[編集]
タレント政治家については、明確な定義があるわけではない。
タレント業を生業としている者(芸能人)だけについてそう呼ぶ場合もあれば、単にメディアを通じて高い知名度があるという理由でタレント政治家と呼ばれる場合もある。メディアを通じて高い知名度があった場合には学者・作家・芸術家といった文化人や、スポーツ選手、ジャーナリスト、特に放送局の社員であって厳密にはタレントには含まれないはずのアナウンサーや記者出身の政治家などについてもそのように表現されることもある。日本においてはテレビの普及以降高橋圭三・宮田輝・田英夫・秦豊・畑恵・黒岩祐治・丸川珠代・杉尾秀哉などアナウンサー・ニュースキャスター出身の政治家は増えている。彼らはメディアを通じて自身の諸活動が大衆に認知されている、というよりメディア自体が職場であった者であるが、いずれもメディアにおいて仕事をしてきた結果メディアを通じて高い知名度を得ている。またメディア側の変質もあり(高橋圭三や秦豊は放送局退社後もフリーアナウンサー・司会として長くメディアにおいて活動していた人物であり、芸能人や文化人的な一面も備えた存在であった)、選挙時にはアナウンサー出身者もタレント候補として扱われるようになっていった。
個人として高い知名度を持つタレントは、選挙のための広報活動を行わなくとも有権者に認知されるため、選挙活動においては有利に働くこともある。たとえば作家・タレントとして高い知名度を持っていた青島幸男は、選挙公報作成と政見放送録画を除いて当人や秘書や支援者は一切の選挙運動を行わなかったが、それでも毎回当選していた。
政党がタレントの擁立に走る背景としては、短期間の選挙運動で大量の得票ができるタレント候補は、選挙戦術上有効であるということや、選挙演説などで党の広告塔的役割を担ってもらうことができるということなどがある。一方で政治に関する経験や知識の少ないタレントが立候補するとの批判、および政党・政治団体がタレントを立候補させることを有権者から集票するための安易な客寄せに過ぎないとの批判がしばしば行われるが、職業差別に過ぎないとの反論もある。最終的には有権者の判断次第、というのが大方の見方である。
前述のようにタレント政治家と呼ばれる政治家(あるいは候補者)には文化人やアナウンサー、あるいはタレント業を職業とするものであっても政治に関し専門的に学んだ者も含まれている。
タレント政治家の中には自らをタレント政治家と扱われたり、知名度のみで当選したとされたりすることに不満を持つ場合も少なくない。そのため選挙の際にはマニフェストなど政策の具体性を強調したり、親族あるいは友人や師弟関係にある者その他の交友の深いタレント(あるいは著名人)が応援演説を申し出てきてもあえて断ったりして、自らがその他のタレント政治家とは一線を画するとする戦術を採ることも多い。
日本での歴史[編集]
作家やタレント等、他分野での高い知名度を持つ議員は帝国議会創設間もない時期からおり、小説「佳人之奇遇」で知られる東海散士は1892年の第2回総選挙から8回連続当選している。1908年の第10回衆議院議員総選挙に、日露戦争で対露強硬論を唱え「バイカル博士」として大衆的人気を集めた東京帝国大学教授の戸水寛人が出馬、当選している。ただし、当時の帝大教授のステータスを考えれば現在の学者出身タレント議員とは同列に出来ない面もある(当時の貴族院には帝大や帝国学士院会員の任命枠があった。また戸水は法学博士であり他の学問と比較すると政治と距離が近い)。政治講談で知られる伊藤痴遊は政治活動を開始した後に講談師となったが、東京市会や第16回衆議院議員総選挙、第18回衆議院議員総選挙で当選している。
1898年の第5回総選挙と第6回総選挙に芸術家の川上音二郎、1915年の第12回衆議院議員総選挙に歌人の与謝野鉄幹、1928年の第16回衆議院議員総選挙に作家の菊池寛らが立候補しているが、いずれも落選している。また貴族院議員の中には、画家の黒田清輝、「虎狩りの殿様」で著名となった徳川義親など、高い知名度を持ち、現在ならタレント議員と目されたような人物が幾人か存在した。前記の戸水寛人と並んで帝大七博士として有名になった小野塚喜平次も、帝国学士院枠で貴族院議員になっている。ただし徳川義親と黒田清輝は継承した爵位による就任であり、個人の声名のみで議員となったわけではない(徳川は侯爵議員なので本人の能力にかかわらず議員の地位は約束されていた。黒田は子爵議員)[1]。終戦後も貴族院では、ジャーナリストの長谷川如是閑、作家の山本有三や武者小路実篤といった有名人が勅選議員に任じられている。
1946年、戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松が、一般的にはタレント議員第一号と言われている[2]。ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人代議士」と形容された。この年の選挙には作家の石川達三と元横綱男女ノ川登三(立候補時は本名の坂田供次郎)が立候補しているが、いずれも落選している。男女ノ川の伝記を書いた川端要壽は、「今の選挙なら、男女ノ川や石川ほどの知名度があればまず当選していただろう。時代が悪かったともいえるし、国民が真面目だったともいえる」と書いている[3]。
「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。政治家藤山愛一郎の親族であったとはいえ、選挙前までは全く政治活動に関わっておらず、政治的な発言も無かった藤原がそれまでに例のない大量得票をしたことは社会に大きな印象を与えた。また藤原は当選時前夫藤原義江とは既に離婚しており、「藤原あき」は芸名(通名)であった。従って参議院では当時の規則により本名の「中上川(なかみがわ)あき君」と呼ばれた。タレント候補は選挙時には芸名を使用できるが、ひとたび議員となれば参議院内では本名で活動しなければならないという規則が存在していることが広く知られるようになり、タレント議員の特徴の一つとして認識された。
こうしたことから藤原は「タレント議員のはしり」と言われるようになり、またこれ以後タレント議員というマスコミ用語が定着、現在のような意味合いで使用される表現となった。
