小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

新富裕層なるものを考える:

2013年08月20日 | 映画・テレビ批評
新富裕層なるものを考える:
国策による新富裕層なるものが出現して以来、瞬く間に、国境を超えて、グローバリゼーションとIT技術と金融の融合化に伴い、自国の富が、さまよえるオランダ人ではないが、租税の低い国へと、或いは、タックス・ヘブンを求めて、今や、ヒト・モノ・カネが、一緒に、海外へと移動し始めていると謂われている。OECDによる国際的な租税条約の情報の共有化対策も始まったばかりであるものの、まだまだ、その効果たるや、及ぶところではない。むしろ、世界第二の富裕層のいる日本を狙って、ますます、海外移住の甘い誘惑は、近い将来不可避であろう増税政策のツケを今から、しっかりと対処すべく、新規起業成功者をも巻き込んで、現在進行中であるらしい。何か、ものつくりに立脚した成功者の例に較べて、どうも、この種の新富裕層なる者は、国策によって生じたようなものであるから、いまひとつ、伊集院静ではないが、「品格・品性を感じられない」とは、どうしたものであろうか?誰しもが、税金の課税額を比較する資料を見せられれば、日本とシンガポール、或いは、プエルトリコでも、どちらが、得をして、損をしているか、一目瞭然である。株式の売却益への課税無し、所得税・法人税も安いときたら、余程の「大金持ち」でない限り、祖国に住み続ける必然性が、見当たらないと言っても過言ではない。フェラーリ・クラブなる閉鎖的な親睦団体による同じ富裕層同士による情報交換で、ますます、富める者達は、富み栄え、一方、その余波で、不動産価格は、高騰し、海外からの安い移民出稼ぎ労働者に商業の機会を奪われた労働者達は、ますます、「貧困の連鎖」に陥りつつある。まるで、狐と狸の騙し合いのような関係でもあり、又、寄生虫と宿主の関係とでの言えようか、もはや、眼に見えない国家を超越した新たな国家(ロバート・フランク氏の命名したRICHISTANという言葉)の誕生とでも言えようか?デトロイトではないが、市政の財政が破綻し、公共サービスも低下し、税収がますます落ち込み、ヒト・モノ・カネ、すべて、水は低きに流れるではないが、カネは、(税率の)低きへ、海外へと流出し、賃金は上がらず、幅広い広範な層への富の再分配は、行われず、金持ちだけが、自己防衛で海外へ出て行き、出て行けない弱者・貧者だけが、そこに在留・浮遊せざるを得ないという現実が、生じつつある。今や、デトロイトや夕張市だけの問題ではない。国策による新富裕層の創出というその行き着く先にあるのは、果たして、「富は、分かち合えるのか?」、完全、平等に、とまでは、謂わないが、国策によるその矛先は、今や、怒りと失望の裏腹で、フェラーリに向かうのではなくて、国家そのものにも、いつ何時、向かわないとは限らない。それは、あの成功を収めたルック・イーストを見習ったと謂われた国でも、或いは、豊になれる人間から先に、豊になれと囃し立てた鄧小平・習金平の中国でも同じであろう。自らを振り返ってみれば、両親の介護や、子供でもいなければ、きっと、海外移住でもしていたかも知れない。もっとも、独自資金がなかったからこそ、国内ではなくて、海外貿易を通じての海外での工場運営という手法と三国間水平分業を時流に沿って、行えただけの事なのであろうが、300万程度の貯金さえ積めば、簡単に、今やタイでの長期ビザも入手出来、海外移住できる今日、何が、その国に、つなぎ止め得る価値、存在理由なのであろうか?際限なき利潤の追求、富への飽くなき、終わりのない挑戦は、初期資本主義の精神と、どこかで、歯車が、狂ってしまったのだろうか?現代のマックス・ウェーバーは、出てこないのであろうか?別に、近い将来に来たるべき増税政策を前に、新富裕層でならずとも、考えさせられてしまう。カネを如何に稼ぐのか、如何に残すのか?如何に増やすのか?目減りを防ぐのか?そして、何よりも、「富は、本当に、分かち合えるのか?」と、それは、どうしたら、可能なのであろうか?100億円の豪邸を建設して、そこに済む人間の考え方は、どういうものなのであろうか?番組中では、インタビューされることは決して、なかったことは残念である。