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今日は4月7日、今から77年前の1945年の4月7日は、あの戦争で世界最大の不沈戦艦といわれた大日本帝國海軍の戦艦「大和」が鹿児島県薩摩半島南端の坊の岬から南400kmの海域で米海空軍の機動隊にメッタ打ちにあい沈没した日です。
戦後最大の戦争文学といわれる
吉田満著「戦艦大和の最後」(講談社文芸文庫 1994年刊)
を読んでいます。
著者の吉田満さん(1923~1979年) は東京大学から1943年学徒動員(20歳)、1944年海軍電測学校から戦艦大和の副電測士(少尉)として乗艦。1945年戦艦大和の天一号作戦に参戦、奇跡的に生き残った人。敗戦後の1945年秋、両親の疎開していた東京都西多摩の吉野村(現青梅市)で作家吉川英治と会う機会があり、体験を綴ることを勧められたといいいます。ほぼ1日で書かれた文語体の初稿は1946年12月雑誌「創元」に掲載される予定でしたがGHQ(敗戦国日本で占領政策を実施した連合軍最高司令官総司令部)の検閲で全文削除の命令を受けます。1949年(銀座出版社の雑誌)にかなり改変されて著者に不本意な形で文語体で掲載され、ようやく創元社から口語体で書かれた初稿が加筆修正されて出版されたのは講和条約が発効したあとの1952年です。
「桜、桜」ト叫ブ声・・桜、内地ノ桜ヨ、サヨウナラ。
俺ト結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ、俺ハコレカラ死ニニ行ク。
進歩ノナイ者ハ決シ勝タナイ。負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ・・・
ホトバシル・・・撒キ散ラサレタル肉片ハ・・・艦内は手足も胴も頭も千切れた死体の山。
徳之島ノ北西二百哩ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス、水深四百三十米
今ナオ埋没スル三千ノ骸、彼ヲ終焉ノ胸中果シテ如何。
この本は「戦争を肯定するものでもなく否定するものでもなく・・・勇ましく軍国主義を讃える内容でもなく非戦を訴える内容でもなく」・・・純粋な若ものが「大和」の中であったことを自分の経験した範囲で記述しているだけです。敗戦数ヶ月後に書かれているためあとづけのイデオロギーがなく若き学徒海軍士官の「時代の証言」です。そこには人間と人間の殺し合いがリアルに描かれています。
戦艦大和について・・・
1937年起工(太平洋戦争の4年前)。
1942年進水。
1945年4月7日未明、山口県徳山沖より豊後水道を通って天一号作戦実行のため沖縄方面に向かいます。
1945年4月7日12時34分 米軍の艦載機が鹿児島県薩摩半島の南端の坊の岬から南400kmの海域で嵐のように襲いかかってきます。
1945年4月7日鹿児島県坊の岬沖で14時23分沈没・・・着工から5年の歳月をかけて進水、2年、敵艦と交戦することもなく敵艦載機の2時間の攻撃で沈没した世界最大の不沈戦艦といわれた「大和」、いったい何だったのでしょう。
戦死者2740名 生存者269名(276名とも)。巡洋艦、駆逐艦など合わせて戦死者3700名。「海ゆかば・・・水漬く屍」・・・鎮魂の歌が聞こえてきます。吉田さんは海中に投げ出され油まみれの海を浮遊物に掴まり漂い、駆逐艦から投げ下ろされたロープのネットにつかまります。海の中では体力尽きて沈んでいく仲間を見ます。駆逐艦に上がるとき足にしがみつかれます(芥川龍之介の「くもの糸」の世界です)。生き残ったのは奇跡、僥倖です。
総工費1億3700万円(現代の換算として東海道新幹線建設費に例えられる)。
長さ263m、総t数64000t(日本最大の客船「飛鳥Ⅱ」は50000t)。
★この稿は2016年4月7日のブログを修正、加筆したものです。
今日は4月7日、今から77年前の1945年の4月7日は、あの戦争で世界最大の不沈戦艦といわれた大日本帝國海軍の戦艦「大和」が鹿児島県薩摩半島南端の坊の岬から南400kmの海域で米海空軍の機動隊にメッタ打ちにあい沈没した日です。
戦後最大の戦争文学といわれる
吉田満著「戦艦大和の最後」(講談社文芸文庫 1994年刊)
を読んでいます。
著者の吉田満さん(1923~1979年) は東京大学から1943年学徒動員(20歳)、1944年海軍電測学校から戦艦大和の副電測士(少尉)として乗艦。1945年戦艦大和の天一号作戦に参戦、奇跡的に生き残った人。敗戦後の1945年秋、両親の疎開していた東京都西多摩の吉野村(現青梅市)で作家吉川英治と会う機会があり、体験を綴ることを勧められたといいいます。ほぼ1日で書かれた文語体の初稿は1946年12月雑誌「創元」に掲載される予定でしたがGHQ(敗戦国日本で占領政策を実施した連合軍最高司令官総司令部)の検閲で全文削除の命令を受けます。1949年(銀座出版社の雑誌)にかなり改変されて著者に不本意な形で文語体で掲載され、ようやく創元社から口語体で書かれた初稿が加筆修正されて出版されたのは講和条約が発効したあとの1952年です。