日本国憲法下で参議院が誕生し、1980年まで参議院選挙には全国区制があったため、知名度のあるタレントが議員になりやすい傾向があり、1960年代から1970年代にかけてタレント議員が急増すると、「芸能院」と揶揄されることもあった。
1968年参議院選挙では、自民党から作家の石原慎太郎が300万票を超える大量得票でトップ当選したほか、社会党からNHK記者の上田哲、無所属で放送作家・テレビタレントの青島幸男、漫才師の横山ノックが初当選。
1971年参議院選挙でも、社会党からニュースキャスターの田英夫、女優の望月優子、自民党から歌手の安西愛子、無所属で落語家の立川談志、放送作家・テレビタレントの野末陳平(繰り上げ当選)らが当選する。
1974年参議院選挙では、自民党からNHKアナウンサーの宮田輝、女優・テレビタレントの山東昭子、経済評論家の斎藤栄三郎、女優の山口淑子、社会党からニュースキャスターの秦豊、無所属では漫才師のコロムビア・トップらが初当選を果たした。これらの中には、山東昭子が日立グループ、宮田輝がトヨタグループからの全面的な支援をうけていたように、組織型選挙のいわば広告塔的な役割を果たしていたものも多い。
1977年参議院選挙でも、自民党から女優の扇千景、無所属でテレビ司会者の八代英太、元NHKアナウンサーの高橋圭三らが当選している。
1983年に参議院選挙の全国区制が廃止・比例代表制厳正拘束名簿式が導入された。この制度では個人名での投票が認められないため、タレント候補の擁立は下火となる(1989年の参院選では、スポーツ平和党から出馬したプロレスラーのアントニオ猪木が「猪木」「猪木党」という票をすべて無効票とされ最下位当選となったことがある)。
2001年から個人名でも投票できる比例代表制非拘束名簿式に改定されたため、知名度による集票力を見込んで政党がタレント候補を擁立するケースが再度注目されるようになった。
非拘束名簿式になって初めての選挙となった2001年参議院選挙では、多くの政党がタレント候補の擁立に走り、舛添要一、大仁田厚(以上自民党)、田嶋陽子(社民党)、大橋巨泉(民主党)らが比例区で当選を果たした。 また、自由連合が政治経験が全くないタレント候補を大量に擁立したが、当選者を出すことができなかった。当選を果たした大橋・田嶋が短期間で辞職したこともあり、安易なタレント擁立に対する批判が強まった(ただし、田嶋の議員辞職は神奈川県知事選挙立候補という理由がある)。この選挙時の自由連合の代表であり、タレント擁立の当事者であった徳田虎雄は、「二世議員より苦労して一流になったタレントのほうがまし」という反論をしている(ただし、徳田が引退した際には子息の徳田毅が後継者になっている)。またスポーツ紙ではスポーツ選手を含めたタレント候補は選挙活動中の動向について、他の候補よりも記事として掲載されやすい傾向がある[4]。選手以外では1964年東京五輪で女子バレーが金メダルを獲得したときの監督である大松博文、「日本レスリングの父」八田一朗も議員経験がある。
その後も自由連合のような極端な事例こそないものの、参院選の比例区を中心としたタレントの擁立は続いた。
2004年参議院選挙では神取忍(自民党・繰り上げ当選)、竹中平蔵(自民党)、荻原健司(自民党)、山谷えり子(自民党)、喜納昌吉(民主党)、白眞勲(民主党)、浮島とも子(公明党)が当選。
2007年参議院選挙では丸山和也(自民党)、義家弘介(自民党)、青木愛(民主党)、横峯良郎(民主党)、田中康夫(新党日本)が当選。
2010年参議院選挙では阿達雅志(自民党・繰り上げ当選)、堀内恒夫(自民党・繰り上げ当選)、三原じゅん子(自民党)、谷亮子(民主党)、有田芳生(民主党)、真山勇一(みんなの党・繰り上げ当選)が当選。
2013年参議院選挙では渡邉美樹(自民党)、藤巻健史(日本維新の会)が当選。
2016年参議院選挙では青山繁晴(自民党)、今井絵理子(自民党)、石井苗子(日本維新の会)が当選。
2019年参議院選挙では、須藤元気(立憲民主党)が当選するも、以下に挙げる多くのタレント候補が全員落選した。自民党の山本左近、立憲民主党の市井紗耶香、おしどりマコ、奥村政佳、斉藤里恵、白沢みき、国民民主党の小山田経子、れいわ新選組の山本太郎。
浮動票の多い都市部ではタレント候補に票が集まりやすいとされ、タレント政治家を輩出しやすいと言われている。特に大阪府ではお笑いタレントの当選が注目されることが多いため、「お笑い票」「お笑い百万票」が存在するとマスコミで表現、揶揄されることがある[5]。ただし2004年の大阪府知事選挙では江本孟紀 [6]と2019年の埼玉県知事選挙では青島健太が立候補するも落選しており、必ずしも知名度だけが当選に影響を与える理由にはならないとされる。またタレント政治家は他の都市部でも輩出し他の地域では「タレント票」として注目されることもあるが、これらの票も有権者の投票行動を客観的に調査したものではなく、組織票のような明確な根拠はない。
都市部の国政選挙では1983年に横山ノックが全国区から大阪府選挙区に転進して当選、1986年に西川きよしが参院選で初当選し3期つとめ、参議院東京都選挙区でも1986年に小野清子、1992年に森田健作、1998年に中村敦夫、2004年に蓮舫、2007年に丸川珠代、2013年に山本太郎、2016年に朝日健太郎、2019年には塩村文夏が初当選するなど、タレント候補の当選が注目された。
地方の国政選挙でも、参議院では2010年に石井浩郎(秋田選挙区)、2016年に杉尾秀哉(長野選挙区)、2019年に芳賀道也(山形選挙区)、石垣のりこ(宮城選挙区)がそれぞれ当選したほか、同年には愛媛選挙区で元アナウンサーの永江孝子[7]とローカルタレントのらくさぶろうのタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(永江が当選)。また、衆議院でも、参議院議員から転身したプロレスラーの馳浩(石川1区)や2012年の第46回衆議院議員総選挙で五輪メダリスト初の衆議院議員となった堀井学(北海道9区)などわずかながら当選例がある。なお、地方選出の国政選挙の場合は定数が1議席のみということが多く、浮動票だけでなく地元経済界や労働組合などのバックアップを受けた組織型選挙を展開することも多い。
