「秋月街道」は豊前小倉藩と筑後久留米藩を結んでいた街道です。その歴史は古く、「大内氏」の九州平定の主要幹線又は「豊臣秀吉」の九州平定の幹線道路としてに使用されました。それ故、この道筋は「太閤道」とも呼ばれてきたようです。
江戸時代においては、参勤交代の道として、佐賀、久留米、柳川、肥後藩等が利用したようです。
幕末期においては、この道筋で小倉藩と長州藩の壮絶な戦い(小倉戦争)が繰り広げられたようです。関門海峡を越え、長州藩が幕府側の小倉藩に攻め入った際、孤立した小倉藩は城を焼いて退却、香春(現田川市の一部)に藩庁を移しました。長州藩がこの追撃に使用した道でもあるようです。
小倉、徳力、呼野、採銅所、香春、猪膝、大隈、千手、秋月、野町、松崎、府中の12宿で「秋月街道」は構成されています。
総延長114.5kmの街道を6日間で歩きました。その紀行アルバムです。
〇一日目:小倉宿から呼野宿へ
小倉常盤橋→井筒屋DP横→旦過橋→香春門口跡→三萩野→片野→城野→北方(陸自40連隊前、北九州市立大学前)→蒲生八幡神社前→徳力嵐山口→桜橋→長行→徳吉と322号線沿いを歩き、小倉の市街地を通り抜けました。
徳吉の左手には、「小嵐山」が見えます。徳力、長行、徳吉を流れる紫川とその沿岸の山の風景が京都の嵐山に似て いるとして、細川忠興が京都から桜を取り寄せ植えたと伝えられており、その後、「小嵐山」と呼ばれるようになったそうです。
目倉の旧道に入った途端、左手に「豊前鍛刀場跡」のパネルがありました。藩政時代の刀工の名を継いだ紀政行・正次親子が昭和初期まで日本刀を鍛えていた場所であるそうです。その後、しばらくして、石原町の「里程標」に出会いました。小倉まで、門司大里まで、呼野までの距離が表示されていました。
左手には、平尾台の白亜の稜線が呼野まで続きます。石灰岩の採石のために階段状に整然と切り開かれており迫力のある眺めです。
呼野公民館の横に、「里程標」が残っており、小倉までの距離が刻まれていました。この直ぐ先に公孫樹の大樹で知られる「大山衹神社」がありました。
次に、江戸時代、溜池を造る工事が難航し、14歳の娘お糸が人柱にたてられたという「お糸池」に立ち寄りました。近くの「大泉寺」の山門に「お糸地蔵」についての由来が掲げられていました。何となく物悲しさが残った次第です。
05/04秋月街道紀行-1 呼野宿へ
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