「桜、桜」ト叫ブ声・・桜、内地ノ桜ヨ、サヨウナラ。
俺ト結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ、俺ハコレカラ死ニニ行ク。
進歩ノナイ者ハ決シ勝タナイ。負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ・・・
ホトバシル・・・撒キ散ラサレタル肉片ハ・・・艦内は手足も胴も頭も千切れた死体の山。
徳之島ノ北西二百哩ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス、水深四百三十米
今ナオ埋没スル三千ノ骸、彼ヲ終焉ノ胸中果シテ如何。
この本は「戦争を肯定するものでもなく否定するものでもなく・・・勇ましく軍国主義を讃える内容でもなく非戦を訴える内容でもなく」・・・純粋な若ものが「大和」の中であったことを自分の経験した範囲で記述しているだけです。敗戦数ヶ月後に書かれているためあとづけのイデオロギーがなく若き学徒海軍士官の「時代の証言」です。そこには人間と人間の殺し合いがリアルに描かれています。
戦艦大和について・・・
1937年起工(太平洋戦争の4年前)。
1942年進水。
1945年4月7日未明、山口県徳山沖より豊後水道を通って天一号作戦実行のため沖縄方面に向かいます。
1945年4月7日12時34分 米軍の艦載機が鹿児島県薩摩半島の南端の坊の岬から南400kmの海域で嵐のように襲いかかってきます。
1945年4月7日鹿児島県坊の岬沖で14時23分沈没・・・着工から5年の歳月をかけて進水、2年、敵艦と交戦することもなく敵艦載機の2時間の攻撃で沈没した世界最大の不沈戦艦といわれた「大和」、いったい何だったのでしょう。
戦死者2740名 生存者269名(276名とも)。巡洋艦、駆逐艦など合わせて戦死者3700名。「海ゆかば・・・水漬く屍」・・・鎮魂の歌が聞こえてきます。吉田さんは海中に投げ出され油まみれの海を浮遊物に掴まり漂い、駆逐艦から投げ下ろされたロープのネットにつかまります。海の中では体力尽きて沈んでいく仲間を見ます。駆逐艦に上がるとき足にしがみつかれます(芥川龍之介の「くもの糸」の世界です)。生き残ったのは奇跡、僥倖です。
総工費1億3700万円(現代の換算として東海道新幹線建設費に例えられる)。
長さ263m、総t数64000t(日本最大の客船「飛鳥Ⅱ」は50000t)。
☆あの戦争を生きた人の修辞なき証言を、日本という国を考えるうえでの資料として若ものにぜひ読んでもらいたい本です。
★この稿は2016年4月7日のブログを修正、加筆したものです。
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・URL無記入のコメントは削除します。
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今日が大和沈没の日とは知らずに、今朝九段の桜の散る様を見ておりまして、ブログを拝見しながら目頭を押さえました。
忘れてはならない史実だと思います。
有り難う御座いました。
検査入院を前に病院通いが多く、素晴らしい画像のご紹介にも
拝見しましたままに失礼致しております。
「平成17年4月靖国神社社頭掲示」
遺 書
海軍中将 有賀 幸作
戦艦「大和」艦長
昭和20年4月7日
南西諸島にて戦死
長野県出身47歳
レイテ沖で戦艦武蔵が沈没したとき、事実上、日本海軍は壊滅しました。
あのとき敗戦の詔勅が出されていたら・・・
戦艦大和の司令官伊藤整一中将が戦闘中止、総員退艦命令を出さなかったら、大和、護衛艦の乗員のすべてが亡くなっていたと思います。
吉田満さんの手記はところどころ誤りが指摘されているようですが、269人の生存者の一人、貴重な歴史資料であると思います。
有賀艦長が長野県出身と初めて知りました。羅針盤につかまり沈んでいったと伝えられています。
ようやく春の陽気になりました。お元気でお過ごしください。
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燃料片道の天1号作戦と言われていますが・・・「サクラ」に別れを告げる兵士たちの様子を記した文章は、特攻作戦であったことを窺わせます。
櫻を見るたびにこの文章を思い出します。
一人でも多くの戦争を知らない世代の方たちに読んでほしいと思います。
何度でも言います。戦争に「いい戦争」なんて決してありません。結局人殺しでしかありません。
いつも権力者は命令しているだけ、死んでいくものは未来のある若者です。
自分の人生を、自分らしく生き抜くために、戦争への道をまた歩まないために、学び考えてください。
専守防衛とか言ってますが、資源を持たない国はどうにもなりません。どうしたらいいでしょう。