地方選挙においてもタレント政治家が当選を果たすことも少なくない。地方のタレント政治家の例としては、
首長では美濃部亮吉(東京都知事。元参議院議員)、青島幸男(東京都知事。元参議院議員)、石原慎太郎(東京都知事。元参議院議員・元衆議院議員。知事退任後再び衆議院議員)、猪瀬直樹(東京都知事)、舛添要一(東京都知事。元参議院議員)、小池百合子(東京都知事。元衆議院議員)、黒岩祐治(神奈川県知事)、横山ノック(大阪府知事。元参議院議員)、田中康夫(長野県知事。知事退任後参議院議員を経て衆議院議員)、東国原英夫(宮崎県知事。知事退任後衆議院議員)、橋本大二郎(高知県知事)、森田健作(千葉県知事。元参議院議員・元衆議院議員)、橋下徹(大阪府知事を経て大阪市長)、三反園訓(鹿児島県知事)、玉城デニー(沖縄県知事、元衆議院議員、元沖縄市議会議員)、平松邦夫(大阪市長)などが挙げられる。
地方議会議員では堀井学(北海道議。道議退任後衆議院議員)、追風海直飛人(青森県板柳町議、のち青森県議)、田宮謙次郎(茨城県下館市議)、田口禎則(埼玉県浦和市議・同さいたま市議を経て埼玉県議)、プリティ長嶋(千葉県市川市議を経て千葉県議)、林家とんでん平(北海道札幌市議)、三遊亭窓里(埼玉県川越市議)、土方隆司(埼玉県狭山市議)、真山勇一(東京都調布市議。市議退任後参議院議員)、青空好児(東京都世田谷区議)、須藤甚一郎(東京都目黒区議)、木村健悟(東京都品川区議)、阿部光利(東京都台東区議)、石井めぐみ(東京都国立市議)、三遊亭らん丈(東京都町田市議)、船場太郎(大阪府大阪市議)、スペル・デルフィン(大阪府和泉市議)、鳳城ひろき(兵庫県宝塚市議)、松野明美(熊本県熊本市議、のち熊本県議)などが挙げられる。
公的場面での芸名(通名)使用[編集]
日本では国会議員は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められている(ただし、参議院議員の芸名・通名使用が認められたのは1997年の事である[8])が、国務大臣等行政府の役職に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。
このため、閣僚として入閣したタレント議員は、行政府の公文書に対しては本名で署名する事となっている。例えば、元参議院議員扇千景は国土交通大臣(国務大臣)としての公文書には本名の「林寛子」で署名をしていたが、このような規定のない参議院議長としての公文書には芸名(通名)の「扇千景」で署名をしていた。
東国原英夫前宮崎県知事の場合は、選挙の際には芸名(そのまんま東)としたものの、公的には使いづらいと判断し、知事就任後は本名を用いている(政界引退後も本名で活動)。一方、知事就任後も公文書を除いて芸名を使用している(いた)例としては、横山ノック元大阪府知事(本名・山田勇)と森田健作千葉県知事(本名・鈴木栄治)の例があるが、『全国市町村要覧』では、前者は本名を掲載していたのに対し、後者は芸名を掲載している。
タレント活動[編集]
日本の場合、有名人が選挙への立候補を表明した時点で、公職選挙法や放送法の規定から派生したメディア側の自主規制により、選挙終了まで各メディアでのタレント活動ができなくなるのが一般的である。ニュースや選挙関連の番組を除いて、テレビ、ラジオへの出演はできなくなり、雑誌や新聞での連載等も中断される。
横山ノックが司会を務めた「ノックは無用!」(関西テレビ)では、選挙期間中は本人が番組を降板するのみならず、番組のタイトルも「ロックは無用!」に改題されていた。義家弘介が担当していた「ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない」(ニッポン放送)は公示期間中放送休止になっていた。
当選した場合、タレント活動を継続するかどうかはその者の判断による。議員の兼職自体が禁じられているわけではなく、他の職業の者であってもそれまでの仕事を継続する者も少なくないが、タレント政治家の場合はその仕事が世間に露出するものであることから、しばしば論議の的となる。
山東昭子が1987年に参議院環境特別委員長を務めていた時、テレビ東京のゴルフ番組「ゴルフだよ人生は」の収録で公害健康被害補償法の審議を欠席したため、政治職務よりタレント活動を優先したと非難され、委員長辞任に追い込まれた例がある。
橋本聖子は1996年に現職参議院議員としてアトランタオリンピックの自転車競技に出場している。2010年のバンクーバーオリンピックでは、国会会期中ながら日本選手団団長として現地入りした。2010年の参院選で当選した柔道選手の谷亮子は、立候補表明時に議員活動と現役選手を両立させ、次回オリンピック出場を目指すと明言し、賛否両論が巻き起こった(当選後に政治職務に専念し、次回のオリンピックに出場しないことを表明した)。一方で、同じ選挙に自民党から出馬した女優の三原じゅん子は、当選した場合は女優を引退すると表明し、これを受けて、当選後は各メディアでは「元女優」などと表記されている(ただし例外として2011年3月に放送されたテレビドラマシリーズ「3年B組金八先生」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した)。
プロレスラーではアントニオ猪木がスポーツ平和党を結成し第15回参議院議員通常選挙に比例区から初当選し、馳浩は第17回参議院議員通常選挙で参議院議員となったが、のち本格的に政治家に転身することとなり衆議院に転出、プロレスラーも引退した(後に2006年8月27日に両国国技館で引退試合を行っている。ただし2017年7月26日に1試合限定で復帰)、第19回参院選では大仁田厚が比例区で出馬し当選、第20回参院選では神取忍が繰上げ当選、木村健悟(引退後)・西村修・土方隆司が第17回統一地方選挙でそれぞれの議会に立候補し初当選した。
覆面レスラーが地方議員になった場合、覆面姿のまま議会に入場しようとすると「病気などの理由を除き、帽子やコートの着用」を禁じた議会会議規則に抵触すると判断される可能性がある。過去に覆面レスラーが地方議員になった例として、ザ・グレート・サスケ(岩手県議)、スペル・デルフィン(和泉市議)、スカルリーパー・エイジ(大分市議)があるが、サスケとデルフィンは議会の別室で素顔の本人確認をすること等を条件に覆面姿の議場入場は認められたが、エイジは覆面姿での議場入場は認められなかった。
