元オウムの死刑囚らに対して刑が執行されました。
地下鉄サリン事件から20年以上……
これを“区切り”ととらえられるかは微妙なところですが、とにかく時代が変わったということは感じますね。
どの辺が変わったかというと、テロの背景の変化というか……
地下鉄サリン事件の背後にあったのは、ある種“飽食の末の空虚”だったと思うんです。
そのころ村上龍さんが発表した『空港にて』という連作短編集があって、この作品に地下鉄サリン事件のことが書かれていたりするんですが、そのなかの一編にこんなことが書いてありました。
「普通の人は、一生、普通の人生というカテゴリーに閉じ込められて生きなければならない。そして、普通という人生のカテゴリーにはまったく魅力がないということをほとんどの人が知ってしまった。そのせいで、これから多くの悲劇が起こると思うな」
90年代ぐらいによく「日本は物質的には豊かになったけれど、心は貧しくなった」みたいなことがいわれていました。こういってしまうとなんだか陳腐ですが、一連のオウム事件の背景にあったのは、そういうことだと思うんです。物質的な意味での不足はない。だけど、なにか満たされない……という。
しかし、それから20余年がたち、日本は新しいフェーズに入っているような気がします。
それはすなわち、物質的な豊かさも失われつつあるということですね。
この十数年ほどの間で、“格差”や“貧困”が、無視できない状況になってきています。もう、「物質的には豊かだけど」という前置きも成立しなくなってきてるんじゃないかと思えます。かといって、では精神的な豊かさが回復しているのかといえば、それもどうなんだろうと首を傾げずにいられません。なんだかギスギスしていて、ちょっと何かあるとすぐにバッシング、袋叩き、炎上ということになり、差別や排外主義が蔓延する……
このままいくと日本は、物質的にも精神的にも貧しい、なにもない国になってしまうんじゃないか。昔は金持ちだったけど、バクチに手を出してすっからかんになり、他人の悪口をいいながら余生を過ごす隠居老人のような……
サリン事件に関する死刑執行の報道に接していて、そんなことを感じました。
地下鉄サリン事件から20年以上……
これを“区切り”ととらえられるかは微妙なところですが、とにかく時代が変わったということは感じますね。
どの辺が変わったかというと、テロの背景の変化というか……
地下鉄サリン事件の背後にあったのは、ある種“飽食の末の空虚”だったと思うんです。
そのころ村上龍さんが発表した『空港にて』という連作短編集があって、この作品に地下鉄サリン事件のことが書かれていたりするんですが、そのなかの一編にこんなことが書いてありました。
「普通の人は、一生、普通の人生というカテゴリーに閉じ込められて生きなければならない。そして、普通という人生のカテゴリーにはまったく魅力がないということをほとんどの人が知ってしまった。そのせいで、これから多くの悲劇が起こると思うな」
90年代ぐらいによく「日本は物質的には豊かになったけれど、心は貧しくなった」みたいなことがいわれていました。こういってしまうとなんだか陳腐ですが、一連のオウム事件の背景にあったのは、そういうことだと思うんです。物質的な意味での不足はない。だけど、なにか満たされない……という。
しかし、それから20余年がたち、日本は新しいフェーズに入っているような気がします。
それはすなわち、物質的な豊かさも失われつつあるということですね。
この十数年ほどの間で、“格差”や“貧困”が、無視できない状況になってきています。もう、「物質的には豊かだけど」という前置きも成立しなくなってきてるんじゃないかと思えます。かといって、では精神的な豊かさが回復しているのかといえば、それもどうなんだろうと首を傾げずにいられません。なんだかギスギスしていて、ちょっと何かあるとすぐにバッシング、袋叩き、炎上ということになり、差別や排外主義が蔓延する……
このままいくと日本は、物質的にも精神的にも貧しい、なにもない国になってしまうんじゃないか。昔は金持ちだったけど、バクチに手を出してすっからかんになり、他人の悪口をいいながら余生を過ごす隠居老人のような……
サリン事件に関する死刑執行の報道に接していて、そんなことを感じました。
確かに、90年代は物質的には裕福になれど、心のほうは貧しくなっていますね。私も90年代を生きてきたのですが、少しの事だけでキレたりする人や、侮辱したりする人も多かったですね。
私の通っていた学校も、クラスの人の大半が薄情だったり冷淡だったりして、自分大事の人たちでしたねぇ。
私も満たされない何かに囚われて、怒りや虚しさに襲われていたのですが、そう言えば信者もそうした感情に苛まされて、それを解消しようとオウムにのめり込んだそうですね。
