我が窓を 訪ひし心に 我は恥づ 月を月とも 思はざりしと
*これは返歌です。以前、「こどくがふたつ」という歌を紹介しましたね。あの時かのじょが歌を寄せた男性から、返ってきたのです。
彼はどうやら死んだらしい。死んで霊界に帰ってから、かのじょの心がわかって、とても後悔したらしいです。
霊界というところは、心の世界です。時に、はてしなく遠く隔たっていても、ほんの数秒で心が押し寄せてくる時がある。彼の嘆きが大きかったので、それがどうやら、わたしたちのところに流れてきたらしい。
彼は愚かで、あまり勉強の進んでいない人だが、心は純なのです。馬鹿なこともしてしまうが、痛すぎることはとてもできない。弱くて、人に馬鹿にされても嫌なことはできないものだから、いつも影の方に流れていく。そういう心の中に、美しいものがあるから、かのじょは寄って行ったのです。
天使というものは時に、強いものや賢いものよりも、美しいものを慕って寄って来るのですよ。神もそうです。
なぜ彼の心がここに流れてきたのか。それは彼の心の嘆きが純で、美しかったからです。純粋な美しさというものは、まるで吸い込まれていくように、神の愛の流れに乗る。そしてその願いがかなうようにして、心が愛する人のところに流れていくのです。
彼は、後悔している心を、かのじょのところに届けたかったのに違いない。いやらしい世の中に生きて、人の嫌なところばかり見てきたから、近寄ってきたあの人の心を見抜けなかった。その自分のふがいなさが、とんでもなく情けなかったのです。
単純だが、せつせつとした歌だ。強いことができない自分を、恥じることはない。強いことができない者には、そういう者としての使命がある。その自分を大事にして、精進していってほしい。
弱さというものは時に、激しい美しさを生みます。痛いことができない自分というものを認めるしかない時、人は自分そのものを神にさしあげるしかないからです。そういうことが、切ないまでに痛い美を生むことがあるのです。
彼の嘆きは、それに近かったのでしょう。だから、神の愛の流れに乗って、わたしのところにきたのです。