公営競技の現役選手で政界に進出した例としては、競輪選手で徳島県小松島市議である米崎賢治の例がある[9]。
世界におけるタレント政治家[編集]
国家元首となった芸能分野の出身者は、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、フィリピン大統領ジョセフ・エストラーダが知られる。レーガンは任期満了後政界を引退したが、エストラーダは大統領辞任後も政治活動を続け、2013年にはマニラ市長に当選している。また2015年10月、グアテマラの大統領選挙において元コメディアンのジミー・モラレスが当選した。2003年から2011年までカリフォルニア州知事を務めたアーノルド・シュワルツェネッガーは在職中も映画にカメオ出演するなど一定の芸能活動を続けていたが、退任後は俳優業を再開し、就任前同様に映画主演も行っている。また、クリント・イーストウッド元カリフォルニア州カーメル市長は俳優や監督を続けている。イギリスでは下院議員を務めた作家のジェフリー・アーチャーが、一旦政界を引退して文筆活動に戻った後、再び政界に復帰している。2019年ウクライナ大統領選挙では、コメディアンのウォロディミル・ゼレンスキーが出馬し当選した。スロベニアでは、コメディアン出身のマリヤン・シャレツが首相に就任、アイスランドのスタンダップコメディアンのヨン・ナールは首都レイキャビクの市長になり、アルメニアでは人気コメディアンのハイク・マルチアンが首都エレバンの市長になった[10]。
自由選挙制度が行われない体制である国家においても、政治任用によってタレントが政治的役職に就くこともある。中華人民共和国の中国人民政治協商会議には、スポーツ関係者枠や文化芸術枠が存在し、映画監督のチャン・イーモウや女優のコン・リーなどが委員になっている。また、元タレントである権力者の配偶者が、政治的な役割を果たすことも多い。フアン・ペロン夫人であったエバ・ペロン、毛沢東夫人であった江青が特に知られている。
スポーツ選手ではリベリア出身のサッカー選手であるジョージ・ウェアが2017年に同国の大統領に当選し、ブラジルのサッカー選手であるペレが1995年から3年間スポーツ大臣をつとめていた。アメリカ合衆国の元プロレスラージェシー・ベンチュラは1990年にミネソタ州ブルックリンパーク市長に当選し、1998年から2002年までミネソタ州知事を務めた。阪神タイガースで三冠王など活躍したランディ・バースはロートン市議員を経て、オクラホマ州の上院議員に当選している。元力士の旭鷲山(小結)は母国モンゴルの国民大会議議員に当選している。元力士で引退後日本でタレント活動をしていた把瑠都(大関)は、母国エストニアの国会(リーギコグ)の総選挙に出馬し、一旦は落選したものの繰り上げ当選している。
また現役のスポーツ選手が政治家となった例では、ロシアのレスリング選手であるアレクサンドル・カレリンが2000年に現職国会議員としてシドニーオリンピックのレスリング競技に出場し銀メダルを獲得したことがある。同じくロシアのフィギュアスケート選手エフゲニー・プルシェンコは2007年3月、サンクトペテルブルク立法議会議員に当選し、2011年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート男子シングルに出場し銀メダルを獲得している。しかしプルシェンコは当選後も競技続行の妨げになるとしてサンクトペテルブルク立法議会へは殆ど出席していなかったため批判の声も上がった。2014年ソチオリンピックの招致活動に地方議員として参加するなどしたものの、議会内活動はほとんどできないまま2011年12月、ソチオリンピックへの出場を目指して競技に専念し政治活動を断念する意向を表明。所属政党を離党した。翌年の任期満了をもって政界を引退している。クロアチアの格闘家のミルコ・クロコップは現職国会議員時代に試合を組んでおり、来日もしている。
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この節の加筆が望まれています。
その他[編集]
浜田幸一(元衆議院議員)や小沢遼子(元埼玉県議会議員・元浦和市議会議員)、杉村太蔵(元衆議院議員)、上西小百合(元衆議院議員)、宮崎謙介(元衆議院議員)、金子恵美(元衆議院議員)、豊田真由子(元衆議院議員)、太田房江(元大阪府知事)、横粂勝仁(元衆議院議員)のように政治家からタレント・文化人の活動を行う「元議員タレント」もいる。知名度やクリーンなイメージにより政党に起用されるタレント議員に対し、話術に長け時事問題をこなせる元議員タレントはテレビ局等より重宝される[11]。他にはタレントから政治家となり引退後大学教授となった人物に野末陳平(元参議院議員)がいる。太田房江はタレント活動を行った後に参議院議員となっている。またタレント出身でない現職の政治家でも、ゲスト出演等でタレント的な活動を行うこともある。
タレント政治家はタレント業が本来の生業であるため、政界を離れた後、芸能界やスポーツ界に復帰し活動を再開するケースも少なくなく、俳優から政界に転じた中村敦夫(元参議院議員)は政界引退後は俳優業に戻っている。前出の江本孟紀(元参議院議員)は野球解説者に復帰、東国原英夫(元宮崎県知事・元衆議院議員)はタレント業を再開、荻原健司(元参議院議員)もスキー選手・指導者となっている。横光克彦(衆議院議員)は政界進出後一旦は芸能活動を自粛、落選後再び俳優業を再開、2017年には再度政界復帰し再び芸能活動を停止するという経緯を辿っている。
落語家の立川談志が1971年参院選全国区で50人中50位の最下位当選した際、インタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」と答えた。
大相撲力士の旭道山和泰は1996年10月に第41回衆議院議員総選挙に新進党から比例区で立候補し、当選した。出馬当初は廃業届を日本相撲協会に渡したが、落選した際の配慮のために当初は保留扱いとなり、当選後に正式に廃業届が受理された。断髪式までは丁髷を結ったまま登院した
