小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

スポーツに透けて見える愛国主義とは:

2014年02月11日 | スポーツ
スポーツに透けて見える愛国主義とは:
ベルリン・オリンピックが、ナチスによる民族の祭典であったとすれば、ソチ・オリンピックとは、ロシアのプーチンの威信を懸けた一大ロシア国家の国内外へ向けての威信発揚の愛国主義的な冬の祭典なのであろうか?それにしても、スポーツというものは、或いは、オリンピックというものは、麻薬のように、知らぬ間に、ヒトをして、民族的な愛国主義者を育てるものであろう。それは、メダルの色と数とを、その個人のメダリストの名誉に帰することなく、国家や民族へと、知らぬ間に、誘うものであろう。それは、又、戦前の植民地主義時代のメダリスト達の先例をみるまでもなく、個人の名誉による属人主義ではなくて、属国主義ではなかろうか?暇だからと云っても、流石に、深夜のライブ放送を観るわけもなく、別に、身内や知り合いが競技に参加しているわけでもないから、熱烈に応援する訳でもなくて、飽くまでも、客観的に、観戦していると、どういう訳か、解説者の心なしか、気よいというか、力みという、えこ贔屓というか、アスリートへの実力以上の過大評価というものを、感じざるを得ないのは、どうしたものであろうか?それは、まるで、サッカーやプロ・ボクシングのホームでの試合に対する異常なまでの贔屓の引き倒しとでも云うようなものに似ていようか?ワールド・カップで、せいぜいが、一度ほど、フロックで、入賞したりした実績(?)を、如何にも、本当の実力とでも言いたげなようなものの云いようである。それは、まるで、客観的に、物事を見ると云うことではなくて、まるで、ある一定の結果を期待して、それも、素人目にみても、分かりそうなくらい分かりやすい法外な結果を期待して、願望がいつの間にか、一人歩きして、動き始めるかの如くであろう。そして、更に、悪いことに、厄介な民族主義と愛国主義とが、加わると、もう、まるで、太平洋戦争の時のような実力を知らぬ「大たわけ」が、マスコミにも、街頭にも、インタビューにも、堂々と踊ることになろう。まぁ、文部省のスポーツ予算配分獲得のためには、こうした世論操作も必要不可欠なのではあるのかも知れないが、、、、、、、。別にマイナーなスポーツが、悪いと言っているのではないが、それにしても、様々なマイナーな冬のスポーツがあるものである。或いは、新しいスポーツがあるものであると言った方が当たっていようか。よくまぁ、あんな急な傾斜のある坂道を下りおりて、今度は、急角度の坂道のスロープを登って、しかも、加速をつけて、障害物を乗り越えた上に、まるで、猫が空中で身体を捻るようにして、何回転もしながら、しかも、平地に、着地するのではなくて、鋭く傾斜する斜面へ、着地するとは、、、、、もう、驚き以外の何ものでもない。さすがに、スケート・ボードは、知っているが、ここに至ると、究極の曲芸というか、スポーツも極まれりという感がなくはない。アスリートの国籍とか、民族ではなくて、その個人のプロフィールなどが、もっと、詳しく、紹介されて然るべきではないか?一体、このアスリートは、どんな職業のヒトで、何を契機にして、このスポーツを選んだのか、どのようにして、この技を習得したのか?練習は、何処でしているのか?どのような練習を積んだら、こんな技が出来るのか、、、、、、、等、順位ばかりでなく、そんな競技の愉しみ方が開設されても宜しいのではないだろうか?又、採点の基準なども、今ひとつ、素人には、解りにくいところもあろうか。若い競技者が、もっと裾野が広がるような報道が望まれるところである。アスリート個人の名誉を助長するのではなく、ひたすら民族主義と国威発揚の為の過大なえこ贔屓な、過剰な期待をそそのかすような解説は、願い下げであろうかと思われるが、如何なものであろうか?オリンピックの競技解説というものは、どうも、親しんでいる野球やサッカーとは、どうも、違うような気がしてならない。