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1931年・・・昭和6年の甲子園の夏、胸に「KANO」のマークの嘉義農林の先発メンバーは・・・日本人3人、中国系台湾人2人、先住台湾人4人からなる民族の壁を越えたチーム。初戦の神奈川商工戦は3-0、次の札幌商業戦は19-7、準決勝の小倉商工10-2と勝ち進み決勝戦へ。中京商業との決勝戦は0-4で破ぶれます、最初は新聞記者の好奇心に満ちた異民族の混成チームであることへの質問を受け、心なき観衆のヤジも浴びますが、日本人メンバーは「自分たちは友だちだ」、近藤教錬は「彼らは同じ球児だ」と答えます。決勝戦ではスタンドから「天下のKANO」の大合唱が沸き起こります.。
近藤監督の日本内地人、中国系台湾人、先住台湾人を問わない厳しい教育で育った球児たちは社会に羽ばたいてゆきます。
番組の中で大越キャスターが1930年台湾で起こった霧社事件について触れました・・・1931年嘉義農林学校が甲子園野球大会で準優勝した前年の1930年に「霧社事件」という山地の霧社に住む先住民が公学校で開会中の運動会を襲って日本人134人を殺すという反乱が起きました。行政の末端を握っていた警官の度重なる住民の尊厳を傷つける行為が引き金になったといわれます。反乱住民は300人、展望なき決起で、制圧され、人としての尊厳を守るために自決したと伝えられています。大越キャスターは1931年の嘉義農林の先住台湾人球児と反乱先住民と対比させてコメントしていました。、
嘉義農林野球部の球児のひとり・・・ショートを守った上松耕一さん(山地人・・・プユマ族)の話・・・
司馬遼太郎「街道をゆく 台湾紀行」(朝日文庫 1997朝日年刊 初版は朝日新聞出版 1994年)・・・より
司馬遼太郎は台湾旅行中、李登輝総統にある人を紹介されます。上松耕一さんの息子さんで台湾省議会議員陳健年さん、お会いして耕一さんのその後のことを聞きます。耕一さんは横浜専門学校(現神奈川大学)に進み卒業、台湾で自動車会社に就職、かたわら嘉義農林学校の野球部の指導に。結婚後、生まれ故郷の台東に帰り多くの学校を建てました。、あの大戦後、陳耕元に改名。誰にでも校長先生と慕われたが、30年ほど前、校務中に交通事故で亡くなられたという。健年さんに上松さんの奥さんの蔡昭昭さん、三人のお孫さんと食事に誘われます。昭昭さんは台北の富豪の娘さん(中国系台湾人)、嘉義農事試験場に勤め、嘉義農林で野球部の指導にあたっていた上松さんを見て「愛の河」に落ちます。曲折ののち嘉義神社で新郎は紋付袴、新婦は高島田で挙式。二人の間では日本語、耕一さんのお父さん、お母さんを含む家族間ではプユマ語で話されてたそうです。
食事会の歓談のあと昭昭さんは司馬さんにこう問いかけます。
「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」
司馬さんは答えに窮します。
日本は統治時代、国家の実力以上に近代化に尽くしたことは認めている・・・しかし植民地支配が国家悪の最たるものであることもわかっている。あの大戦でポツダム宣言によって捨てさせられたこともわかっている。昭昭さんもそのことはわかっている。
ただ黙って窮している方がいいとおもった・・・と書いています。
昨年の8月16日夜のNHKテレビ・・・サンデーモーニング(MC大越健介、副島萌生)で語られた・・・
映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」
日本統治時代の1931年、甲子園の第17回全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)に初出場、
準優勝に輝いた台湾州立嘉義農林学校の野球部の球児たちと教練(監督)近藤兵太郎の物語りです。
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2014年公開映画(日本公開は2015年) 『KANO 1931海の向こうの甲子園』・・・
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映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」
日本統治時代の1931年、甲子園の第17回全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)に初出場、