タレント政治家については、明確な定義があるわけではない。
タレント業を生業としている者(芸能人)だけについてそう呼ぶ場合もあれば、単にメディアを通じて高い知名度があるという理由でタレント政治家と呼ばれる場合もある。メディアを通じて高い知名度があった場合には学者・作家・芸術家といった文化人や、スポーツ選手、ジャーナリスト、特に放送局の社員であって厳密にはタレントには含まれないはずのアナウンサーや記者出身の政治家などについてもそのように表現されることもある。日本においてはテレビの普及以降高橋圭三・宮田輝・田英夫・秦豊・畑恵・黒岩祐治・丸川珠代・杉尾秀哉などアナウンサー・ニュースキャスター出身の政治家は増えている。彼らはメディアを通じて自身の諸活動が大衆に認知されている、というよりメディア自体が職場であった者であるが、いずれもメディアにおいて仕事をしてきた結果メディアを通じて高い知名度を得ている。またメディア側の変質もあり(高橋圭三や秦豊は放送局退社後もフリーアナウンサー・司会として長くメディアにおいて活動していた人物であり、芸能人や文化人的な一面も備えた存在であった)、選挙時にはアナウンサー出身者もタレント候補として扱われるようになっていった。
個人として高い知名度を持つタレントは、選挙のための広報活動を行わなくとも有権者に認知されるため、選挙活動においては有利に働くこともある。たとえば作家・タレントとして高い知名度を持っていた青島幸男は、選挙公報作成と政見放送録画を除いて当人や秘書や支援者は一切の選挙運動を行わなかったが、それでも毎回当選していた。
政党がタレントの擁立に走る背景としては、短期間の選挙運動で大量の得票ができるタレント候補は、選挙戦術上有効であるということや、選挙演説などで党の広告塔的役割を担ってもらうことができるということなどがある。一方で政治に関する経験や知識の少ないタレントが立候補するとの批判、および政党・政治団体がタレントを立候補させることを有権者から集票するための安易な客寄せに過ぎないとの批判がしばしば行われるが、職業差別に過ぎないとの反論もある。最終的には有権者の判断次第、というのが大方の見方である。
前述のようにタレント政治家と呼ばれる政治家(あるいは候補者)には文化人やアナウンサー、あるいはタレント業を職業とするものであっても政治に関し専門的に学んだ者も含まれている。
タレント政治家の中には自らをタレント政治家と扱われたり、知名度のみで当選したとされたりすることに不満を持つ場合も少なくない。そのため選挙の際にはマニフェストなど政策の具体性を強調したり、親族あるいは友人や師弟関係にある者その他の交友の深いタレント(あるいは著名人)が応援演説を申し出てきてもあえて断ったりして、自らがその他のタレント政治家とは一線を画するとする戦術を採ることも多い。
日本での歴史[編集]
作家やタレント等、他分野での高い知名度を持つ議員は帝国議会創設間もない時期からおり、小説「佳人之奇遇」で知られる東海散士は1892年の第2回総選挙から8回連続当選している。1908年の第10回衆議院議員総選挙に、日露戦争で対露強硬論を唱え「バイカル博士」として大衆的人気を集めた東京帝国大学教授の戸水寛人が出馬、当選している。ただし、当時の帝大教授のステータスを考えれば現在の学者出身タレント議員とは同列に出来ない面もある(当時の貴族院には帝大や帝国学士院会員の任命枠があった。また戸水は法学博士であり他の学問と比較すると政治と距離が近い)。政治講談で知られる伊藤痴遊は政治活動を開始した後に講談師となったが、東京市会や第16回衆議院議員総選挙、第18回衆議院議員総選挙で当選している。
1898年の第5回総選挙と第6回総選挙に芸術家の川上音二郎、1915年の第12回衆議院議員総選挙に歌人の与謝野鉄幹、1928年の第16回衆議院議員総選挙に作家の菊池寛らが立候補しているが、いずれも落選している。また貴族院議員の中には、画家の黒田清輝、「虎狩りの殿様」で著名となった徳川義親など、高い知名度を持ち、現在ならタレント議員と目されたような人物が幾人か存在した。前記の戸水寛人と並んで帝大七博士として有名になった小野塚喜平次も、帝国学士院枠で貴族院議員になっている。ただし徳川義親と黒田清輝は継承した爵位による就任であり、個人の声名のみで議員となったわけではない(徳川は侯爵議員なので本人の能力にかかわらず議員の地位は約束されていた。黒田は子爵議員)[1]。終戦後も貴族院では、ジャーナリストの長谷川如是閑、作家の山本有三や武者小路実篤といった有名人が勅選議員に任じられている。
1946年、戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松が、一般的にはタレント議員第一号と言われている[2]。ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人代議士」と形容された。この年の選挙には作家の石川達三と元横綱男女ノ川登三(立候補時は本名の坂田供次郎)が立候補しているが、いずれも落選している。男女ノ川の伝記を書いた川端要壽は、「今の選挙なら、男女ノ川や石川ほどの知名度があればまず当選していただろう。時代が悪かったともいえるし、国民が真面目だったともいえる」と書いている[3]。
「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。政治家藤山愛一郎の親族であったとはいえ、選挙前までは全く政治活動に関わっておらず、政治的な発言も無かった藤原がそれまでに例のない大量得票をしたことは社会に大きな印象を与えた。また藤原は当選時前夫藤原義江とは既に離婚しており、「藤原あき」は芸名(通名)であった。従って参議院では当時の規則により本名の「中上川(なかみがわ)あき君」と呼ばれた。タレント候補は選挙時には芸名を使用できるが、ひとたび議員となれば参議院内では本名で活動しなければならないという規則が存在していることが広く知られるようになり、タレント議員の特徴の一つとして認識された。
こうしたことから藤原は「タレント議員のはしり」と言われるようになり、またこれ以後タレント議員というマスコミ用語が定着、現在のような意味合いで使用される表現となった。
