたのに。はい、はい、わかりました。そういたしやしょう。しっかり、おせえてもらってきますからね。じゃあ、はい、行ってらっしゃい。気をつけて。行っちまったよ。おい、熊、こまったね、どうも。
熊:どうもじゃないよ。こっちが勉強しなくちゃいけねえじゃねえか。おいらだって親方の用事の途中なんだ。てめえだけで行ってくれよ。
八:後生だよ、いっしょになあ、頼むから。「がくせい」ってのと、「しんどう」ってのを聞いてくればいいだけだからさあ。すぐにすむから、なあ、いっしょに頼むよ。
熊:まあ、しようがないなあ。乗りかかった舟だ、ちょっとだけだぞ。長くなったら買えるからな。何だって、南蛮のえらい音楽の先生ってのかい。ふーん、音楽ってので先生ができるんだ。そういうもんかね。おい、ご隠居のところ、ここじゃねえのか。
八:あ、そうだそうだ。もしもーし、ご隠居さん、いらっしゃいますか。八です。熊もいます。人間の方の熊です。麻酔銃なんか撃っちゃいけませんよ。
熊:物騒だね。こんちはー。ご無沙汰しています。ご隠居さーん。
隠居:はいはい、お、これはようこそ、八つぁんに熊さんじゃないか。何々、教えて欲しいことがある。いいね、勉強は一生かけてやらなくちゃ。ふんふん、なんだね。あ、そう。「がくせい」、ふんふん、「しんどう」ほおお。そら、おもしろいことを勉強しようとしてるな。まあ、わかった。何でもいいからこっちあがんなさい。ちょっと変わったものを見せてあげよう。
八:こら、きた!猿の頭蓋骨か何か見せられるんだよ、きっと。(つづく)

モーツァルト伝記

2011年01月09日 | モーツァルト伝
モーツァルトが亡くなったのが、寛政3年の12月。こちらは、モーツァルトのレクイエムの逸話もあってよく知られています。
一方、生まれたのは、宝暦6年1月27日のことです。
違和感があった方も多いでしょう。年号で表記するとそんな感じなんです。西暦で書くと、1756年から1791年の方ということになります。ちょうど、ヨーロッパではフランス革命などに代表される時代の変革の時期に当たりました。ハプスブルク家のマリア・テレージアやその娘、マリー・アントワネットなどがモーツァルトの人生とも交錯しています。
私たちは、モーツァルトが遺した仕事を今に感じ取っているわけですが、モーツァルトいう人の生涯を少し知ることで、ザルツブルクと宇奈月の距離感をもうちょっと測ってみようと考えました。
そこで、モーツァルトの誕生日のお祝いに、モーツァルトの伝記を連載します。みんなで、モーツァルトという人の人生をちょっとだけ勉強してみましょう。
今回は、プロローグです。時代の様子を少しひもときます。

モーツァルトが生きた時代は、日本では、江戸時代。田沼意次から寛政の改革で知られる松平定信の時代です。有名な天明の大飢饉があり、92万人の人口減があったと推測される時代です。天明の大飢饉の原因は、天明3年(1783)の岩木山、浅間山の噴火による日照低下による冷害と考えられていますが、同じ年ヨーロッパでもアイスランドでもラキ火山が噴火し、低温化があったそうです。当時、モーツァルトは大司教との関係悪化後で、ウィーンに住んでいたようです。
この時期、世界的にも動乱の時代です。
1773年には、ボストン茶会事件。最近、オバマの政策に反対する人たちのグループ「ティーパーティー」が話題になりましたが、名称はこの事件に発しています。アメリカの独立戦争の引き金といわれています。1776年にアメリカは独立を宣言、1787年合衆国憲法が制定されます。この年、「ドン・ジョバンニ」が初演。私たちが宮廷的なイメージをもってモーツァルトの時代を見てしまいがちですが、こういう背景があるんですね。1789年、フランス人権宣言の年は、亡くなる少し前です。世界の動きや天候の不安定は、モーツァルトならずとも終末観を高めるには、十分な要素だったかも知れません。
モーツァルトが若き日に求婚したマリー・アントワネットが処刑されるのが、1793年。モーツァルトはすでにこの世の人ではありませんでした。
日本では、寛政の改革が1787年に始まります。江戸幕府の財政状況が逼迫し始めるころですね。日本は米本位制だったので、大飢饉は直接財政に影響します。お金を水田で育てていたのですから、それは当然でしょう。逆に、そういう作物を通貨価値に換算できたということは、それだけ収量が安定していたということでもあり、数年に及ぶ飢饉がすさまじいものであったことは想像できますね。大黒屋光太夫が遭難し、辛苦の果てにエカテリーナ女帝に謁見するのが1791年。まさに、モーツァルトの没年でした。翌年記憶した光太夫は軟禁されたとも聞きますが、彼からヨーロッパの事情がいくらか伝わったともいわれています。
こうしてみてみると、ハプスブルクに代表されるヨーロッパの王侯文化が最後の華を開いていた季節に、モーツァルトがそうした文化をすべて統合するかのように、すばらしい楽曲を生み出していたような風景が見えてきます。
そのまま、書いてしまうとただの物語になるので、ちょっと趣向を凝らしています。どこでも読めるものをこのブログで提供しても仕方ありません。西洋の楽聖のことを江戸時代の人たちが耳にしたらどうなるだろう。そんなことを考えてみました。どういう展開になるかはお楽しみに。
少年モーツァルトが最も光り輝いたのが、池波正太郎の「剣客商売」のころでしょうか。時代は少し下がって、遠山金四郎が奉行を務めたころ、そのころの人々が楽聖モーツァルトの話を聞く、そんな設定を考えてみました。
不定期連載です。時々、覗いてみてください。
そうそう、その頃の宇奈月はどうだったか。ちゃんと書いておきましょう。
文献からは、正保2年(1645)、現在の黒部市宇奈月町音沢の太郎左右衛門が黒薙温泉を発見しています。国境警備上の問題もあり、加賀藩は開湯を許しません。当時は、黒部奥山と呼ばれる黒部川沿いの山岳地帯は御取締地として厳しく立ち入りや開発を制限していました。開湯が許可されるのは、慶応4年(1868)です。龍馬暗殺の翌年です。ここからお湯を引いて、ウナズキ平に宇奈月温泉が開かれたのが、大正12年(1923)のことです。7キロメートルに及ぶ引湯管は全国的にも珍しいのですが、加賀藩はそれが可能かどうかを、用水路の設置で優れた技術をもち、数々の難工事を成功させた椎名道三に測量させています。それほどによいお湯だったのかもしれませんね。

プロローグにしては、少々長すぎましたね。
では、次回より連載開始。お楽しみに。