ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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『エネミー・オブ・アメリカ』

2018-09-13 16:19:20 | 映画
前回、同時多発テロ後のアメリカについて書きましたが、そこで『エネミー・オブ・アメリカ』という映画の名前が出てきました。
ことのついでなので、今回はこの映画についても書いておきたいと思います。

主演は、ウィル・スミス。
前回の記事でも書いたとおり、NSAの恐ろしさを描いた映画になっています。公開は1998年で、同時多発テロよりも前のことですが、ある意味では来るべき世紀のアメリカの姿を無気味に予言しているようでもあります。

ストーリーの発端は、ある殺人。
NSAの行政官であるレイノルズは、盗聴などを可能にする「通信の保安とプライバシー法案」を通そうとしていました。そして、それに反対する議員であるハマースリーの説得を試みたものの、あえなく失敗。彼を、事故にみせかけて殺害してしまいます。
その様子が、偶然カメラにとらえられていました。
野鳥観察のために、カメラが設置されていたのです。
カメラの設置者であるダニエル・ザビッツは、そこにとんでもないものが映っていたことに気づきます。
レイノルズの側も、撮影されていたことに気づいて、その映像を回収しようとします。この映像が、ふとしたいきがかりからウィル・スミスの演じる弁護士ディーンの手に渡り、彼がNSAに付け狙われることになるのです。
衛星による監視、盗聴、発信機を使った追跡など、レイノルズはあらゆる手段でディーンを監視し、マスコミに彼にとって不利な情報を流し、カードを使えなくするなど陰湿ないやがらせをしかけ、じわじわと追い詰めていきます。一方ディーンの側は、ジーン・ハックマン演じる謎の男ブリルの助けを借りてNSAに対抗。いったんは追い詰められますが、毒をもって毒を制す的な手法で、最終的にはどうにか危機を乗り切るのでした。

この映画が秘密情報機関的なものの恐ろしさを的確にとらえているのは、それ自身の暴走のために悪事を犯し、そしてその悪事を隠すという“安全保障”とはいいがたい目的のためにその絶大な力を行使してしまっている……というところでしょう。

歴史上、秘密警察的なものはいくつも存在し、いまでも存在していますが、たいていにおいてそういう組織はある種のカルト教団的な性質をもっていて、しばしば暴走し、恣意的にその力を使ってしまうことがあります。
前回アメリカに関して書いた記事でも、まさにそれと同じことが起こっていると思うんです。
ハリケーン被災者の健康被害を取材したBBCの記者をNSAが拘束したなんてのは、暴走の最たる例でしょう。
『エネミー・オブ・アメリカ』では、最終的に主人公側が勝利するわけですが、それは映画だからの話。実際にあんなことをやられたら、個人では対抗のしようがないでしょう。
安全のためにといって自由を手放していけば、最終的には両方とも失う……この映画をみていると、前回の記事でも書いたこの言葉をあらためて思い起こさずにはいられません。

堤未果『アメリカから〈自由〉が消える』

2018-09-11 16:58:23 | 
今日は9月11日。

2001年に、アメリカ同時多発テロの起きた日です。

あれから17年……

去年は、イーグルスが9.11のテロに触発されて作った「ホール・イン・ザ・ワールド」という曲を紹介しましたが、今回は、同時多発テロ後のアメリカ社会の変化について、思うところを書いてみようと思います。

同時多発テロは、その後のアメリカ社会にも大きな変化を引き起こしました。
このブログでも折に触れて書いてきたように、セキュリティの意識が高まりすぎて、過剰防備の状態になってしまい、社会にある種の圧迫感や閉塞感をもたらしているということでしょう。
その点について、堤未果さんの『アメリカから〈自由〉が消える』(扶桑社新書)という本を参考にして、書いてみようと思います。