日本国憲法下で参議院が誕生し、1980年まで参議院選挙には全国区制があったため、知名度のあるタレントが議員になりやすい傾向があり、1960年代から1970年代にかけてタレント議員が急増すると、「芸能院」と揶揄されることもあった。
1968年参議院選挙では、自民党から作家の石原慎太郎が300万票を超える大量得票でトップ当選したほか、社会党からNHK記者の上田哲、無所属で放送作家・テレビタレントの青島幸男、漫才師の横山ノックが初当選。
1971年参議院選挙でも、社会党からニュースキャスターの田英夫、女優の望月優子、自民党から歌手の安西愛子、無所属で落語家の立川談志、放送作家・テレビタレントの野末陳平(繰り上げ当選)らが当選する。
1974年参議院選挙では、自民党からNHKアナウンサーの宮田輝、女優・テレビタレントの山東昭子、経済評論家の斎藤栄三郎、女優の山口淑子、社会党からニュースキャスターの秦豊、無所属では漫才師のコロムビア・トップらが初当選を果たした。これらの中には、山東昭子が日立グループ、宮田輝がトヨタグループからの全面的な支援をうけていたように、組織型選挙のいわば広告塔的な役割を果たしていたものも多い。
1977年参議院選挙でも、自民党から女優の扇千景、無所属でテレビ司会者の八代英太、元NHKアナウンサーの高橋圭三らが当選している。
1983年に参議院選挙の全国区制が廃止・比例代表制厳正拘束名簿式が導入された。この制度では個人名での投票が認められないため、タレント候補の擁立は下火となる(1989年の参院選では、スポーツ平和党から出馬したプロレスラーのアントニオ猪木が「猪木」「猪木党」という票をすべて無効票とされ最下位当選となったことがある)。
2001年から個人名でも投票できる比例代表制非拘束名簿式に改定されたため、知名度による集票力を見込んで政党がタレント候補を擁立するケースが再度注目されるようになった。
非拘束名簿式になって初めての選挙となった2001年参議院選挙では、多くの政党がタレント候補の擁立に走り、舛添要一、大仁田厚(以上自民党)、田嶋陽子(社民党)、大橋巨泉(民主党)らが比例区で当選を果たした。 また、自由連合が政治経験が全くないタレント候補を大量に擁立したが、当選者を出すことができなかった。当選を果たした大橋・田嶋が短期間で辞職したこともあり、安易なタレント擁立に対する批判が強まった(ただし、田嶋の議員辞職は神奈川県知事選挙立候補という理由がある)。この選挙時の自由連合の代表であり、タレント擁立の当事者であった徳田虎雄は、「二世議員より苦労して一流になったタレントのほうがまし」という反論をしている(ただし、徳田が引退した際には子息の徳田毅が後継者になっている)。またスポーツ紙ではスポーツ選手を含めたタレント候補は選挙活動中の動向について、他の候補よりも記事として掲載されやすい傾向がある[4]。選手以外では1964年東京五輪で女子バレーが金メダルを獲得したときの監督である大松博文、「日本レスリングの父」八田一朗も議員経験がある。
その後も自由連合のような極端な事例こそないものの、参院選の比例区を中心としたタレントの擁立は続いた。
2004年参議院選挙では神取忍(自民党・繰り上げ当選)、竹中平蔵(自民党)、荻原健司(自民党)、山谷えり子(自民党)、喜納昌吉(民主党)、白眞勲(民主党)、浮島とも子(公明党)が当選。
2007年参議院選挙では丸山和也(自民党)、義家弘介(自民党)、青木愛(民主党)、横峯良郎(民主党)、田中康夫(新党日本)が当選。
2010年参議院選挙では阿達雅志(自民党・繰り上げ当選)、堀内恒夫(自民党・繰り上げ当選)、三原じゅん子(自民党)、谷亮子(民主党)、有田芳生(民主党)、真山勇一(みんなの党・繰り上げ当選)が当選。
2013年参議院選挙では渡邉美樹(自民党)、藤巻健史(日本維新の会)が当選。
2016年参議院選挙では青山繁晴(自民党)、今井絵理子(自民党)、石井苗子(日本維新の会)が当選。
2019年参議院選挙では、須藤元気(立憲民主党)が当選するも、以下に挙げる多くのタレント候補が全員落選した。自民党の山本左近、立憲民主党の市井紗耶香、おしどりマコ、奥村政佳、斉藤里恵、白沢みき、国民民主党の小山田経子、れいわ新選組の山本太郎。
浮動票の多い都市部ではタレント候補に票が集まりやすいとされ、タレント政治家を輩出しやすいと言われている。特に大阪府ではお笑いタレントの当選が注目されることが多いため、「お笑い票」「お笑い百万票」が存在するとマスコミで表現、揶揄されることがある[5]。ただし2004年の大阪府知事選挙では江本孟紀 [6]と2019年の埼玉県知事選挙では青島健太が立候補するも落選しており、必ずしも知名度だけが当選に影響を与える理由にはならないとされる。またタレント政治家は他の都市部でも輩出し他の地域では「タレント票」として注目されることもあるが、これらの票も有権者の投票行動を客観的に調査したものではなく、組織票のような明確な根拠はない。
都市部の国政選挙では1983年に横山ノックが全国区から大阪府選挙区に転進して当選、1986年に西川きよしが参院選で初当選し3期つとめ、参議院東京都選挙区でも1986年に小野清子、1992年に森田健作、1998年に中村敦夫、2004年に蓮舫、2007年に丸川珠代、2013年に山本太郎、2016年に朝日健太郎、2019年には塩村文夏が初当選するなど、タレント候補の当選が注目された。
地方の国政選挙でも、参議院では2010年に石井浩郎(秋田選挙区)、2016年に杉尾秀哉(長野選挙区)、2019年に芳賀道也(山形選挙区)、石垣のりこ(宮城選挙区)がそれぞれ当選したほか、同年には愛媛選挙区で元アナウンサーの永江孝子[7]とローカルタレントのらくさぶろうのタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(永江が当選)。また、衆議院でも、参議院議員から転身したプロレスラーの馳浩(石川1区)や2012年の第46回衆議院議員総選挙で五輪メダリスト初の衆議院議員となった堀井学(北海道9区)などわずかながら当選例がある。なお、地方選出の国政選挙の場合は定数が1議席のみということが多く、浮動票だけでなく地元経済界や労働組合などのバックアップを受けた組織型選挙を展開することも多い。
