今日は8月9日。
長崎の原爆の日……ということで、前回の記事に引き続いて、原爆の日についての記事を書きたいと思います。
長崎は、どうしても広島のかげに隠れてしまいがちですが、ここでもやはり凄惨な光景があったことは記憶にとどめておかなければならないでしょう。
長崎は、教会などのイメージから、“怒りの広島”に対して“祈りの長崎”というように語られます。
世界遺産登録ということでも注目されていますが、核の悲惨さを伝える地であるということも、同時に広まっていってほしいところです。
ここで名曲を一曲。
イアン・キャンベル・フォークグループの「太陽が燃えている」です。
核兵器がもたらす惨状を歌った歌で、サイモン&ガーファンクルがカバーしたバージョンも有名ですね。
前半では、美しい曲調で、公園で遊ぶ子どもたちや、恋人たちの姿が描かれます。
太陽は西に
子供たちは休息のために家路につき
公園の恋人たちは
手をとりあって日暮れを待つ
しかし、後半で、そこに核兵器が落とされます。
太陽は地上に落ちた
死のきのこ雲に覆われて
死がやってくる 目もくらむような光と
地獄のような熱とともに 死の灰を残し
太陽は地上に落ちた
太陽は消え失せてしまった
あるのは、暗闇と、怒りと、痛みと恐怖だけ
ねじまがり、光を失った人間の残骸が
地を這い、苦痛に泣き叫ぶ
太陽は消え失せてしまった
この歌の作者はイアン・キャンベルですが、私個人としてはサイモン&ガーファンクルのバージョンも捨てがたいです。
こういう歌をとりあげたのは、さすがサイモン&ガーファンクルですね。
“核保有”とか“核抑止力”といった言葉で覆い隠されてしまう核というものの生々しい無残さを描いています。
広島や長崎で暮らしていた人たちにも生活があったのであり、原爆はそれを瞬時に破壊してしまいました。
核について考えるときには、この視点を忘れるべきではないでしょう。
そのときの研究に携わった方が、「日本が核使用国にならなくて良かった」と仰っていました。
どこの国が悪いとか、どこの国が可哀想だとか、そういうことではなく、
人類という種そのものの罪として、核兵器の廃絶を進めていくべきではないか、と思います。
日本が核を使う側にならなかったのは、紙一重の差でのことかもしれません。
その紙一重の差で唯一の被爆国となったからこそ、日本は核廃絶の先頭に立つべきだと思うんですが……残念ながらそうではない現実があります。核廃絶どころか、核保有を主張する声すらあるという、この現実をどうにかしたいものです。