10月8日、国道153号線、奥三河の足助町(現豊田市)です。
近世、足助は飯田街道(信州側からは三州街道)の要衝の地。太平洋と内陸を結ぶ物流基地として大いに栄えました。
「塩の道」なんていう人もいます。シルク・ロードをもじってソルト・ロードですね。
そしてその塩を中馬と呼ぶ馬で運んだことから「中馬街道」とも呼ばれました。
足助川です。塩の道、飯田街道はこの川を遡って桑田和で足助川と別れ現在の国道153号線平沢の集落にでて伊勢神峠を越え信州方面に向います。
右岸のフェンス沿いの道が塩の道・中馬の道。
この町は奥三河の交通の要衝。岡崎に向って七里街道、名古屋高針方面から足助町を通って信州飯田に向う飯田街道、多治見方面に向う美濃街道、田口に向う足助街道、長篠に向う鳳来寺道。道は八方に通じています。
飯田街道・・・わたしの生まれ在所の信州伊那の谷では南北を貫き足助に向う現在の国道153号線を三州街道と呼んでいました。道の呼び方は自分の立ち位置から彼の地を指すのがむかしからの慣わし。したがってこの道は信州側からは三州街道、三河側からは飯田街道、伊那街道なんて呼ばれたようです。
街角の石で作られた道しるべ。
右 ほうらい寺に 左 ぜんこう寺に・・・と彫られています。
信州に向う飯田街道は信仰の道として善光寺道、その逆の信州から足助・名古屋に向う道は宮道(伊勢神宮への道)とも呼ばれました。ほうらい寺道・・・鳳来寺への信仰の道ですが信玄が長篠、三方ヶ原へ軍勢を進めた戦の道でもあります。
足助の街並みです。江戸時代、塩問屋6軒、造り酒屋6軒、穀夜6軒、宿屋10軒と・・・栄え、明治の大合併では1890年早くも足助町として発足しています。大きな町だったのでしょう。
問屋の町「足助」・・・唯一残る塩問屋の店舗「莨屋(タバコヤ)」。現在は休業中。史跡として説明板が掲げられています。
人の命を支える絶対的な・・・塩・・・太古のむかしから内陸に入った人たちはあらゆる手段を使って、塩を得るために海に続く交易の道を開きました。周囲を急峻な山で囲まれ、激流が行く手を阻む信州では「塩の道」は舟運が途中で途切れ、その先は人の背、牛馬の背になりました。
ここ足助はその「塩の道」の南信州への始発駅、信州からの物産の中継駅として江戸期から明治の終わりごろまでたいへんに栄えた町です。
三河湾岸の塩は岡崎から矢作川、渡会から支流の巴川に入り九久平の上、平古村の河岸で陸揚げされます。このへんは徳川発祥の地の松平郷・・・家康の祖先は上州新田郷から流れ着いた願人坊主といわれますがたしかなことはわかりません。系図では上州新田郷の平家の血脈といいます?・・・話が横道にそれました。
平古で陸揚げされた塩は15kmの道を馬で足助へ。ここでブレンドされ足助塩というブランドで7貫(26kg)俵に詰め替えられます。7貫にしたのはこれを馬の背に左右2俵、計4俵、104kgにするためです。馬の荷積制限です。1匹100kg前後、馬方は1人で通常3~4匹の馬を牽引しました。
この足助塩をしきったのが塩問屋。もちろん商いは塩だけではありません。内陸へは塩干魚、砂糖、薬。陶器、鉄もの、綿など。内陸からは米、麦、タバコ、生糸、麻、真綿など・・・。総合商社です。
この塩俵を運んだ馬を「中馬」といいました。むかしの街道の輸送手段は駅馬といって荷主から依頼された荷を宿駅ごとに積み替えていくというシステムでした。いまの駅伝競走のタスキみたいです。駅馬システムは幕府認可の権利ものですから一般参入は出来ません。運賃も割高になります。
「中馬」は駅馬から外れた一般参入、主に幕府管理の街道から外れた脇街道。1匹で長距離輸送。経費が安く運賃安価。既得権の勢力と最初は揉めたようです。いろいろあって規制緩和されていきます。
荷主と荷受人の中間に立って商売する運送馬・・・ゆえに中馬と呼ばれたようです。
写真は街角の説明看板から。
足助の町に唯一残る、中馬の宿「馬宿 山城屋」。もちろん当時のままではないでしょう。馬宿は厩が同じ建屋の中にあり、馬方が目の届く範囲で馬が一緒に泊まれるようになっていました。
近世から明治の末まで奥三河の流通の中心として栄華を誇った足助、1907年木曾谷を信州に向う国鉄中央西線が開通すると参信を結ぶ流通の表舞台から静かな町に戻っていきました。
足助をあとに帰るだけ。「塩の道」「中馬の道」「善光寺参りの道」、信玄も進んだ「戦さの道」・・・三州街道を根羽、駒場、飯田、埼玉へと車を走らせます。
近世、足助は飯田街道(信州側からは三州街道)の要衝の地。太平洋と内陸を結ぶ物流基地として大いに栄えました。
