川端文学とマルケス世界の合体したみたいな場所から戻り、ぼさーっとしている。先生は荷ほどきもせず、宅配映画の溜まったやつをぼんやり見てる。
楼前先生の見た夢。
ヴァーモントみたいな町。山の上のホールでチェンバー・ミュージック・フェスティバルがある。ぼくはトリオのリハをやってる。ピアニストがデュダメルで、バイオリンは巨大な黒人の女の人。彼女はハグしたとき、バストの谷間にぼくの顔を埋めてしまう。息ができない。おまけに、ぼくは下の宿屋に家族を呼んで泊まらせてるのに、リハが終わらず、そこへ行けない。次の曲が終わったら、いったん家族と食事しようと思うが、デュダメルがあまりにへたで、音が小さくて聞こえない。リハがえんえんと終わらない。デュダメルは彼の家族をそばにおいて、世話を焼いたり、リハを見せたりしてる。家族サービスしてるとき、デュダメルの顔がオバマに変わる。
杉山久子句集「鳥と歩く」を読む・シリーズその2
ごきぶりの鬚のひとゆれして果てぬ 久子
果てぬ。この言葉から導き出される一番強いイメージは死。次に想起されるのは、「果て」。つまりどこかこの世の果てのような場所。ポルティーリョを知っていらい、私の世界の果てのイメージが、「歩いても歩いても端まで行き着けない朝靄の砂浜」から、「星の光で夜も明るい山頂」に変わった。果てという言葉が、私をそんなに遠くまで、一気に連れて行く。最後に浮かぶイメージは、果てる=エクスタシー。特に上五・中七の措辞がユーモラスにそんな妄想を助ける。絶頂は一回ごとの死、といったのは確か半村良だ。久子の句にはかなりの割合で、この生(絶頂)と死のイメージが登場する。それも熱く激しくじゃなく、冷たく汗ばんで、である。掲句は、それでいて、ごきぶりという生物のまじめな写生になってるとこがすてきだ。
この次の頁にも、
糸とんぼ糸のからだをかさねをり 久子
というのがある。味わい深く、泣けてくる。
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