ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

2018-06-20 04:20:02 | 短歌





くはしめの 白きを憎む あだし世の 鵺はおのれの いつはりに住む





*今日も一年前のツイートからもってきました。これは大火の作です。なんとなく雰囲気でわかるでしょう。

「くはしめ」とは「美し女」、もちろん美しい女性のことです。あまり古典では使われない言葉ですが、われわれの活動では便利な言葉なので多用しています。

美人の色が白いのを憎んでいる、この馬鹿な世の中の鵺のようなやつらは、自分に嘘をついている世界に住んでいる。

まあ、言いたいことはわかりますね。解説するまでもないがやりましょう。

「鵺(ぬえ)」とは、古語辞典によると、頭は猿、体は狸、尾は蛇、四肢は虎になっているという想像上の動物のことですが、ここでは気味の悪い妖怪めいたもの、という意味で使っています。

「白い」というのは肌の色が白いのと同時に、何も悪いことをしていないということの意もあります。

ようするに、美人が悪いことをしないのが嫌だと言う馬鹿どもはいつも、自分に嘘をついているということなのです。

本当は自分が美人に嫉妬して汚いことをしていることが痛いのだ。それなのにそれをごまかして、すべてを美人のせいにしている。そんな顔をしていればみんなにいじめられて殺されるのが当たり前だ、だからあっちが悪いのだなどとね、苦しい言い訳だ。結局は自分が自分の意志で勝手にやっていることなのに、「あっちがそうさせるのが悪いのだ」にしてしまう。

何もしていないのに悪者にされた美人はたまったものではない。

実質、悪いのは嫉妬している方なのです。なんで嫉妬するかと言うと、自分はそれほど美しくはないからだ。美しくなりたいのになれないからだ。だから、美しくなった女をとことん憎む。憎めば憎むほど自分は醜いものになっていく。嫌なことをして自分が汚れていくからです。そんなことすら、美人のせいにして、自分は嘘の世界に逃げる。

すべてを人のせいにするから、醜いのです。何もいいことはしないから、美しくはないのです。それらはすべて自分のせいだ。ほかの美人のせいではない。

女というものの中には、弱さに甘えて、何もかもを男やほかのものにやらせようとするものがいる。美人になりたいのも、美人になれば男が寄ってくるからだ。その根性が治らない限り、美しくはなれないのだと、あほうは知るべきです。

何もかもをひとのせいにしてきたから、こんな究極の時代に大きな失敗をして、とうとう人類を落ちたのです。






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まことの夢

2018-06-19 04:20:09 | 短歌





かなはぬと おもはざりけり とほかれど ひとのすくひの まことの夢を





*今日も一年前のツイートからとりました。ひとつ、間違っていたところがあったので、そこを直してあります。

元の作では、「とほかれど」が「とほけども」になっていました。どうも、短い間にすらすら詠んで打ち込んでいるので、勢いで「とほけども」になってしまったのかと推察します。簡単な間違いですからね。

わたしたちは、ツイッターではほとんどのツイートを即興でやっていますから、時にこういう間違いも混じっているのです。

かなわないとは、おもいはしない。それは遠いけれど。人間の、ほんとうの救いの夢を。

かのじょのために歌ったものでしょう。かのじょが生きていた頃、世界には嘘が吹き荒れていました。自閉の籠に閉じこもっていなければ、心がずたずたに傷ついて死んでしまいそうなほど、人間の心の嫌な影が、鎌のように風に混じって吹き荒れていた。

みな、自分が苦しかったのです。あまりに自分が嫌なことをしているのが、つらかったのです。だから人間は他人ばかり見て、他人を馬鹿にしてばかりいた。少しでもまともにやっているやつを見つけたら、みんなでいじめてつぶしていました。

そういう世界の最中にいて、人間の、本当の自分への正しい救いの夢を語るのは、深海の暗闇で大空を飛ぶ鳥を恋うことに似ている。絶望的な叫びです。

ですがかのじょはかなわない夢だとは思わなかった。自分の心が本物であれば、必ず神が見てくださっていると思っていた。

そしてそれは本当だったのです。

もう詳しくは言いますまい。かのじょはそれをやりとげたのですから。大嵐の中をひとりで突っ切って、人類に本当の自分の真実を教えた。それだけで、すべての人類を救ったことになったのです。

