月影を 茶碗に酌みて いつはりに 染むるまなこを 洗ふてもみよ
*久しぶりにかのじょの作品をとりましょう。これは2008年のものです。俳句が来ませんね。楽しみにしている人にはすまないが、どうしてもこちらのほうが豊かなので取り上げてしまいます。なかなかに、友達が俳句を詠んでくれない。わたしの作品はたくさんあるが、そればかりでは痛い。だがまあ、もう少し経てば、俳句もやってみましょう。
月の光を茶碗に酌んで、間違ったことばかり見ているそのあなたの目を洗ってみなさい。
何となくわかるかもしれませんが、これが、後にかのじょが月の世の物語に描いた月光水の発想の元になった作品です。光を水のように器に酌んだり滴らせたりするという発想は、そう珍しいものではないが、こうくっきりと言われると、印象が深くなりますね。
本当に、月の光を茶碗になど汲めたら、どんな不思議な香りや味がするものか。物語の中でも不思議な使われ方をしていました。飴のように月の光を丸めるなどという発想もありましたね。月珠(げっしゅ)という。あれもおもしろかった。いつか歌にも使ってみたいものだ。
物語の中では、月珠を作っているのは醜女の君というかわいらしい天女様だけだという感じになっていますが、実は隠れた設定があります。醜女の君が作っている月珠の他にも、天の国の工房でよい人間たちが作っている月珠もあるのです。それもよいものなのだが、醜女の君が作る月珠ほど澄んで高く美しいものはない。それで人々は、たとえ長いこと待たされても、醜女の君の月珠を欲しがるのです。
あの物語の世界には、かのじょが書ききれなかった不思議な話のかけらがあるのですよ。お話にするほどでもないが、捨てがたい文様がある。記憶の底に沈んでいるが、何かの機会に出てくればまた、話してさしあげましょう。
醜女の君というのは少し痛い名前だが、実に彼女は美しい。王様の言っていることは本当です。あの王様は、吉田松陰をモデルにしているのだが、かのじょの分身のようなものだ。自分が言いたいことやりたいことを、全部彼にやらせている。なぜ醜女の君が美しいのか。影でみなのためにいいことをたくさんしているのに、それを誰にも言わない。自分が美しくないと信じ込んでいる。だからいつも影に隠れて働いている。清らかなことを一生懸命にして、人のために役立てることを何よりの幸せにしている。
そんな人は、たとえ形がそれほどではなくとも、とても美しいのだと、あの人は言いたいのだ。美しさとは形なのではない。その人の心なのだと。
あの人は醜女の君を通して、そんな女性たちをほめてあげたかったのです。あなたがたはとても美しいのだと。
茶碗に酌んだ月光で目を洗い、真実が見えるようになった目で、人を見てみなさい。本当の美しい女性を見分けることができるようになるでしょう。