会ひたきも 散るが悲しき 芥子と月 夢詩香
*大晦日ですから、それなりに季節にあった句を詠もうとは思ってはみるのですが、なにせわたしの心はあちこちに飛ぶ。季節などおかまいなしです。
あの人のことを、ひなげしにたとえたのは、わたしの友達の一人ですが、わたしもだいたいそれには賛成です。確かに、あの人はひなげしのようにはかなげなところがある。本音を言えば、わたしとしてはほんの少しそれに条件をつけたいのだが。
あの人はひなげしが好きでした。かわいらしいのに、あでやかではなく、引き締まっている。そこがどこか男の子っぽいのが、あの人は好きだったのです。なんとなく、自分に近いものを、やはり感じていたのでしょう。
だがひなげしの方は、自分をかのじょの比喩に使われることは、ちょっとつらいと思うかもしれません。美しいものは、いつもそういうものだ。自分の美しさが、よくわからないのです。自己存在というものは、自分とは違う人の美しさは、よくわかるものなのだが、自分の美しさというのは、あまりよくわからないのです。
ひなげしとかのじょの違いは、ひなげしは昼咲いて夕には散るが、かのじょは夜の間にも月のように光ってくれることです。
この世界の、最も苦しい矛盾の時代にも、きりりと自分を通して、生き抜いてくれたのです。
ひなげしは、そういうかのじょの、夜にも光る花を見たい。だが、自分は、夜になる前に散ってしまうのだ。それは、ひなげしは悲しいだろう。
日向にも咲いている空の月のかすかな白さを見上げて、ため息をつく。あの人の夜の姿はどんなに美しいだろうかと。
そういうひなげしの心は美しい。
美しさというものは、自分の中にある本質の愛の発露だ。だれも妨げることのできない真実の愛の言葉を発する、切ない痛みだ。
永遠の未来の中に、ひなげしと月の邂逅はあるかもしれないが、それは神に預けておきましょう。
どうにもならないことに、小さな愛を塗る花の姿の、あまりにも奥ゆかしいかわいらしさを、わたしはしばらく見ていたい。