この本には、アメリカの一種異常ともみえる状況が描かれています。
たとえば、法で禁じられているにもかかわらず市民団体に「スパイ」を潜入させる、学校内で学生新聞を担当している教師の教室に監視カメラが密かにしかけられる……果ては、「デスノートごっこ」をしていたという理由で小学生が逮捕されるなんてことまであったそうです。
悪名高きナショナル・セキュリティ・レターというものもあって、これは令状なしに召喚を求めることができるというもので、17世紀の権利章典とかそういうところまでさかのぼる話になっています。
また、愛国心の名のもとに、メディアへの締め付けも強化されます。
問題なのは、それがどんどん拡大されていき、安全保障と呼べるのかという領域にまで広がっていくことです。
堤さんの前掲書では、ハリケーン「カトリーナ」の被災地で住民の健康被害を取材したBBCの記者がNSAに告訴されたという話が紹介されています。NSA(国土安全保障省)というのは、盗聴やら監視といったことをやっている怪しげな組織で、映画『エネミー・オブ・アメリカ』なんかでその恐ろしさが描かれていましたが、あの映画はあながち誇張でもないということでしょうか。災害対応という安全保障とも呼べないようなことで、そういうことをやるわけです。まあしかし当人たちは、いやこれは立派な安全保障だと言い張るんでしょうが。
メディアの締め付けという話では、アメリカ財務省がSWIFTというシステムから秘密裏に個人情報を盗み出していたことをNYタイムズとLAタイムズがスクープした話も出てきます。
これに当時のブッシュ大統領は「国の安全保障をおびやかした」と激怒したそうですが、それに対するNYタイムズの編集長ビル・ケラーの反論が紹介されています。
「私は、正確な報道は国にとっての利益になると信じている。/九・一一以降、イラクで行われている暴力について報道した記者たちはみな、敵側に有利な情報を与えたとして批判にさらされている。/この国の建国者たちは、大統領の言葉をうのみにしたり、報道内容に関する重要な決定を政府にゆだねることを、決して賢明とも愛国的だとも思わなかったはずだ……」
至極まっとうな意見だと思いますが、保守系のメディアはこれを徹底して叩いたそうです。

話は、マスメディアだけにとどまりません。
イラク反戦デモの映像をアップしたブロガーが、その資料を当局へ提供することを拒否したために収監されたという話もあります。
そしてきわめつけは、オバマ政権時にホワイトハウスのブログが発した「政府の政策に反対する者がいたら通報してください」というメッセージですね。「医療改革法案」をめぐって、「間違った情報がインターネットや日常会話を通して次々に広まり、人々に不安を与えることを避けるため」ということなんですが、もう無茶苦茶でしょう。

いつだか、テロ後のアメリカ社会を扱ったドキュメンタリーで、出演者がこんなことをいっていました。

安全のためにといって自由を手放すしていくと、最終的には両方とも失ってしまうことになる。

同時テロ後のアメリカは、まさにこういう方向に行ってしまってると思いますね。このことから日本が学ぶべき教訓は、決して少なくないでしょう。

台風、震災被害の教訓

2018-09-09 21:42:50 | 時事
台風21号、そして、北海道地震の影響が、いまなお続いています。

前後関係から北海道の地震のほうにフォーカスがいっている感がありますが、大阪でもまだ停電がかなり広範囲で続いているようです。

今回の災害で明らかになったのは、一極集中のもろさだと思います。

関空では、橋が一本しかなかったことが、そこにいた人たちの脱出を困難にし、北海道では、巨大な火力発電所のダウンがブラックアウトにつながりました。

一極集中でなければ、いざというときのバックアップや、負荷の分散をはかれたと思うんです。

一極集中というのは、日本全体の問題としてもいえることでしょう。
東京とその周辺に人も企業も集中しているという状態……これは、非常によくないと思うんでしょう。

勝海舟が中国についていってたことなんですが、中国というのは、心臓がいくつもあるから強い、と。だから、どこか一か所をやられても、そう簡単に全体がつぶれることはない、というんです。
その観点でいうと、日本はどうか。
東京が大災害に見舞われたら、日本全体が一気に危機に陥ってしまうのではないか……そういったことを考えると、ふだんから東京一極集中ではなく、多極化しておくことが必要なんじゃないか。そんなことを思いました。

台風21号、北海道の地震……

2018-09-07 15:46:41 | 時事
北海道で地震がありました。

台風21号に次いで、この大地震……

どちらも、被災地のすみやかな復興が望まれるところです。

思えば、この数年の日本は、大規模な自然災害が相次いでいます。

こうなってくると、なにかオカルト的な言説が広まりかねないような状況ですが……少し考えてみると、地震や気象災害が相次いで起きるのは、じつはそれほど不思議なことでもないんじゃないかと思います。

気候変動の影響で世界全体で異常気象が起きていて、豪雨やハリケーンなどの被害が大きくなってきているのは世界的傾向でしょう。そして、日本では、東日本大震災以来、日本列島が全体的に地震活動が活発になっている……この二つが重なった時期にあるということで、気象災害や震災が次々に起きているのだと思います。
ということだとすると、今後もこんなふうな災害に見舞われる確率が高まっているということで、防災、減災の備えを充実していく必要があるでしょう。
とりあえず今の話として言えば、自民党も、総裁選なんて後回しにした方がいいと思うんですがね……

CCR「雨を見たかい?」(Creedence Clearwater Revival, Have You Ever Seen the Rain?)