「塩の道」なんていう人もいます。シルク・ロードをもじってソルト・ロードですね。
そしてその塩を中馬と呼ぶ馬で運んだことから「中馬街道」とも呼ばれました。
足助川です。塩の道、飯田街道はこの川を遡って桑田和で足助川と別れ現在の国道153号線平沢の集落にでて伊勢神峠を越え信州方面に向います。
右岸のフェンス沿いの道が塩の道・中馬の道。
この町は奥三河の交通の要衝。岡崎に向って七里街道、名古屋高針方面から足助町を通って信州飯田に向う飯田街道、多治見方面に向う美濃街道、田口に向う足助街道、長篠に向う鳳来寺道。道は八方に通じています。
飯田街道・・・わたしの生まれ在所の信州伊那の谷では南北を貫き足助に向う現在の国道153号線を三州街道と呼んでいました。道の呼び方は自分の立ち位置から彼の地を指すのがむかしからの慣わし。したがってこの道は信州側からは三州街道、三河側からは飯田街道、伊那街道なんて呼ばれたようです。
街角の石で作られた道しるべ。
右 ほうらい寺に 左 ぜんこう寺に・・・と彫られています。
信州に向う飯田街道は信仰の道として善光寺道、その逆の信州から足助・名古屋に向う道は宮道(伊勢神宮への道)とも呼ばれました。ほうらい寺道・・・鳳来寺への信仰の道ですが信玄が長篠、三方ヶ原へ軍勢を進めた戦の道でもあります。
足助の街並みです。江戸時代、塩問屋6軒、造り酒屋6軒、穀夜6軒、宿屋10軒と・・・栄え、明治の大合併では1890年早くも足助町として発足しています。大きな町だったのでしょう。
問屋の町「足助」・・・唯一残る塩問屋の店舗「莨屋(タバコヤ)」。現在は休業中。史跡として説明板が掲げられています。
人の命を支える絶対的な・・・塩・・・太古のむかしから内陸に入った人たちはあらゆる手段を使って、塩を得るために海に続く交易の道を開きました。周囲を急峻な山で囲まれ、激流が行く手を阻む信州では「塩の道」は舟運が途中で途切れ、その先は人の背、牛馬の背になりました。
ここ足助はその「塩の道」の南信州への始発駅、信州からの物産の中継駅として江戸期から明治の終わりごろまでたいへんに栄えた町です。
三河湾岸の塩は岡崎から矢作川、渡会から支流の巴川に入り九久平の上、平古村の河岸で陸揚げされます。このへんは徳川発祥の地の松平郷・・・家康の祖先は上州新田郷から流れ着いた願人坊主といわれますがたしかなことはわかりません。系図では上州新田郷の平家の血脈といいます?・・・話が横道にそれました。
平古で陸揚げされた塩は15kmの道を馬で足助へ。ここでブレンドされ足助塩というブランドで7貫(26kg)俵に詰め替えられます。7貫にしたのはこれを馬の背に左右2俵、計4俵、104kgにするためです。馬の荷積制限です。1匹100kg前後、馬方は1人で通常3~4匹の馬を牽引しました。
この足助塩をしきったのが塩問屋。もちろん商いは塩だけではありません。内陸へは塩干魚、砂糖、薬。陶器、鉄もの、綿など。内陸からは米、麦、タバコ、生糸、麻、真綿など・・・。総合商社です。
この塩俵を運んだ馬を「中馬」といいました。むかしの街道の輸送手段は駅馬といって荷主から依頼された荷を宿駅ごとに積み替えていくというシステムでした。いまの駅伝競走のタスキみたいです。駅馬システムは幕府認可の権利ものですから一般参入は出来ません。運賃も割高になります。
「中馬」は駅馬から外れた一般参入、主に幕府管理の街道から外れた脇街道。1匹で長距離輸送。経費が安く運賃安価。既得権の勢力と最初は揉めたようです。いろいろあって規制緩和されていきます。
荷主と荷受人の中間に立って商売する運送馬・・・ゆえに中馬と呼ばれたようです。
写真は街角の説明看板から。
足助の町に唯一残る、中馬の宿「馬宿 山城屋」。もちろん当時のままではないでしょう。馬宿は厩が同じ建屋の中にあり、馬方が目の届く範囲で馬が一緒に泊まれるようになっていました。
近世から明治の末まで奥三河の流通の中心として栄華を誇った足助、1907年木曾谷を信州に向う国鉄中央西線が開通すると参信を結ぶ流通の表舞台から静かな町に戻っていきました。
足助をあとに帰るだけ。「塩の道」「中馬の道」「善光寺参りの道」、信玄も進んだ「戦さの道」・・・三州街道を根羽、駒場、飯田、埼玉へと車を走らせます。
※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。
・URL無記入のコメントは削除します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます