塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

「はい」の持つ2重の意味

2010-11-09 01:52:54 | 日記
 僕らは毎日何気なく

 「はい」

 という言葉を用いますが、「はい」という言葉はある意味曲者ですよね。

 何故かといいますと

 「わかりました」という肯定の意味と
 「なるほど」という相槌の意味の2種類がある上に、使っている僕ら自身が相手に対し
て肯定の返事なのか、それとも単なる相槌なのかに気付いていないからです。

 ドゥンガがジュビロの在籍していた頃、ピッチ上でなりふり構わずに大きなジェスチャー
で周囲に指示を出していましたが、今思うとこのドゥンガのジェスチャーは試合中の興奮
ではなく、自分の真意が周囲に伝わっているのかどうか、判断がつかなかった為かもしれ
ません。

 勿論ジーコが日本代表を率いた時のように

 「代表選手は実力だけでなく、探究心にも優れているからこちらが必要以上に問わなくて
も、彼らは自分から聞きたいことは尋ねてくるだろうし、生活管理も怠らないはずだ。」

 と考えることにも一理あります。

 選手だってジーコから質問があれば

 「はい」
 
 と答える場面は僕らが考える以上に多かったのではないでしょうか?

 僕たちが曖昧なまま「はい」と答えてしまうのは、日本が社会でも学校でもあらゆる場所


 「減点主義」

 にさらされているからかもしれません。欧米の発想は基本的に加点主義と聞いていますし、
韓国では儒教の教えが浸透しているため、目下の人間が目上の人間に意見することは

 「はしたない」
 と捉えられているようですし。


 ですので日本の場合監督に意見する時は、はいとまずワン・クッション用いてから自分の
意見や現状を伝えるのが良いと思います。

 これから日本で指揮を執りたいと考えている海外の指導者は日本語やサッカー用語だけで
なく、言葉の陰にある曖昧さに注意する必要があると言えます。
コメント
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