準優勝に輝いた台湾州立嘉義農林学校の野球部の球児たちと教練(監督)近藤兵太郎の物語りです。
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2014年公開映画(日本公開は2015年) 『KANO 1931海の向こうの甲子園』・・・
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1931年・・・昭和6年の甲子園の夏、胸に「KANO」のマークの嘉義農林の先発メンバーは・・・日本人3人、中国系台湾人2人、先住台湾人4人からなる民族の壁を越えたチーム。初戦の神奈川商工戦は3-0、次の札幌商業戦は19-7、準決勝の小倉商工10-2と勝ち進み決勝戦へ。中京商業との決勝戦は0-4で破ぶれます、最初は新聞記者の好奇心に満ちた異民族の混成チームであることへの質問を受け、心なき観衆のヤジも浴びますが、日本人メンバーは「自分たちは友だちだ」、近藤教錬は「彼らは同じ球児だ」と答えます。決勝戦ではスタンドから「天下のKANO」の大合唱が沸き起こります.。
近藤監督の日本内地人、中国系台湾人、先住台湾人を問わない厳しい教育で育った球児たちは社会に羽ばたいてゆきます。
★2020年6月19日のブログ「台湾・・・嘉義市・・・映画「KANO 1931海の何故向こうの甲子園」・・・嘉義農林野球部の物語り」からの引用です。
番組の中で大越キャスターが1930年台湾で起こった霧社事件について触れました・・・1931年嘉義農林学校が甲子園野球大会で準優勝した前年の1930年に「霧社事件」という山地の霧社に住む先住民が公学校で開会中の運動会を襲って日本人134人を殺すという反乱が起きました。行政の末端を握っていた警官の度重なる住民の尊厳を傷つける行為が引き金になったといわれます。反乱住民は300人、展望なき決起で、制圧され、人としての尊厳を守るために自決したと伝えられています。大越キャスターは1931年の嘉義農林の先住台湾人球児と反乱先住民と対比させてコメントしていました。、
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司馬遼太郎「街道をゆく 台湾紀行」(朝日文庫 1997朝日年刊 初版は朝日新聞出版 1994年)・・・より
司馬遼太郎は台湾旅行中、李登輝総統にある人を紹介されます。上松耕一さんの息子さんで台湾省議会議員陳健年さん、お会いして耕一さんのその後のことを聞きます。耕一さんは横浜専門学校(現神奈川大学)に進み卒業、台湾で自動車会社に就職、かたわら嘉義農林学校の野球部の指導に。結婚後、生まれ故郷の台東に帰り多くの学校を建てました。、あの大戦後、陳耕元に改名。誰にでも校長先生と慕われたが、30年ほど前、校務中に交通事故で亡くなられたという。健年さんに上松さんの奥さんの蔡昭昭さん、三人のお孫さんと食事に誘われます。昭昭さんは台北の富豪の娘さん(中国系台湾人)、嘉義農事試験場に勤め、嘉義農林で野球部の指導にあたっていた上松さんを見て「愛の河」に落ちます。曲折ののち嘉義神社で新郎は紋付袴、新婦は高島田で挙式。二人の間では日本語、耕一さんのお父さん、お母さんを含む家族間ではプユマ語で話されてたそうです。
食事会の歓談のあと昭昭さんは司馬さんにこう問いかけます。
「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」
司馬さんは答えに窮します。
日本は統治時代、国家の実力以上に近代化に尽くしたことは認めている・・・しかし植民地支配が国家悪の最たるものであることもわかっている。あの大戦でポツダム宣言によって捨てさせられたこともわかっている。昭昭さんもそのことはわかっている。
ただ黙って窮している方がいいとおもった・・・と書いています。
※コメント欄オープン。
映画「KANO」は台湾映画、日本の統治時代の嘉義農林の物語り。日本人、中国人、先住民を分け隔てなく教育した教師の物語り。
近代的なインフラ、道路、鉄道、港湾、電気、医療衛生、上下水道、灌漑用水路、教育を整備した日本統治、特に教師、末端の技術者が尊敬されたようです。終戦後に来た中華民国があまりにも悪すぎたからといわれています。
時間がありましたら「街道をゆく台湾紀行」を読んでみてください。
コメントありがとうございました。
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こちらでゆっくり拝読させて頂きました。
いつも貴重なご紹介に学ばせて頂いております。
有り難うございました。