このことと密接な関係がありますが、英語の文章といふのは一般に螺旋階段みたいに屈曲しながら上に昇るやうになつてゐる。
関係代名詞や関係副詞、それにコロンやセミコロンのせいで、さういふふうに書きやすいのです(もちろん駄文は違ふますよ)。
だから論理の構造が複雑緊密になりやすいし、ややこしい理屈を堂々と(丁寧に)説明することができる。
普通の日本文の、あつさりとした、腰の弱い、平べつたい性格とは大違ひなんです。
ですから、これを訳すのはむづかしい。
そしてまた、かういふ文章の書き方を自分で身につけるのはもつとむづかしい。
しかしこれからの日本文は、かういふ立体的・論理的な力をもつと備へて、ただしそれにもかかはらず言ひまはしがゴタゴタしない、言はんとするところがすつきりと頭にはいるものが望ましい。
無言のうちに判りあふやうな、魚ごころあれば水ごころみたいな、腹藝的な文章では、もう駄目なんぢやないでせうか。
わたしは腹藝的な文章とは反対の、しかし日本人の生理になじんだ文体を夢みてゐます。
(丸谷才一;「文体を夢みる」より一部抜粋、「わたしの文章修業」,朝日新聞社)
関係代名詞や関係副詞、それにコロンやセミコロンのせいで、さういふふうに書きやすいのです(もちろん駄文は違ふますよ)。
だから論理の構造が複雑緊密になりやすいし、ややこしい理屈を堂々と(丁寧に)説明することができる。
普通の日本文の、あつさりとした、腰の弱い、平べつたい性格とは大違ひなんです。
ですから、これを訳すのはむづかしい。
そしてまた、かういふ文章の書き方を自分で身につけるのはもつとむづかしい。
しかしこれからの日本文は、かういふ立体的・論理的な力をもつと備へて、ただしそれにもかかはらず言ひまはしがゴタゴタしない、言はんとするところがすつきりと頭にはいるものが望ましい。
無言のうちに判りあふやうな、魚ごころあれば水ごころみたいな、腹藝的な文章では、もう駄目なんぢやないでせうか。
わたしは腹藝的な文章とは反対の、しかし日本人の生理になじんだ文体を夢みてゐます。
(丸谷才一;「文体を夢みる」より一部抜粋、「わたしの文章修業」,朝日新聞社)