神を信じていればこそできたことでした。

あれはぶっつけ本番の賭けでした。原稿を推敲するひまなどない。時に間違っている語句もある。リアルタイムの、天使による、創造だったのです。

本当の救いは、そういうものなのです。






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照る影

2018-06-18 04:20:21 | 短歌





わが影を 玉とせおひて ゆく闇に 照る影こそは わがみなりけれ





*今日も、一年前のツイートから歌を持ってきました。実はわたしたちの歌は今スランプ状態なので、うまく詠えないのです。

馬鹿があがいているからです。できる霊魂はいるが、この肉体存在の活動を妨害する者がいるのです。

こういうことはよくありますね。今までできていたことが、突然うまくできなくなる。そういうことには、たいてい馬鹿の霊がかかわっているのです。

馬鹿というのは自分がつらくてしょうがないものですから、人の邪魔ばかりしているのです。わたしたちが歌をたくさん詠んで、悪いこともなくそれなりにうまくいっているのが、妬ましいらしい。自分たちはとてもひどいことになっているからです。

しかし何でそんなにひどいことになるかというと、自分のことをやらずに人の邪魔ばかりしてきて、それが返ってきているからなんですが、そこを十分にわかりたくない馬鹿は、復讐の刹那的快楽が欲しくて、いつまでもやっている。そしてどんどんひどくなっていく。

自分自身の影を、玉のように背負っていく闇を、照らしていく光は、自分自身であることよ。

馬鹿が助かる道は、自分の影、過ちを認めて、それを大事に背負っていくことなのです。それを自分でやってこそ、自分が光になる。本当の自分自身こそが、闇をゆく自分の糧ともなり道標ともなるのです。

自分で自分のことをやらねば、救いは永遠にありません。

人の邪魔ばかりすることをやめ、もう自分に戻りなさい。妬みばかりに振り回されていると、永遠に自分に苦しむ。二度とない時を、もう二度と失わないために、本当の自分に戻り、本当の自分をやるのです。






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高き夢

2018-06-17 04:19:33 | 短歌





たぐひなき 高き夢こそ うたひつれ ちひさきかひの ことに手をそへ





*ツイッターも初めてもう1年以上になります。一年でもう二万以上ツイートしましたが、最初はここまで膨らむとは思っていませんでした。

なんでもない。わたしもいろんな歌を収集していたものですから、ゆったりそれでもつぶやこうと、最初は思っていたのです。そうしたら、次から次と仲間が参加して、こうなってしまいました。

今の時点では、短歌はどこかに行ってしまっていますね。もろに大火のつぶやきがメインになっています。まあ、彼がいればこういうことになるのはわかっていますから、あまり文句は言いませんが。

何せ彼は何にでも口を出して、すぐに主役を奪ってしまいますから。

表題の歌は、かのじょのことを詠ったものですね。ツイログで、一年前のツイートというのを教えてくれるので、それからとったのですが。

たぐいのない高い夢を歌ったのだ、小さな貝の琴に手を添えて。

小さなパソコン一台で、たぐいない救いの夢を歌った。そういうことをそのまま歌った歌です。かのじょはこの人生の本霊として、実に大きく努力してくれました。すさまじい逆風の中で、だれにも理解されない孤独の中で、ただ一筋、救いを目指して活動してくれたのです。彼アンタレスは、そういうかのじょの守護霊をしていました。

バックに陣取ってね、痛いところで霊的に口を出し、いろいろとかのじょを守護するために活動していたのです。しかしこの人生はそれだけで終わらなかった。

あまりにかのじょが疲れすぎていたため、守護霊の彼が出てきて、人生の主役を奪ってしまったのです。

こんなことはまれどころではない。彼一例だけです。守護霊が本霊の活動を全部とってしまうなどということは、普通ありえません。大胆不敵などというものではない。

しかしそれでも、それしかないというのなら、やってくれるのが彼なのだ。政権簒奪者シリル・ノールは彼そのものです。だがそれでみなが助かる。

例の、彼が書いた小説はおもしろかったでしょう。一応かのじょの作品から題材をとってはいるが、中身はまるで違います。かわいらしいかのじょのメルヘンから、あのどぎつい小説ができると思わなかったでしょう。

彼とかのじょが全然違うことの証明のようなものだ。中にはいまだに、かのじょがひとりで芝居しているのではと疑っている人もいるでしょうが、それもあの作品を読んだら疑いが晴れたでしょう。

アイテムは同じ貝の琴だが、彼の仕事は全然違います。






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木の葉

2018-06-16 04:19:49 | 短歌





ひとひらの 木の葉のうへに 城を建て わが世となすか 凡庸の淵





*馬鹿の居城というものは時に目を見張るほど大きいが、その礎というのはもろいものだ。まるでひとひらの木の葉のような言い訳の上に建っていたりする。

どうせすべては馬鹿なのだ、だからいいんだ、くらいのことでね、みなからいいものを盗んで、ただ自分のためだけの居城をつくるのだ。だがそれはほんとうに、木の葉一枚を揺らす風がそよと来るだけで、揺らいでくる。

馬鹿どもは自分がしたことがひどすぎるので、それを何とかするために、いろいろと馬鹿なことをやり募っているのですがね、それはほんの木の葉一枚の島によってたかってつかまって、なんとか自分を助けようとしているごときのものなのだ。

なんでもいいから痛いものをこしらえて、自分が助かる島をこしらえたい。だがそれは、本当に些細なことですべてが崩れてしまう。

凡庸というのはつらいものだ。自分を守るあさはかな囲いの中から出てこようとしない。

自分のやったことがあまりに馬鹿らしくて、恥ずかしいからだ。

馬鹿どもはこの時代、美人はみんな馬鹿なのだ、であまりにも馬鹿なことをやった。だが結果、馬鹿な美人などひとりもいなかった。やったことのすべてが自分に帰ってくるとなって、あわてて言い訳をこしらえようとして、木の葉一枚のような現象に集まってなんとかしようともがいたりもしたのだが。

それもひとひらの風ですべてが崩れていく。

愚か者は自分が愚かだということを認めない限り、凡庸の淵から出てくることはできません。

二度とない人生を少しでも明るいものにしたいのなら、小手先の技術でできることを卒業し、まじめにやりなさい。

人間を落ちても、できることはある。

馬鹿を認めて、全てに謝り、真面目に償いをしていくことだ。

何度言ってもだめでしょうが、言いましょう。






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はてしなき道

2018-06-15 04:21:41 | 短歌





ありてなき 片身のかひの 玉欠けて 何となるべき はてしなき道





*これは厳しい歌ですね。

ありてなき、とは人間にはあるものはあるが、ないものはないということだ。自分というものは、自分にあるものはあるが、ないものはない。そういうものだ。まるで片身を欠いた貝のように。

まあそれが人間の本当の姿だと言うことですが。中にはそれを嫌がる人もいるのです。他人を見て、他人に自分にはないものを見つけると、それを欲しがって、盗もうとする人がいる。実際人から盗んだものを自分につけて、自分ではないものに化けている人もたくさんいる。

しかし、片身を欠いた貝にも珠は秘めてあるものだ。それは自分の中の本質の隠喩です。自分の自分らしさの根源にあるもの。それがあるからこそ自分は美しいというもの。

しかしそれが欠けたらどうなるのか。一体自分はどんなものになってしまうのか。

あるところもないところもある片身の貝のような自分の本質が欠けてしまった。自分は一体何になるのか。それさえわからない、はてしない道をゆかねばならない。

神が創ってくださった自然な自分を生きていれば、自己存在は神が用意してくれた美しい未来を生きることができただろう。けれども、その神が創ってくださった自分を壊してしまえば、もうそれはないのです。

人間というものは、やろうと思えば自分で自分を壊すこともできるのだと言うことを、学ばねばなりません。そんなことになったらどういうことになるかということも、知っておかねばなりません。

神が創ってくださった自分の本質を剋するようなことをし続けると、本当にそれは壊れてしまい、もう元の自分にはもどれなくなる。そうなると、自己存在は自分を何にするべきなのか、自分で考え、自分で作っていかねばならないのです。

それははてしなく苦しい道なのです。






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たがそでの露

2018-06-14 04:22:22 | 短歌





われのみの きよききぬ着て 夢路ゆく 人は知らずや たがそでの露





*これは大火の作品です。いつもはおちゃらけたような作品ばかり詠むひとも、たまにはこういうのも詠みます。時々はこういうのも入れないと、馬鹿っぽいことばかりいうおじんだと錯覚されてしまうと本人は思っているようです。

読者の中には錯覚ではないと言いたげな人もいるようですが。

まあ、大火流のあのおもしろいやりかたも好きですがね、たまにはまじめにやってほしいものだ。いつでもあれでは、ムジカの私撰歌集(のはずでしたが)の品位が疑われる。

それはそうと、表題の作はこんな感じですね。

自分だけが清いという衣を着て、夢の中をゆく人は知らないのだろうか、そのためにだれかが涙で濡らしているその袖を。

世の中には、自分だけをいいことにしたくて、人に気持ちを押し付けてばかりで、人の気持ちなど考えない人が多くいるもので、そういう人はそのために苦しんでいる人が影で泣いていることなど何も気づかないのだ。

自分の気持ちしかわからない人というのはいるものです。

そう言う人が、天使の美女を見ると、もうあんなきれいな人になりたくて、その真似ばかりするのです。きれいになりたくてしょうがなくて、おそろしいほど着飾るのです。絶妙なやり方でね。天使はいつも地味な格好をしていて、それがきれいだったものですから、それを真似する人は、全体的に地味目にしておいて、肌の白さや目の輝きなどを異様に強調するのです。

それが痛いなどというものではない。人間の分を越えて、天使レベルにまで光らせるものですから、ものすごく見苦しい。見る人はみんな嫌がっている。だのに本人は人の気持ちなどわからないものですから、とにかくきれいになりたくて、自分を磨きまくるのです。表面だけをね。

それは違うでしょう、あなたはそんな人じゃないでしょう、などと言っても聞きはしない。全部嘘だと言うことがばれているのに、やめはしない。本当に、馬鹿というのは困ったものだ。

今これを書いている時点でも、かのじょの真似をしている馬鹿な女性をたくさん見かけます。

これが出るころにはその流行も収まっていればいいのですが、それは無理のようだ。

馬鹿な人たちは、かのじょの美しさにしびれてしまっている。

見る人の涙など見もしないで、馬鹿な人たちはまだ続けるつもりでしょう。






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がらすのさなぎ

2018-06-13 04:19:20 | 短歌





すきとほる みどりにしづむ 人の目の 闇にこほれる がらすのさなぎ





*今日は少し不思議なのを生きましょう。

がらすのさなぎ、とは美しいイメージですね。さなぎがガラスのように透き通っている。それは中身が見えるという意味だ。

「すきとおる」は、「みどり」にも、「さなぎ」にもかかるでしょう。制限のある定型詩ではそういうこともできます。

すきとおるような緑の中に沈んでいく人の目の闇に、凍っているガラスのさなぎが見えている。

ガラスとは、やすやすと人に自分が見抜かれていることを意味するでしょう。さなぎは、次の段階に行く前の仮の姿だ。

ということは、人類の段階の成長にしたがって、自分の感覚が新しく見えた時、見えたものは、さなぎがガラスのように透き通っていたということだ。

つまりは、すべては見られていたということなのです。永遠にだれにもわからないと思っていた自分の本当の心は、だれにも丸見えだった。なにもかもが、そこから崩れてくる。

愛など愚かなものだと思っていた。馬鹿なことをすれば馬鹿がすべてに勝てるのだと思っていた。その心のすべてを愛は見抜いていた。見抜いたまま、じっと耐えていてくれたことになる。

