今日は何の日。69年前の1945年3月10日、午前0時07分東京大空襲の日です。
・・・黙祷・・・
中央右上に見えるのが皇居。中央左から右下に黒く見える筋が隅田川。隅田川を中心に下町といわれる城東地区が火の海になりました。数字を記します。(数字はWikipedea参照)
●アメリカ軍
爆撃機B29 150機 爆弾 380,000発(1700㌧)
●日本側
死者100,000人余 住宅278,000戸
この日は春の低気圧の影響で強風が吹き、焼夷弾による火災で下町は火の海になります。焼夷弾は油脂をゼリー化したもので日本の木造家屋用に開発したものといわれます。その攻撃は最初に目標の周囲をドーナツ状に火をつけ、次に中心に爆撃するという作戦でした。そのため被爆者は退路を絶たれ未曾有の犠牲者が出ました。
↑は7年前の2007年3月10日のブログ・・・東京大空襲・・・「3.10の日」・・・からの抜粋です。↓はこのときのコメントからです。
あの朝 (M.S)
2007-03-10 23:38:55
六十二年前の朝、中学生だった私たちを乗せた貨物列車は新宿駅に着いた・・・(あの大空襲の夜、東の方、赤い空を見ながら中央本線小仏トンネルの中で朝まで停車していたのだ)。
山手線に乗る。火傷、怪我をしている乗客の群。窓の外は焼け野原。
昨夜の火の海、阿鼻叫喚を想い、声を呑んで見守るだけだった。
品川で乗り換え、平塚まで移動した。
海辺のお寺に泊まって、航空機工場に毎日通った。
製品や工具類を信州への疎開作業に従事した。平塚に一ヶ月滞在したのち、諏訪の工場に戻ったころ沖縄が落ち、「広島・長崎」によって、いくさは終わった。
往事茫々。しかし、今も忘れない。
※東京大空襲・・・数時間で爆弾380000発、10万人の非戦闘員を殺戮した。ヒロシマではたった数分で爆弾1発(50㎏)で15万人の非戦闘員を殺戮した。聖戦であろうとなかろうと無差別爆撃だといおうというまいと戦争とはそういうものです。
※太平洋戦争において国民総動員法に基づいて長野県諏訪市の軍需工場に学徒勤労動員された中学生の話です。
※学徒勤労動員・・・国民総動員法に基づき閣議決定された制度。高等小学校、中等学校以上20歳まで、軍需工場の武器生産、農村の食料生産のために学業中途で配置された。まだ14~15歳の判断力もつかないいたいけな少年少女が工場で銃剣や弾丸を磨いていました。
※小仏トンネル・・・中央本線相模湖駅と浅川駅(現高尾駅)の間のトンネル、神奈川県と東京都の境界。
※コメントの主は私の兄です。当時、旧制中学3年生?、母が襤褸切れに綿を詰めた防空頭巾というものを作って持たせたことだけ覚えています。父は応召中。中学1年生の兄は農村で農作業の勤労動員(農村では働き盛りの男の人は兵隊さんで応召し働き手がいなかった)。
いくさが終わり、陸軍中尉であった父は大尉(ポツダム大尉といい終戦時に兵役にいたものは自動的に1階級上がったが、そのことは富にも名誉にも無関係でむしろマイナスになった)になって帰ってきた。兄たちも本来の中学生生活に戻った。企業統制もあり家の生活も変わった。時代の変遷に合わせて生きていくためにそれなりに父も母も一生懸命に働いた。父や母や兄たちからあの戦争が何であったかを聞いたことがなかった。暗黙のうちに思いを共有していたのであろう。
3月10日東京大空襲の記憶、長崎、広島と共にその記憶を風化させてはならない。
・・・黙祷・・・
中央右上に見えるのが皇居。中央左から右下に黒く見える筋が隅田川。隅田川を中心に下町といわれる城東地区が火の海になりました。数字を記します。(数字はWikipedea参照)
●アメリカ軍
爆撃機B29 150機 爆弾 380,000発(1700㌧)
●日本側
死者100,000人余 住宅278,000戸
