名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

世界・歴史遺産を訪ねて  9-2 ハンガリー平原

2021-05-05 17:46:34 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 ハンガリーとフン人の歴史を少し勉強してみました。民族の大移動は東のモンゴル高原
から中央アジア、東ヨーロッパ、西ヨーロッパへと遊牧民の移動が繋がっていることが少し
分かったような気がします。受け売りの稚拙な文章で恐縮ですが、興味のある方はご覧
下さい。

匈奴とフン族

 匈奴の西進、フン人の大移動の関係は?==>直接的な繋がりは証明されていないが、
両民族の生活習慣が似ているとか、匈奴を「フンヌ」と発音するとか類似性が多いと指摘
する学者もいるようです。
 
匈奴の西進

 BC202年、前漢を立ち上げた劉邦はBC200年に匈奴との戦いに敗れ、屈辱的な
和解をした。7代皇帝、武帝(劉徹)の時代になると漢が力をつけ、BC129年以降、
衛青、霍去病などの大将軍を派遣して、匈奴を北へ退けた。また、張騫を西域に派遣し、
大月氏国と共に西域を平定(BC59年西域都護府設置)し、匈奴を退けた。その後、
匈奴は内紛が発生し、帝国はAC48年には南北に分裂し、AC91年には帝国としては
消滅する。
 匈奴は分裂して西に移動したが、一部がフン人となって民族大移動の引き金となった
という説もある。(学術上、直接的な関係は、まだ証明されていない)

フン民族、ゲルマン民族の大移動

 中央アジア、コーカサスの遊牧民フン人は4世紀頃から西に移動し、現在のハンガリー
平原に陣取り、周辺の民族をさらに西へ追いやった。ゲルマン系のゴート族は現在の
フランスや北イタリア、イベリア半島に移動しゴート王国(東、西)をたてた。5世紀半ばに
フン帝国(アッティラ王の時代)は最大範図となるが、以降衰えていく。その後ウラル山脈
南部にいたマジャール人が南下し、ハンガリー平原に陣取り、フン人等との混血を繰り返し
現在のハンガリー人になったと考えられる。
 ゴート族の移動はゲルマン民族大移動の始まりである。

 ハンガリー平原

 ハンガリー平原は肥沃な草原が広がり遊牧民には垂涎の地であった。454年、フン族の
帝国崩壊後もアジア系遊牧民が侵入が続き、根拠地とされた。またスラブ系やオスマン・
トルコの侵入・支配するところとなった。1699年にはオーストリア・ハプスブルグ家がオスマン・
トルコに勝ち、ハンガリーはオーストリアに編入された。その後、民族自決の気運が高まり、
1867年には、独立したが、オーストリア帝国と同じ王様をいただく、オーストリア・ハンガリー
二重帝国となり、1914年の第一次世界大戦を迎える。戦後はハンガリーとして独立するが、
第2次大戦ではドイツ側に組したためソビエト連邦軍の侵攻を受け、戦後は東側に組み入れ
られた。スターリンが死亡し、フルシチョフによるスターリン批判が始まると、1956年には
民主化の動きからハンガリー動乱が発生し、世界を揺るがす事態となった。
<現状> 国名:ハンガリー(第三共和国) 、人口:980万人 国土面積:日本の1/4

以下、関連記事を紹介します。

世界・歴史遺産を訪ねて  9.ハンガリー(ブダペスト)  登録: 21.4.24 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d6746d2fbd4882a7cdf5963f051f4e9b 

<参考> 次の国は、10.ギリシャ https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/20a6b5006c7943c7bcaa74e5f868f1d1



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。