なぜ耐えていたのか。その馬鹿の存在を、永遠の拒絶の向こうにおいやらないためです。愛の世界の外に追い出さないためです。

そんなことになれば、その存在がどんなつらいことになるかわからないからです。

しかしその限界はきた。馬鹿どもはとうとう愛の限界を超え、愛のほかの世界に赴かねばならない。その時になってようやく、さなぎがガラスでできていたことに気付くのだ。

見抜かれた正体のあまりの恥ずかしさに、馬鹿は凍り付くことしかできない。そして、吸い込まれるように、透き通るように美しい緑の中に沈んでいく。

恥ずかしい自分の姿を見られたくないかのように、緑の浸食を自分に受け入れていくのです。






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かへらぬ人

2018-06-12 04:19:30 | 短歌





悔い濡れて かへらぬ人の おもかげを 花におひつつ 夢に落ちぬる





*後悔先に立たずと言う言葉は真実だ。いつも人は、馬鹿なことをやってから後悔する。あんなことをやるのではなかったと。もう遅いということがわかってから、後悔の念にさいなまれる。

過ちたことのない人はいませんから、悔いたことのない人もいません。大事なのはそこからどうするかだ。二度と同じことを繰り返さないために自分を変えていく人には救いがあるでしょう。それから同じ後悔は二度としなくなる。だが。

いつまでもだらだらと悔いの涙に濡れて、何もしようとしない人は、また同じ後悔を繰り返す。

悔いの涙に濡れて、もう帰らない人の面影を、花の中に追いかけながら、夢の中に落ちてしまった。

もしかしたらあれは夢ではなかったろうか。なにもかもなかったことではないだろうか。などという幻想につかの間すがりたくなる。そういうこともあるでしょう。あまりにおろかなことだったから。

だがやったことは取り返せない。小手先の技術で何とかしようとしても、波に砂が洗われるようにすべて崩れていく。後悔は、ある程度したら、涙をふいて、明日に生きていくことだ。

二度と帰らないもののために、何をしていったらいいかを、自分で考え始めることだ。償いはそこから始まる。

あらゆることを改めていかねばならない。その苦しさを恐れないことだ。自分を変えなければ、永遠に悔いの涙の中を苦しく泳いでいかねばならない。






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憂き身

2018-06-11 04:19:12 | 短歌





恥をたへ ゆくへもしらぬ 夢をこひ 憂き身をひろへ あやまちの人





*この世界に、あやまちをなしたことのない人はいません。この言葉はよく言われますね。しかし、しっかりと肝に座っている人はすくないようだ。

失敗をすればみんなにいやなことを言われてつらい思いをするものですから、人は自分が失敗しても、なかなかそれを受け入れることができないようです。だれかのせいにしてごまかそうとしたり、頭から嘘だと決めこんで決して認めようとしなかったり。

しかし間違いは間違いですから、間違ったまま突き進んでいくと大変なことになる。アンタレスが言っていたことがありました。間違いを認めて謝ることができなかったら、行く道は北朝鮮だと。

まさにそのとおり。人に迷惑をかけまくって、人に嫌われて、誰にも助けてもらえなくなる。じり貧状態になっていくのに、意地をはってもっと大変なことになる。

間違いを間違いでないことにするために、どんどん嘘を重ね、どんどんひどいことになる。北朝鮮はまさにそんなところだ。

だから、失敗をしたらすぐに謝ってやり直した方がいいのだが。その失敗があまりに恥ずかしすぎることだと、なかなかそれもできないようだ。

セックスだとか美貌だとか、あられもない理由がからんでくると、それで失敗したことがあまりにも恥ずかしくて、世間に顔向けできなくて、なかなかそれを認められないだろうが、それが真実なら認めなくてはいけません。

恥ずかしさに耐え、なくして行方もわからなくなった自分の本当の夢を求めて、悲しい自分の身を拾いなさい、あやまちた人よ。

とにかく、何よりもまず、神の前に正直に謝ることです。そしてすべてを失う覚悟で、償いを始めることだ。それができなければ、自分を立てなおすことができません。

一番やらねばならないことをやらずに、表面だけの小技でごまかそうとすると、もっとひどいことになりますよ。人の気持ちを考え、正直にすべてを認めて、みんなにあやまりましょう。






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