10月19日、ふるい友だち夫妻と秋の武蔵野散歩・・・新座市野火止の平林寺を尋ねました。
臨済宗妙心寺派「金鳳山平林禅寺」の総門の脇から入山。山門、中門をくぐり本堂を参詣して左側から散策路に。
ここからは国の天然記念物、クヌギ、コナラの繁る13㌶の武蔵野の雑木林です。
※見性院(?~1622年)・・・甲斐の武将武田信玄の二女、武田親族の筆頭穴山梅雪の正室。梅雪は信玄死後、家康方につき本能寺の変のとき大阪にいた家康と伊賀越えを計ったが途中で横死(自決とも一揆軍に襲撃されたともいわれる)。武田家滅亡のあと家康に庇護されて江戸城内北の丸で余生を過ごした。二代将軍徳川秀忠の庶子(後の会津若松藩主、四代将軍家綱の補佐役保科正之)を養育したことで知られる。墓所は武州安達郡大牧村(現さいたま市東浦和)の清泰寺。
なぜ見性院の供養塔が平林寺にあるか。もとは岩槻にあった供養塔です。1590年秀吉の小田原攻めの際、支城である岩槻城も落城。平林寺は戦火で荒廃、家康は1592年駿河臨済時から鉄山禅師を招き平林寺の再興を計りました。家康と穴山梅雪との関係、鉄山禅師の出自が甲斐国武田家の家臣であったことから見性院の供養塔を建立されたといわれています。
※野火止用水・・・1653年江戸幕府は江戸市中の生活用水のために武州多摩郡羽村から取水して四谷大木戸まで43km、そこから木樋によって江戸市中に配水した江戸時代最大のライフラインの玉川上水の開削を行った。この水普請の総奉行が松平信綱。信綱はこの功績により、玉川上水の水を分水して現在の立川、小平、東村山、東大和、東久留米、清瀬、新座、志木、朝霞の地を潤すための用水開削を願出て許可され、1655年立川市小平(現幸町)から志木市新河岸川まで25㎞の野火止用水堀を開削。関東ローム土の堆積地、保水力なく不毛の地であった野火止台地は用水完成後、武士、農民の入植により農地が開発されていった。
人々はこの用水を「伊豆殿堀」と呼んだという。
野火止用水は1950年代までは人々の生活用水としても使われ、子どもたちの水遊び場でもあったという。やがて都市化の波にうずもれて、いまは昔年の面影を見ることはできない、清流復活が待たれる。
※松平信綱(1596~1661年)・・・三河以来の譜代武士、関東郡代伊奈忠次の配下の代官大河内家の長男として武州小室(現伊奈町)で生まれた? 下級武士の家柄であったため叔父の長沢松平家(相模国玉縄藩主)の養子になり、三代将軍家光の幼少時代の小姓として仕え、大河内松平家を興した。米三人扶持からはじまり出世を重ね、75000石の大名、幕府老中首座、四代将軍家綱の補佐役にまで出世した異例の有能官僚。幕府体制の職制の整備、島原の乱の総大将、慶安の乱、明暦の大火などの対応で知られる。川越藩の経営では城下町、新河岸川、川越街道の整備、野火止台地の農業振興に努めた。川越郊外の川島町に出丸(でまる)という集落がある。松平伊豆守にあやかってイズマルという村名をつけてイデマル、デマルと転化していったと伝えられているようだが定かでない。
民政の人であり、大岡越前守、遠山金四郎のように時代劇の主役になるキャラではない。五代将軍綱吉の側用人で献上妻で出世したといわれる牧野成貞、綱吉から拝領妻を下げ渡され出世したと巷でいわれた柳沢吉安のような存在でもない。田沼意次のように賄賂で有名ではない。酒を飲まず、ゴルフやギャンブルやクラブ通いもせずに人付き合いも悪かったらしい。ただ真面目に政務を行っていたという。
臨済宗妙心寺派「金鳳山平林禅寺」の総門の脇から入山。山門、中門をくぐり本堂を参詣して左側から散策路に。
ここからは国の天然記念物、クヌギ、コナラの繁る13㌶の武蔵野の雑木林です。
