コメント
それは反対だー
(
chomemaro
)
2007-05-15 09:50:50
mumuさんの作品を公開しないことには、反対の意見です。それは、けして、この場でmumuさんが人の目をひきつけるため、自分の腕前を顕示して誇るために、ブログを行っていないことを、ここに来る人みんなが知っているからです。
聖句を黙想することは大切なことですが、平衡を取った見方をすることが大切なのは、mumuさん自身が、身を持って経験してきたことではないでしょうか?
神の言葉を、上段に振りかざして、愛の有る業を行っていない人は、行うべきことを知っていて行わない人です。
もし良かったら、この聖句が書かれたときの時代背景を知ることが、とても大切だと思います。
今の時代に、特に似ていたのではないでしょうか?
誰も自分以外を愛せなかったのではないでしょうか?
自分の義を証明するのに躍起ではないでしょうか?
もしも、mumuさんが不当にご自身のことを裁くのなら、それは、他人を裁いているのと、全く変わらないかもしれませんし。
私は、ここに来て、写真見せてもらって、癒されているから、それで良いではないか。写真が、他人の目を意識しなかったらおかしいじゃないの?第一、美しく撮って、再認識されるものじゃないの?と思いますが...
私なんか、子供を写す時、本当にへたくそですよ。
でもね、やっぱり、それを誰かに綺麗だね良く撮れていると言われたら、最高ではないですか。人に見てもらって、褒めてもらうことに、動機の悪いことなんてありません。
むしろ、そういう才能や賜物が有る人には、もっともっと、そういった人を癒す能力があるのですから、いっぱい勉強して生かしていくこと、自分らしくあることを忘れてはもらいたくないです^^
Unknown
(
mumu.com
)
2007-05-16 00:37:22
#chomemaroさんへ
確かにその通りです。
また筆者の書かれた状況などを考慮することも重要なことだと思います。
おいらは「自分の義を他人に押しつける」人間が大嫌いです。
しかしおいら自身がそうなっていたことに問題があったんです。
客観的に考えて、神の基準を考慮し、平衡の取れた見方を培ってから写真を見直すようにして考えてみると答えは「否」でした。
「自分の主観」を押しつけるようなものになっていないだろうか?
という自問をするに当たって写真を見ても、自分が他の人に見せる事によって自分に好感を持って貰いたいという「嫌悪」を抱くような感情を持っていた事が問題があると感じたんです。
自分の立場をわきまえて「見て貰えれば幸いだ」と言う気持ちになってからでなくては見て貰う価値もないという結論になったんですな。
「義に過ぎる」ということは良く言われる事なんですが、
「わたしはこんなにもしているんだよ」
「頑張っているんだよ」
という過剰なアピールをすることはおいらの見地では愚かな行為に思います。
このようなことを判断するのは少なくとも神様が見ておられることであったり、他の人であったりすると思うんです。
それを自分自身でアピールすることにしか目が向いていなかったことが非常に情けなく思います。
また「人を裁く」ことと「自分を裁く」ことではどちらが難しいのかを考えると自分を裁くことです。
「では、なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら、
自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。」
ーマタイ 7:3
という聖句があり、その後に続くイエスの言葉を考えるに当たって自分の中にある垂木を抜き取ることも出来ないのに、自分のあずかる分以上の栄光を受ける事に問題があります。
少し頭を冷やして平衡の取れた見方を持って写真を見ることが出来るようになってから、もう一度吟味して創造者である神に栄光を帰すような方法で公開していこうと思います。
少し情緒不安定になっていたので平衡の取れた見解を持てていなかったんですよね~。
話を変えますね。
親御さんが子供さんを撮られるにあたっては、おいらは撮りたいという動機に意義があると考えています。
そしてその写真は下手とか上手では測れない撮り手の「愛」が写っているはずです。
そういう部分で見ていきたいとおいらは考えています。
ところで「自分らしくある」って良い言葉ですね~。
少し考えてみます。
出来ないことばかりが目につく自分の行動に嫌気がさしてきますが、自分のあずかる分を間違えないようにして公開していきたいものです。
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聖句を黙想することは大切なことですが、平衡を取った見方をすることが大切なのは、mumuさん自身が、身を持って経験してきたことではないでしょうか?
神の言葉を、上段に振りかざして、愛の有る業を行っていない人は、行うべきことを知っていて行わない人です。
もし良かったら、この聖句が書かれたときの時代背景を知ることが、とても大切だと思います。
今の時代に、特に似ていたのではないでしょうか?
誰も自分以外を愛せなかったのではないでしょうか?
自分の義を証明するのに躍起ではないでしょうか?
もしも、mumuさんが不当にご自身のことを裁くのなら、それは、他人を裁いているのと、全く変わらないかもしれませんし。
私は、ここに来て、写真見せてもらって、癒されているから、それで良いではないか。写真が、他人の目を意識しなかったらおかしいじゃないの?第一、美しく撮って、再認識されるものじゃないの?と思いますが...
私なんか、子供を写す時、本当にへたくそですよ。
でもね、やっぱり、それを誰かに綺麗だね良く撮れていると言われたら、最高ではないですか。人に見てもらって、褒めてもらうことに、動機の悪いことなんてありません。
むしろ、そういう才能や賜物が有る人には、もっともっと、そういった人を癒す能力があるのですから、いっぱい勉強して生かしていくこと、自分らしくあることを忘れてはもらいたくないです^^
確かにその通りです。
また筆者の書かれた状況などを考慮することも重要なことだと思います。
おいらは「自分の義を他人に押しつける」人間が大嫌いです。
しかしおいら自身がそうなっていたことに問題があったんです。
客観的に考えて、神の基準を考慮し、平衡の取れた見方を培ってから写真を見直すようにして考えてみると答えは「否」でした。
「自分の主観」を押しつけるようなものになっていないだろうか?
という自問をするに当たって写真を見ても、自分が他の人に見せる事によって自分に好感を持って貰いたいという「嫌悪」を抱くような感情を持っていた事が問題があると感じたんです。
自分の立場をわきまえて「見て貰えれば幸いだ」と言う気持ちになってからでなくては見て貰う価値もないという結論になったんですな。
「義に過ぎる」ということは良く言われる事なんですが、
「わたしはこんなにもしているんだよ」
「頑張っているんだよ」
という過剰なアピールをすることはおいらの見地では愚かな行為に思います。
このようなことを判断するのは少なくとも神様が見ておられることであったり、他の人であったりすると思うんです。
それを自分自身でアピールすることにしか目が向いていなかったことが非常に情けなく思います。
また「人を裁く」ことと「自分を裁く」ことではどちらが難しいのかを考えると自分を裁くことです。
「では、なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら、
自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。」
ーマタイ 7:3
という聖句があり、その後に続くイエスの言葉を考えるに当たって自分の中にある垂木を抜き取ることも出来ないのに、自分のあずかる分以上の栄光を受ける事に問題があります。
少し頭を冷やして平衡の取れた見方を持って写真を見ることが出来るようになってから、もう一度吟味して創造者である神に栄光を帰すような方法で公開していこうと思います。
少し情緒不安定になっていたので平衡の取れた見解を持てていなかったんですよね~。
話を変えますね。
親御さんが子供さんを撮られるにあたっては、おいらは撮りたいという動機に意義があると考えています。
そしてその写真は下手とか上手では測れない撮り手の「愛」が写っているはずです。
そういう部分で見ていきたいとおいらは考えています。
ところで「自分らしくある」って良い言葉ですね~。
少し考えてみます。
出来ないことばかりが目につく自分の行動に嫌気がさしてきますが、自分のあずかる分を間違えないようにして公開していきたいものです。