1992年のヤマザキ・ナビスコカップを皮切りに、日本サッカーは大きく変動してゆきます。
それはジーパン産業も同様です。
初期のドウニームは1988年、ダルチザンに至っては1979年から、往年のリーバイスを目指した商品が開発されてゆきます。
また90年代初頭はエヴィス、フルカウント、シュガーケーン、ドライ・ボーンズなど、2024年の現在でも多くのファンがいるジーンズブランドが誕生しています。
ちなみにウエアハウスが現在、ドウニームを生産、企画し、同時に派生したリゾルトも、そのきれいなシルエットで知られていますね。
リーバイスとラングラー、リーがそれぞれ自社の復刻盤、つまり50年代の名品を考慮するようになったのも、この時期です。
プロサッカーは1994年の米国ワールドカップを逃すも、現在まで様々なアクシデントがありながらも、生きています。
ただ、1993年のプロ開幕、ヴェルディ川崎と横浜マリノスの試合を観戦しながら
「もう5年早く誕生してほしかった」
「そうすれば、僕もアマチュアではなくプロだったかもしれない」
と思う元選手が多くいたことも事実でしょう。
当時の日本代表指揮官、ハンス・オフトは自分の考える代表練習と戦術の設定に、背番号10のラモス瑠偉が反発していることに気をもんでいました。
そのわだかまりを仲介したのは、代表キャプテンの柱谷哲二でした。
それだけプロというのは、自分の主観、意見を大事にする必要があると思いましたし、現在のバスケットボール日本代表も、この時に日本代表と同様に、米国でプロが生まれたための過渡期なのではないでしょうか。
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