2 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 ずれてる^^;; (chomemaro) 2006-08-01 23:19:36 mumuさんの日記を読んで、ずれていくってこういう事かなーと思いました。よく、時に相手が日本語しゃべっているのか、こちらの日本語が変なのか解らなくなるときってありますよね。きっと、彼は僕になるのが大変だったんでしょうね?なんか、そのあたりの事は、良くわからないですが^^;まじめなんですよね、きっと感性がずれているのでしょうかmumuさんは、謙遜ですね、それに、気が付くし私なぞ、相手が気を悪くしている事にも、気付いてないんじゃないかしらと、しょっちゅう不安です(T▽T) 返信する Unknown (mumu) 2006-08-02 15:05:21 #chomemaroさんへ彼の言いたいことはよく解るのです。褒めてもらえないことを良く聞きますし自分がいかに頑張っているかをアピールしたかったのでしょう。おいらは「自分で頑張っていることを言う」なんて考えられない性格です。彼の言っていることを聴いていて感じたのは、彼の「自信の元」になっていることは○○者として奉仕している時に最低限のことだと考えていたことでした。頑張っていても、どんなに努力してもダメなところを指摘してくださる方もいましたし、自分で自分の不甲斐なさを責めることもありました。「自責の念」は今でもゲヘナのように満足することなく、また間断なく自分の心を蝕んでいます。彼のことを悪く言うつもりは全くありません。それどころか、○○者として働いていることに神は大きな喜びを見いだされているでしょう。彼の言葉は彼の心の悲鳴のように感じました。よく頑張っていることを褒めてもらいたい!と。自分で言わないと他の人は見てくれていないんだ!と。これだけやっている自分は霊性が高いはずで誰よりも優れているんだよ!と。「それなのになぜ誰も褒めてくれないのだろう?」この疑問が彼の心に満ちており彼がもっとも必要としている”人”の言葉を聴きたいのだと感じました。しかし人に求めても意味がないということを理解していないように感じました。クリスチャンが誇れる理由は「神に関してのみ」であり、多くの努力は神にだけ理解してもらえれば良いのだということを理解する必要があるように感じました。しかしこれを言うと「何を解りきったことを言っているんだろう?」と考えるでしょうし、さらに「馬鹿にしているんだな。」と感じるでしょうから言えませんでした。「愛が足りない」とか「怠慢だ」と言われると辛いのですが、この会話でおいらもかなり傷ついてしまいましたので余計に言えなかったのです。「会話の食い違い」というのは世間一般では良くあります。自分の言いたいことをそれぞれが言って相手には何の益にもならないことが多いのです。しかしクリスチャンというのは老若男女問わず会話のベースが共通なのにズレていることに違和感を覚えました。おいらは人間の中でももっとも劣等な人間ですので彼の方が出来た人間であるのは明白です。彼が機嫌を損なった原因は絶対にこちらにあるのに傷つけたまま放置するような人間にはなりたくないですよね~。「謙遜」はとても美しい特質です。しかし彼との会話は人間的な主観からしか話せなかったので「謙遜からは遠いな~」と考えながら謝っていたんですよ。chomemaroさんの記事を拝見していると「感受性の強い方だな~」と良く感じます。このようなBLOGは記事を書き文字にする時点で「ある程度自分の心を整理できる」ので良いですよね~。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
よく、時に相手が日本語しゃべっているのか、こちらの日本語が変なのか解らなくなるときってありますよね。
きっと、彼は僕になるのが大変だったんでしょうね?なんか、そのあたりの事は、良くわからないですが^^;まじめなんですよね、きっと
感性がずれているのでしょうか
mumuさんは、謙遜ですね、それに、気が付くし
私なぞ、相手が気を悪くしている事にも、気付いてないんじゃないかしらと、しょっちゅう不安です(T▽T)
彼の言いたいことはよく解るのです。
褒めてもらえないことを良く聞きますし自分がいかに頑張っているかをアピールしたかったのでしょう。
おいらは「自分で頑張っていることを言う」なんて考えられない性格です。
彼の言っていることを聴いていて感じたのは、彼の「自信の元」になっていることは○○者として奉仕している時に最低限のことだと考えていたことでした。
頑張っていても、どんなに努力してもダメなところを指摘してくださる方もいましたし、自分で自分の不甲斐なさを責めることもありました。
「自責の念」は今でもゲヘナのように満足することなく、また間断なく自分の心を蝕んでいます。
彼のことを悪く言うつもりは全くありません。
それどころか、○○者として働いていることに神は大きな喜びを見いだされているでしょう。
彼の言葉は彼の心の悲鳴のように感じました。
よく頑張っていることを褒めてもらいたい!と。
自分で言わないと他の人は見てくれていないんだ!と。
これだけやっている自分は霊性が高いはずで誰よりも優れているんだよ!と。
「それなのになぜ誰も褒めてくれないのだろう?」
この疑問が彼の心に満ちており彼がもっとも必要としている”人”の言葉を聴きたいのだと感じました。
しかし人に求めても意味がないということを理解していないように感じました。
クリスチャンが誇れる理由は「神に関してのみ」であり、多くの努力は神にだけ理解してもらえれば良いのだということを理解する必要があるように感じました。
しかしこれを言うと「何を解りきったことを言っているんだろう?」と考えるでしょうし、さらに「馬鹿にしているんだな。」と感じるでしょうから言えませんでした。
「愛が足りない」とか「怠慢だ」と言われると辛いのですが、この会話でおいらもかなり傷ついてしまいましたので余計に言えなかったのです。
「会話の食い違い」というのは世間一般では良くあります。
自分の言いたいことをそれぞれが言って相手には何の益にもならないことが多いのです。
しかしクリスチャンというのは老若男女問わず会話のベースが共通なのにズレていることに違和感を覚えました。
おいらは人間の中でももっとも劣等な人間ですので彼の方が出来た人間であるのは明白です。
彼が機嫌を損なった原因は絶対にこちらにあるのに傷つけたまま放置するような人間にはなりたくないですよね~。
「謙遜」はとても美しい特質です。
しかし彼との会話は人間的な主観からしか話せなかったので「謙遜からは遠いな~」と考えながら謝っていたんですよ。
chomemaroさんの記事を拝見していると「感受性の強い方だな~」と良く感じます。
このようなBLOGは記事を書き文字にする時点で「ある程度自分の心を整理できる」ので良いですよね~。