東秩父村の谷あいから朝日根の集落を過ぎて登りついたのが粥仁田峠。
秩父四十峠といわれる中でむかしからひんぱんに旅人が通り過ぎたといわれる主要峠です。
粥仁田峠・・・粥新田峠(国土地理院表記)・・・
そのむかし日本武尊がこの場所で粥を煮た・・・粥煮た峠か?
麓に新田という字名があります。そこらへんが地名の由来のような気がします。
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看板に南に大霧山(766m)、広町山十バス停前と書いてあります。
大霧山は比企三山の一つ。広町とはこの峠から人道を秩父方面に下った三沢村(現皆野町)の集落名です。北に向かうと秩父高原牧場、二本木峠、登谷山方面です。
秩父と関東平野の間の壁、奥武蔵の山々、地図に表記されている峠だけでも11あります。たぶん表記されていない峠も同じくらいあるでしょう。鉄道も自動車もないむかし、交通、物流、情報の流れは徒歩か牛馬の背中によるものだけでした。秩父往還・・・いまの国道140号線(熊谷~秩父~鰍沢)、国道299号線(豊岡~茅野)が主要道であったに違いありませんが、人々は山なみの間を抜ける最短距離を峠道として開削したのでしょう。
1984年10月31日、風布村(現寄居町)で蜂起した帝国憲法もない時代の自由民権運動と経済危機の救済を求める秩父事件は、11月5日ここ粥仁田峠で官軍と衝突、そして敗走が始まり11月9日信州東馬流(現小海町)で壊滅、幕を閉じます。
ポピー畑の遊山に行った最初の寄り道でしたがブログアップは逆になりました。
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