地方選挙においてもタレント政治家が当選を果たすことも少なくない。地方のタレント政治家の例としては、
首長では美濃部亮吉(東京都知事。元参議院議員)、青島幸男(東京都知事。元参議院議員)、石原慎太郎(東京都知事。元参議院議員・元衆議院議員。知事退任後再び衆議院議員)、猪瀬直樹(東京都知事)、舛添要一(東京都知事。元参議院議員)、小池百合子(東京都知事。元衆議院議員)、黒岩祐治(神奈川県知事)、横山ノック(大阪府知事。元参議院議員)、田中康夫(長野県知事。知事退任後参議院議員を経て衆議院議員)、東国原英夫(宮崎県知事。知事退任後衆議院議員)、橋本大二郎(高知県知事)、森田健作(千葉県知事。元参議院議員・元衆議院議員)、橋下徹(大阪府知事を経て大阪市長)、三反園訓(鹿児島県知事)、玉城デニー(沖縄県知事、元衆議院議員、元沖縄市議会議員)、平松邦夫(大阪市長)などが挙げられる。
地方議会議員では堀井学(北海道議。道議退任後衆議院議員)、追風海直飛人(青森県板柳町議、のち青森県議)、田宮謙次郎(茨城県下館市議)、田口禎則(埼玉県浦和市議・同さいたま市議を経て埼玉県議)、プリティ長嶋(千葉県市川市議を経て千葉県議)、林家とんでん平(北海道札幌市議)、三遊亭窓里(埼玉県川越市議)、土方隆司(埼玉県狭山市議)、真山勇一(東京都調布市議。市議退任後参議院議員)、青空好児(東京都世田谷区議)、須藤甚一郎(東京都目黒区議)、木村健悟(東京都品川区議)、阿部光利(東京都台東区議)、石井めぐみ(東京都国立市議)、三遊亭らん丈(東京都町田市議)、船場太郎(大阪府大阪市議)、スペル・デルフィン(大阪府和泉市議)、鳳城ひろき(兵庫県宝塚市議)、松野明美(熊本県熊本市議、のち熊本県議)などが挙げられる。
公的場面での芸名(通名)使用[編集]
日本では国会議員は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められている(ただし、参議院議員の芸名・通名使用が認められたのは1997年の事である[8])が、国務大臣等行政府の役職に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。
このため、閣僚として入閣したタレント議員は、行政府の公文書に対しては本名で署名する事となっている。例えば、元参議院議員扇千景は国土交通大臣(国務大臣)としての公文書には本名の「林寛子」で署名をしていたが、このような規定のない参議院議長としての公文書には芸名(通名)の「扇千景」で署名をしていた。
東国原英夫前宮崎県知事の場合は、選挙の際には芸名(そのまんま東)としたものの、公的には使いづらいと判断し、知事就任後は本名を用いている(政界引退後も本名で活動)。一方、知事就任後も公文書を除いて芸名を使用している(いた)例としては、横山ノック元大阪府知事(本名・山田勇)と森田健作千葉県知事(本名・鈴木栄治)の例があるが、『全国市町村要覧』では、前者は本名を掲載していたのに対し、後者は芸名を掲載している。
タレント活動[編集]
日本の場合、有名人が選挙への立候補を表明した時点で、公職選挙法や放送法の規定から派生したメディア側の自主規制により、選挙終了まで各メディアでのタレント活動ができなくなるのが一般的である。ニュースや選挙関連の番組を除いて、テレビ、ラジオへの出演はできなくなり、雑誌や新聞での連載等も中断される。
横山ノックが司会を務めた「ノックは無用!」(関西テレビ)では、選挙期間中は本人が番組を降板するのみならず、番組のタイトルも「ロックは無用!」に改題されていた。義家弘介が担当していた「ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない」(ニッポン放送)は公示期間中放送休止になっていた。
当選した場合、タレント活動を継続するかどうかはその者の判断による。議員の兼職自体が禁じられているわけではなく、他の職業の者であってもそれまでの仕事を継続する者も少なくないが、タレント政治家の場合はその仕事が世間に露出するものであることから、しばしば論議の的となる。
山東昭子が1987年に参議院環境特別委員長を務めていた時、テレビ東京のゴルフ番組「ゴルフだよ人生は」の収録で公害健康被害補償法の審議を欠席したため、政治職務よりタレント活動を優先したと非難され、委員長辞任に追い込まれた例がある。
橋本聖子は1996年に現職参議院議員としてアトランタオリンピックの自転車競技に出場している。2010年のバンクーバーオリンピックでは、国会会期中ながら日本選手団団長として現地入りした。2010年の参院選で当選した柔道選手の谷亮子は、立候補表明時に議員活動と現役選手を両立させ、次回オリンピック出場を目指すと明言し、賛否両論が巻き起こった(当選後に政治職務に専念し、次回のオリンピックに出場しないことを表明した)。一方で、同じ選挙に自民党から出馬した女優の三原じゅん子は、当選した場合は女優を引退すると表明し、これを受けて、当選後は各メディアでは「元女優」などと表記されている(ただし例外として2011年3月に放送されたテレビドラマシリーズ「3年B組金八先生」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した)。
プロレスラーではアントニオ猪木がスポーツ平和党を結成し第15回参議院議員通常選挙に比例区から初当選し、馳浩は第17回参議院議員通常選挙で参議院議員となったが、のち本格的に政治家に転身することとなり衆議院に転出、プロレスラーも引退した(後に2006年8月27日に両国国技館で引退試合を行っている。ただし2017年7月26日に1試合限定で復帰)、第19回参院選では大仁田厚が比例区で出馬し当選、第20回参院選では神取忍が繰上げ当選、木村健悟(引退後)・西村修・土方隆司が第17回統一地方選挙でそれぞれの議会に立候補し初当選した。
覆面レスラーが地方議員になった場合、覆面姿のまま議会に入場しようとすると「病気などの理由を除き、帽子やコートの着用」を禁じた議会会議規則に抵触すると判断される可能性がある。過去に覆面レスラーが地方議員になった例として、ザ・グレート・サスケ(岩手県議)、スペル・デルフィン(和泉市議)、スカルリーパー・エイジ(大分市議)があるが、サスケとデルフィンは議会の別室で素顔の本人確認をすること等を条件に覆面姿の議場入場は認められたが、エイジは覆面姿での議場入場は認められなかった。
