(アルブレヒト・デューラー、「祈りの手」)
ある日曜日の朝。
朝5時から元気なミニキャベツ(3歳1ヶ月)とキャベツ姫(1歳0ヶ月)のため、キャベツはすでに疲れ切っていた。
…これから、パン裂き(礼拝)や日曜学校やら諸々あるというのに。
そんなわけで、キャベツは、奮起するためにも祈った。
「今日一日、成し遂げられるよう、力をください」と。
正直、礼拝で、皆とともに祈る対象(=神)に対して、
「今から、礼拝なので、
(子どもたちのことも対処しつつ)貴方様に祈ったり、
日曜学校等で十分働けるようください」
というのは倒錯的だし、
マルタさんの所業(ルカ10:40)を笑えないなぁ…と自嘲せざるをえないのだが、致し方ない。
そんなどうしようもない祈りをも、
神様は、聴き入れてくださることも、
聖霊が、それを整え、御前(みまえ)に香(かぐわ)しい香(かお)りとしてくださることも
ありがたく思いつつ。
Likewise the Spirit also helps in our weaknesses.
For we do not know what we should pray for as we ought,
but the Spirit Himself makes intercession for us
with groanings which cannot be uttered.
『同じように、御霊(みたま)も弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、
御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、
とりなしてくださるのです。』
(新約聖書・ローマ8章26節、新改訳2017)