比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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謎多き神々の国・・・諏訪を尋ねて・・・跡かたもなく消えていた神宮寺

2017-09-11 | 信濃の国は 伊那・諏訪
神話の時代から続く謎多き国諏訪・・・
諏訪湖の中州の南、茅野市宮川の諏訪大社前宮、諏訪市中洲に入ると国道16号神宮寺交差点。諏訪大社上社の前に。
神宮寺・・・このあたり諏訪市中洲神宮寺・・・明治維新前まで諏訪大社上社に並んで壮大な境内を持つ神宮寺があったところです。
上社に向かって左、山の傾斜にかつては神宮寺、如法院、蓮池院、法華寺の4寺が。普賢堂、薬師堂、釈迦堂、般若堂、五重塔、仁王門、鐘楼などの七堂伽藍で栄華を誇ったそうです。。神宮寺とは平安期初期ごろから見られる神仏集合型のお宮とお寺のセット。諏訪下社にも3寺ありました。それが明治維新の神仏分離令であっという間に消え現在法華寺のみが再興されて残っているのみ。
さて神宮寺跡をブラブラ歩きます。

信州上田の・・・六文銭の写真帳

墨縄神社・・・大工さんの神様のようです。創建はいつのころか不明。御柱が立っています。
墨縄とは大工さんの道具、墨壺とコードリールとセットのなっていて定規なしで木材に長い直線を引くことができます。

臨済宗鷲峰山法華禅寺・・・壮大な神宮寺跡に唯一残る寺。明治初期の廃仏毀釈で廃寺となったが明治中期に復興。
織田信長の甲州武田勝頼攻めのときの織田方の舞台に。

吉良義周の墓・・・忠臣蔵でお馴染みの吉良上野介義央の孫、義央の子米沢藩主上杉綱憲の子、5歳で吉良家の養子に。
赤穂浪士が討ち入りのとき18歳。打たれて気絶して命は助かるが、吉良家は断絶。諏訪高島藩にお預け、21歳で病死。

神宮寺跡を歩いているとこんな説明板が・・・神宮寺学校跡地
明治7年に早くも学校が始められている。教育県信州の面目躍如。
それにしても七堂伽藍を誇った神宮寺は法華寺を残し跡形もなく消えていました。。
※撮影は1月5日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。
神宮寺・・・大和王朝時代、大陸からの仏教導入。平安時代になるとしだいに神道との摩擦が生じて、融和策?としてか神仏集合思想が生れ、神社の付属機関として各地で神宮寺が創建されます。奈良の春日神社の興福寺、日光東照宮の輪王寺などが有名。1868年(明治元年)の神仏判然令で大半は消えてしまいます。消えた理由は多くの神宮寺が檀徒を持たず支配者の庇護、寺領からの年貢、神社の管理者の仕事で成り立っていたからだそうです。
神仏判然令(神仏分離令ともいう)・・・1868年太政官布告、神仏分離と共に神宮寺の僧侶や戸隠神社、御岳神社などの修験者の還俗化を命じた 。明治維新、王政復古により明治政府が神道の国教化を目指したもの。国学者、神官などの扇動で民衆により多くの寺で取り壊しが行われた。廃仏毀釈運動という。一部のアジテータ―ガ煽り民衆が暴徒化する。よくあるパターンです。多くの貴重な文化財が損失しました。
そのご近代国家の文明化、信教の自由を求める声も起こり、1877年神道国教化の政策は潰えた。




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