2018-09-05 18:01:43 | 音楽批評
9月になりました。

いくらか過ごしやすくなってきましたが……しかし、まだまだ暑い日が続きます。

そんな暑い日々にうってつけの曲として、今回は「雨を見たかい?」という歌を紹介したいと思います。

原題は、Have You Ever Seen the Rain?
いわずとしれた名曲ですね。
曲の構成はきわめてシンプルですが、そこはやはりシンプル・イズ・ザ・ベスト。ジョン・レノンのイマジンについて書いたときもそういいましたが、この曲はイマジンよりもさらにシンプルなコード進行です。
歌っているのは、CCR。
正確にいうと、Creedence Clearwater Revival。ただ、もはや略称のほうが一般的なので、この記事ではCCRでとおします。
CCRといえば、その中心はジョン・フォガティ。ライブハウスでマイクなしで歌っていたことによって鍛えられたというボーカルと、特徴的なギタープレイで、唯一無二の個性をもつロックンローラーです。ジョンのボーカルは、「雨を見たかい」でも存分に活きています。


ところで……以前、このブログで私が“インディーズ”として出した短編集のことを書きました。
文学フリマというイベントに出すために作ったものですが、そのなかにこの「雨を見たかい?」をタイトルとした一編がありました。
そういうわけで、この曲は実はトミーシリーズゆかりの歌でもあるのです。
例によっての我田引水ですが……せっかくなんで、その短編のなかでも触れていた「雨を見たかい?」についても書いておきましょう。


この曲は、よくベトナム反戦歌だといわれます。

発表された1970年ごろは、ちょうどベトナム戦争に対するアメリカ国内の反対運動が高まっていた時期で、そういう時期に発表されたこともあってのことでしょう。
降ってくる爆弾を雨になぞらえて、戦争の惨禍を歌っているという、そういう解釈がよくなされます。

しかし、その説には強い疑念も投げかけられています。
「雨を見たかい」というのは、本当は反戦歌じゃないんじゃないか、と。

調べてみると、どうやら、Who'll Stop the Rain という別の歌と混同されたというのが真相のようです。

Who'll Stop the Rain は、爆弾を雨になぞらえて、誰がその雨を止めるのかと問いかける、反戦の歌という解釈が成り立ちます。この歌と混同されて、「雨を見たかい」が反戦歌のように誤解された、というわけです。
なるほど、この説には説得力があります。


どちらかというと、「雨を見たかい」では、雨は渇いた大地をいやしてくれる恵みというような意味合いのように思えます。

以前、忌野清志郎のエッセイでこの曲について書かれているのを読んだことがあります。

それによると、「雨を見たかい?」というのは、アメリカ南部地方のあいさつの言葉なんだそうです。

その地域では雨がほとんど降らず、みな雨が降るのを心待ちにしている。その心情が、「雨を見たかい?」というあいさつの言葉になったといいます。

その真偽はわかりませんが、そんなふうに考えると、この歌のいわんとしていることが伝わってきます。

CCRというバンドはジョン・フォガティを中心としていますが、そのジョンのワンマン気質のために、バンド内の人間関係は慢性的にぎすぎすしていたといわれます。
そのいさかいが絶えない状態を、日照りの続く地になぞらえて、渇きをいやしてくれる雨を待ち望む……そういう歌だということになります。

そんなふうに解釈すると、この歌は今の日本に、いや、世界にぴったりなんじゃないかと思えます。
むしろ、ベトナム反戦歌という以上の普遍性を持っているとさえいえるんじゃないか。そんな気がしてきます。

件の清志郎のエッセイを引用しましょう。

 CCRの「雨を見たかい?」を聴いてから、僕は実にしっくりしてきたんだ。雨を待っている気持ちが何か独特の感じになったのさ。乾燥した砂埃の田舎町で雨を待ちこがれてる感じ。この感じは、実は我々、現代人のフィーリングじゃないのか? いら立つこともあるだろう。犯罪を犯しそうになるのも紙一重だ。あきらめに似た気持ちにもなって当たり前だ。「もう雨は降らないかも知れない、自分のためには。このまま干からびてしまうのかも知れない」大人になれば誰でも一度や二度、そんな気分も味わうものだろう。つまり、ずっと日照りが続いてるってことさ。堪えきれなくなった人間が何かをやらかすのさ。それが犯罪だったり、事件だったりね。


この後、「しかし、それが美しい革命だったら、どうだろう?」と続くんですが、現実の世界では、うち続く日照りが犯罪や事件を引き起こし続けるばかりではないかと思えます。
そんな時代にこそ、雨を待っている気持ちは切実なんじゃないでしょうか、
まあ、気象の点でいえば、もう雨なんて降らなくてもいいよという状態ではありますが……