死刑が執行された土谷 正実元死刑囚も、元々は普通のラグビーが好きな人間だったらしいけど、挫折を味わった事が切欠でオウムに全てを委ねる様になり、何時しか麻原が全て正しいと思うようになって行ったそうです。サリン製造と言う重い罪を犯したわけですが、麻原の正体を知ると怒りが沸いてくる様になり、自分のやった事を後悔するようになりましたね。
私も、高校時代に酷いイジメにあったので、オウムがあったら入ってしまおうとすら思ってきたのです。
ただ、高校を卒業して本を読んだりロックを聴いたりしていく内にそういう願望が薄れていって、今では落ち着いた生活を送れるようになりましたが、信者の人達も、オウムとは別の何かを見つければ、地下鉄サリン等の凶行に及ばずに済んだのでしょうが……
物質的な裕福さも去ることながら、精神的な裕福さも身につけるべきだと思います。私も精神的な豊かさを得られたのはロックのおかげですし、他にもマンガ作品とか映画作品とか色んな物から学んだ事があります。
一時期非実在青少年条例が問題になった訳ですが、犯罪の原因になるからと言って一つの物を一方的に締め出すというやり方では、オウムのような組織を作るだけです。
村上様のブログも凄く哲学的で学ぶ事がありそうなので、読者登録しておきました
それでは、失礼します
ハニー・パイに、ヘルター・スケルター……ビートルズがお好きな方でしょうか。
精神的な豊かさと一口にいってもなかなか難しいですが、60年代~70年代のロックは、一つの方向性としてそういうところを志向してましたよね。
ただ、それがその後おしつぶされていった歴史があり……そういう意味で、数十年規模で歴史を見直す視点が必要なのかもしれないと思います。
私が中学の頃にビートルズ展というのに行ってはまりましたが、彼らの音楽はバリエーションも豊富でサウンドの使いも上手く、それでファンになりました
その後、ザ・フーやニルヴァーナ、メタリカ、ザ・クラッシュと言った音楽も聴くようになりましたが、やはりビートルズは飽きる事がありませんね
そう言えば、「この世界の片隅に」と言うアニメをレビューした時に、ビートルズを取り上げて比較していました。
https://blog.goo.ne.jp/helter-skelter2008/e/4840808a529fbe8582798801d9bf7fe8
記事はビートルズのソロの事を取り扱いましたが、ジョンは反戦平和の社会活動を積極的にやっていて、そんなジョンと比較されて「コマーシャルなポップソングを書く商業主義者」と言われるポールも、どうしてそうしたスタンスを取るようになったのか、「この世界の片隅に」を見ながら分析していきました。
二人共哲学と言うがありましたし、どうすれば豊かになれるかの答えも出していると思います。
今、戦争や排外等に囚われて、社会は重圧にさらされていますが、それは今を生きる人々の視野が狭くなっているのでは?思っているのです。
川崎で中学一年の少年が殺された事件がありましたが、加害者の少年グループが逮捕された時、ヘンリー王子がエマ・ワトソンと交際も報じられていて、そこから「何故少年は人を殺したのだろうか?」と分析してみました。
https://blog.goo.ne.jp/helter-skelter2008/e/5ed202e7619b6141132f7626172d5c1d
エマ・ワトソンさんのスピーチ全文もありますので、何かの参考になれれば幸いです
https://yuma-matsumoto.tumblr.com/post/98217598964/emma-watson-speech-un-women-heforshe
エマのスピーチから、オウムの信者が何故麻原についていくのかも分かるような気がします。
等身大の平和主義というか、ジョン・レノンが過激主義と一線を画するかたちで平和を訴えていたというのは、よくわかる気がします。
このブログでも以前ビートルズについての記事をアップし、そこで「ジョン・レノンはyesの人だった」と書きましたが、まさに“破壊”や“否定”の方向にいかないところがジョンの特徴で、ハニー・パイさんの記事で紹介されている「レボリューション」の「みんな世界を変えたがってる。だけど、君が破壊について話しているなら、僕をそこに入れないでくれ」という歌詞は、端的にそれを表していると思います。
私はそこに、手塚治虫と通ずるものを感じてます。
手塚治虫も、ざっくりいえば“左翼”と呼ばれる(私は右とか左とかいう区分を好みませんが)ようなメッセージを込めた作品を描いていますが、破壊的な活動とは明確に一線を画していましたね。
オノ・ヨーコさんの言葉でいえば、「壁を壊すのではなく、窓を開ける」ということだと思います。
とかく非妥協的な対立に走りがちないまの時代に、そういうスタンスが必要なんじゃないかと私は感じています。