見性院の供養塔・・・宝篋印塔(武田信玄の娘、穴山梅雪の正室)。
野火止用水の支流平林寺堀が平林寺境内のほぼ真ん中を東西に。
初代川越藩主松平伊豆守信綱の墓・・・五輪塔(埼玉県指定史跡)、脇に正室の墓。大河内松平家代々の墓。
野火止用水の支流平林寺堀が平林寺境内のほぼ真ん中を東西に。
初代川越藩主松平伊豆守信綱の墓・・・五輪塔(埼玉県指定史跡)、脇に正室の墓。大河内松平家代々の墓。
※見性院(?~1622年)・・・甲斐の武将武田信玄の二女、武田親族の筆頭穴山梅雪の正室。梅雪は信玄死後、家康方につき本能寺の変のとき大阪にいた家康と伊賀越えを計ったが途中で横死(自決とも一揆軍に襲撃されたともいわれる)。武田家滅亡のあと家康に庇護されて江戸城内北の丸で余生を過ごした。二代将軍徳川秀忠の庶子(後の会津若松藩主、四代将軍家綱の補佐役保科正之)を養育したことで知られる。墓所は武州安達郡大牧村(現さいたま市東浦和)の清泰寺。
なぜ見性院の供養塔が平林寺にあるか。もとは岩槻にあった供養塔です。1590年秀吉の小田原攻めの際、支城である岩槻城も落城。平林寺は戦火で荒廃、家康は1592年駿河臨済時から鉄山禅師を招き平林寺の再興を計りました。家康と穴山梅雪との関係、鉄山禅師の出自が甲斐国武田家の家臣であったことから見性院の供養塔を建立されたといわれています。
※野火止用水・・・1653年江戸幕府は江戸市中の生活用水のために武州多摩郡羽村から取水して四谷大木戸まで43km、そこから木樋によって江戸市中に配水した江戸時代最大のライフラインの玉川上水の開削を行った。この水普請の総奉行が松平信綱。信綱はこの功績により、玉川上水の水を分水して現在の立川、小平、東村山、東大和、東久留米、清瀬、新座、志木、朝霞の地を潤すための用水開削を願出て許可され、1655年立川市小平(現幸町)から志木市新河岸川まで25㎞の野火止用水堀を開削。関東ローム土の堆積地、保水力なく不毛の地であった野火止台地は用水完成後、武士、農民の入植により農地が開発されていった。
人々はこの用水を「伊豆殿堀」と呼んだという。
野火止用水は1950年代までは人々の生活用水としても使われ、子どもたちの水遊び場でもあったという。やがて都市化の波にうずもれて、いまは昔年の面影を見ることはできない、清流復活が待たれる。
※松平信綱(1596~1661年)・・・三河以来の譜代武士、関東郡代伊奈忠次の配下の代官大河内家の長男として武州小室(現伊奈町)で生まれた? 下級武士の家柄であったため叔父の長沢松平家(相模国玉縄藩主)の養子になり、三代将軍家光の幼少時代の小姓として仕え、大河内松平家を興した。米三人扶持からはじまり出世を重ね、75000石の大名、幕府老中首座、四代将軍家綱の補佐役にまで出世した異例の有能官僚。幕府体制の職制の整備、島原の乱の総大将、慶安の乱、明暦の大火などの対応で知られる。川越藩の経営では城下町、新河岸川、川越街道の整備、野火止台地の農業振興に努めた。川越郊外の川島町に出丸(でまる)という集落がある。松平伊豆守にあやかってイズマルという村名をつけてイデマル、デマルと転化していったと伝えられているようだが定かでない。
民政の人であり、大岡越前守、遠山金四郎のように時代劇の主役になるキャラではない。五代将軍綱吉の側用人で献上妻で出世したといわれる牧野成貞、綱吉から拝領妻を下げ渡され出世したと巷でいわれた柳沢吉安のような存在でもない。田沼意次のように賄賂で有名ではない。酒を飲まず、ゴルフやギャンブルやクラブ通いもせずに人付き合いも悪かったらしい。ただ真面目に政務を行っていたという。
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