4月にサンクトペテルブルグへ観光(ロマノフ王朝の歴史遺産を巡る)に出かけた
折、エカテリーナ宮殿の謁見の間で、日本人「大黒屋光太夫」が1791年5月に
エカテリーナⅡ世(女帝)に拝謁し、帰国を嘆願したことを知った。
旅行から帰って、井上靖の「おろしや国酔夢譚」、吉村昭の「大黒屋光太夫」上下
を読んで、苦難の行程を把握した。
津市に出かける用事があったので、帰りに鈴鹿市若松町(光太夫の出身地)にある
大黒屋光太夫の記念館を訪ね、当時の記録資料を見学した。また、若松町にある他の
史跡を探索した。
大黒屋光太夫は回船問屋の荷物を江戸に運ぶため、1782年12月に白子の港を
出航し、遠州灘にて難破してベーリング海のアムチトカ島まで流され、ロシアに抑留され
た。帰国を許されたが、乗組員17は病死などで人数を減らし、1793年に日本の
地を踏んだのは3人のみとなった。一人(小市)は帰国直後に病死し、残る2名(
光太夫と磯吉)は日本で命を全うした。
当時、日本は鎖国のため、習得したロシアの文化技術、ロシア語能力は幕府によって
封印され、日本に活用されなかったことは残念であった。
以下、個別写真を掲載します。
関連ブログ: ロマノフ王朝の歴史遺産を巡るhttps://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/190b559fd17c032b5eea001ddabd7355