この日は春の低気圧の影響で強風が吹き、焼夷弾による火災で下町は火の海になります。焼夷弾は油脂をゼリー化したもので日本の木造家屋用に開発したものといわれます。その攻撃は最初に目標の周囲をドーナツ状に火をつけ、次に中心に爆撃するという作戦でした。そのため被爆者は退路を絶たれ未曾有の犠牲者が出ました。
↑は7年前の2007年3月10日のブログ・・・東京大空襲・・・「3.10の日」・・・からの抜粋です。↓はこのときのコメントからです。
あの朝 (M.S)
2007-03-10 23:38:55
六十二年前の朝、中学生だった私たちを乗せた貨物列車は新宿駅に着いた・・・(あの大空襲の夜、東の方、赤い空を見ながら中央本線小仏トンネルの中で朝まで停車していたのだ)。
山手線に乗る。火傷、怪我をしている乗客の群。窓の外は焼け野原。
昨夜の火の海、阿鼻叫喚を想い、声を呑んで見守るだけだった。
品川で乗り換え、平塚まで移動した。
海辺のお寺に泊まって、航空機工場に毎日通った。
製品や工具類を信州への疎開作業に従事した。平塚に一ヶ月滞在したのち、諏訪の工場に戻ったころ沖縄が落ち、「広島・長崎」によって、いくさは終わった。
往事茫々。しかし、今も忘れない。
※東京大空襲・・・数時間で爆弾380000発、10万人の非戦闘員を殺戮した。ヒロシマではたった数分で爆弾1発(50㎏)で15万人の非戦闘員を殺戮した。聖戦であろうとなかろうと無差別爆撃だといおうというまいと戦争とはそういうものです。
※太平洋戦争において国民総動員法に基づいて長野県諏訪市の軍需工場に学徒勤労動員された中学生の話です。
※学徒勤労動員・・・国民総動員法に基づき閣議決定された制度。高等小学校、中等学校以上20歳まで、軍需工場の武器生産、農村の食料生産のために学業中途で配置された。まだ14~15歳の判断力もつかないいたいけな少年少女が工場で銃剣や弾丸を磨いていました。
※小仏トンネル・・・中央本線相模湖駅と浅川駅(現高尾駅)の間のトンネル、神奈川県と東京都の境界。
※コメントの主は私の兄です。当時、旧制中学3年生?、母が襤褸切れに綿を詰めた防空頭巾というものを作って持たせたことだけ覚えています。父は応召中。中学1年生の兄は農村で農作業の勤労動員(農村では働き盛りの男の人は兵隊さんで応召し働き手がいなかった)。
いくさが終わり、陸軍中尉であった父は大尉(ポツダム大尉といい終戦時に兵役にいたものは自動的に1階級上がったが、そのことは富にも名誉にも無関係でむしろマイナスになった)になって帰ってきた。兄たちも本来の中学生生活に戻った。企業統制もあり家の生活も変わった。時代の変遷に合わせて生きていくためにそれなりに父も母も一生懸命に働いた。父や母や兄たちからあの戦争が何であったかを聞いたことがなかった。暗黙のうちに思いを共有していたのであろう。
3月10日東京大空襲の記憶、長崎、広島と共にその記憶を風化させてはならない。
広島・長崎・そして福島さえともすると忘れられようとしています。
甲府に避難している人も、関心が薄れていくと嘆いています。折に触れ語るように努めて行かなければ!と改めて心に決めています。
私の父は小学5年生で長崎県佐世保市に住んで居たようです
閃光を見たと言っていました
戦中戦後、食べる物に本当に苦労した話を何度も聞かされました
母親が闇市に買い出しに行って憲兵(?)に咎められ追いかけられて線路の上に突き飛ばされたらしく
そこへ列車が通過
両手両足を失い苦しみながら息を引き取った話など・・・
この大空襲の記事を見て記憶の片隅から子供の頃に聞いた父の話を思い出しました
ドーナツ状に・・ですか
これって 戦犯ものでしょ・・・許せない・・・
もちろん 原爆をOKした 大統領も悪魔ですよ・・
勝てば 正義ですね
資源のない国は戦争をしても絶対に負ける・・・それを教訓にしなければ。
国民の命ではなく・・・経済のために動く政治家、そこから考えなくては。
敗戦時、日本は飢えと闘ったのです。
こんなこと、孫子の代までに起こしてはなりません。