公営競技の現役選手で政界に進出した例としては、競輪選手で徳島県小松島市議である米崎賢治の例がある[9]。
世界におけるタレント政治家[編集]
国家元首となった芸能分野の出身者は、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、フィリピン大統領ジョセフ・エストラーダが知られる。レーガンは任期満了後政界を引退したが、エストラーダは大統領辞任後も政治活動を続け、2013年にはマニラ市長に当選している。また2015年10月、グアテマラの大統領選挙において元コメディアンのジミー・モラレスが当選した。2003年から2011年までカリフォルニア州知事を務めたアーノルド・シュワルツェネッガーは在職中も映画にカメオ出演するなど一定の芸能活動を続けていたが、退任後は俳優業を再開し、就任前同様に映画主演も行っている。また、クリント・イーストウッド元カリフォルニア州カーメル市長は俳優や監督を続けている。イギリスでは下院議員を務めた作家のジェフリー・アーチャーが、一旦政界を引退して文筆活動に戻った後、再び政界に復帰している。2019年ウクライナ大統領選挙では、コメディアンのウォロディミル・ゼレンスキーが出馬し当選した。スロベニアでは、コメディアン出身のマリヤン・シャレツが首相に就任、アイスランドのスタンダップコメディアンのヨン・ナールは首都レイキャビクの市長になり、アルメニアでは人気コメディアンのハイク・マルチアンが首都エレバンの市長になった[10]。
自由選挙制度が行われない体制である国家においても、政治任用によってタレントが政治的役職に就くこともある。中華人民共和国の中国人民政治協商会議には、スポーツ関係者枠や文化芸術枠が存在し、映画監督のチャン・イーモウや女優のコン・リーなどが委員になっている。また、元タレントである権力者の配偶者が、政治的な役割を果たすことも多い。フアン・ペロン夫人であったエバ・ペロン、毛沢東夫人であった江青が特に知られている。
スポーツ選手ではリベリア出身のサッカー選手であるジョージ・ウェアが2017年に同国の大統領に当選し、ブラジルのサッカー選手であるペレが1995年から3年間スポーツ大臣をつとめていた。アメリカ合衆国の元プロレスラージェシー・ベンチュラは1990年にミネソタ州ブルックリンパーク市長に当選し、1998年から2002年までミネソタ州知事を務めた。阪神タイガースで三冠王など活躍したランディ・バースはロートン市議員を経て、オクラホマ州の上院議員に当選している。元力士の旭鷲山(小結)は母国モンゴルの国民大会議議員に当選している。元力士で引退後日本でタレント活動をしていた把瑠都(大関)は、母国エストニアの国会(リーギコグ)の総選挙に出馬し、一旦は落選したものの繰り上げ当選している。
また現役のスポーツ選手が政治家となった例では、ロシアのレスリング選手であるアレクサンドル・カレリンが2000年に現職国会議員としてシドニーオリンピックのレスリング競技に出場し銀メダルを獲得したことがある。同じくロシアのフィギュアスケート選手エフゲニー・プルシェンコは2007年3月、サンクトペテルブルク立法議会議員に当選し、2011年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート男子シングルに出場し銀メダルを獲得している。しかしプルシェンコは当選後も競技続行の妨げになるとしてサンクトペテルブルク立法議会へは殆ど出席していなかったため批判の声も上がった。2014年ソチオリンピックの招致活動に地方議員として参加するなどしたものの、議会内活動はほとんどできないまま2011年12月、ソチオリンピックへの出場を目指して競技に専念し政治活動を断念する意向を表明。所属政党を離党した。翌年の任期満了をもって政界を引退している。クロアチアの格闘家のミルコ・クロコップは現職国会議員時代に試合を組んでおり、来日もしている。
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この節の加筆が望まれています。
その他[編集]
浜田幸一(元衆議院議員)や小沢遼子(元埼玉県議会議員・元浦和市議会議員)、杉村太蔵(元衆議院議員)、上西小百合(元衆議院議員)、宮崎謙介(元衆議院議員)、金子恵美(元衆議院議員)、豊田真由子(元衆議院議員)、太田房江(元大阪府知事)、横粂勝仁(元衆議院議員)のように政治家からタレント・文化人の活動を行う「元議員タレント」もいる。知名度やクリーンなイメージにより政党に起用されるタレント議員に対し、話術に長け時事問題をこなせる元議員タレントはテレビ局等より重宝される[11]。他にはタレントから政治家となり引退後大学教授となった人物に野末陳平(元参議院議員)がいる。太田房江はタレント活動を行った後に参議院議員となっている。またタレント出身でない現職の政治家でも、ゲスト出演等でタレント的な活動を行うこともある。
タレント政治家はタレント業が本来の生業であるため、政界を離れた後、芸能界やスポーツ界に復帰し活動を再開するケースも少なくなく、俳優から政界に転じた中村敦夫(元参議院議員)は政界引退後は俳優業に戻っている。前出の江本孟紀(元参議院議員)は野球解説者に復帰、東国原英夫(元宮崎県知事・元衆議院議員)はタレント業を再開、荻原健司(元参議院議員)もスキー選手・指導者となっている。横光克彦(衆議院議員)は政界進出後一旦は芸能活動を自粛、落選後再び俳優業を再開、2017年には再度政界復帰し再び芸能活動を停止するという経緯を辿っている。
落語家の立川談志が1971年参院選全国区で50人中50位の最下位当選した際、インタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」と答えた。
大相撲力士の旭道山和泰は1996年10月に第41回衆議院議員総選挙に新進党から比例区で立候補し、当選した。出馬当初は廃業届を日本相撲協会に渡したが、落選した際の配慮のために当初は保留扱いとなり、当選後に正式に廃業届が受理された。断髪式までは丁髷を結ったまま登院した