小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

緊急時での情報の受信・発信を考える:

2014年02月19日 | 社会戯評
緊急時での情報の受信・発信を考える:
緊急かどうか、クリティカルであるか、どうかと云うことは、所詮、客観的に、傍観者として、見ていたのでは理解出来ず、雪が見事に、溶けて歩道の両脇にしか、見当たらない以上、それは、決して、クリティカルであるとは、判断されず、情報の発信も、所詮は、そんな取り扱いしかされないものであることが、今回の深刻な雪害から、実感される。情報というものは、やはり、マス・メディア主導のある種どこかから、上から降ってやってくるものか、何処かに、テレビやラジオに、アクセスしない限り、得られないものなのであろうが、それは、緊急事態の場合には、全く、役に立たないことが、3.11や原発事故の情報でも、容易に理解出来よう。ことほど左様に、結局は、情報とは、FBやツイッターや、謂わば、個々人の有するある種のツールこそが、まるで、水玉みたいなもので、それらの点が、無数に、集まり集結して、クラウドのような雲になり、やがて、それが、雨になるように、情報も、個々の発信された情報が、ある種クラウドのようなネットワークの中に、集約されて、そこで、各地域の必要情報や道路・鉄道・空路情報などに、フィルターが懸けられて、そこにアクセスした人々に、今度は、必要情報が、逆流してゆくような仕組みが今こそ必要では無いだろうか?そして、常に、その情報は、リアル・タイムで、アップ・デートされて、生きた情報として、提供されなければ全く意味がない。面白いことに、国道18号線が寸断された情報がある一方で、サン・ラインは、除雪されて開通している情報があったものの、その先の18号との合流部分や、ICの普通道路との合流地点などは、どうだったのかという細かい情報は、結局、個々人によるFBのシェアーやら、ツイッターでの拡散の方が、ねずみ算式に、情報が、拡散されるという皮肉な結果になった。地方のFM放送やケーブル・テレビとか、ラジオ放送は、どのように、対応したのであろうか?少なくとも、馬鹿げた他人事のようなバラエティー番組の垂れ流しをみれば、一体、マス・メディアというものは、情報とは、如何なるものなのであろうか?真剣に考え直さなければならないであろう。標高900m程度の我が家のご近所へ、電話で確認して見たら、やっと、3日目で、除雪がなされたと、流石に、吹きだまりでは、1.5mも雪が積もっては、坂道や曲がりくねった小径や玄関から車の所にまで行くのには、匍って行かなければならないであろうことは、容易に想像出来よう。個々人の情報の発信というものは、とりわけ、能動的且つ、主体的な情報の発信、共有は、緊急時には、幾つかのメディア・ミックスがない限り、機能しないことが、イヤと云うほどわかった。又、それが、どこか、クラウドのようなネット・ワークの中で、自動的に、処理されて、欲しい情報に、すぐさま、アクセスできるそういう情報網こそが、緊急時は、改めて望まれるところである。未だに5日も経過しても、孤立している世帯が、2700世帯以上あるということに改めて驚く。車にも、こうなると、スマホの電源やネット接続が可能なように、常日頃から、武装しておかなければならないようである。それにしても、出来るヒトは未だ良いが、これが、80歳過ぎの一人暮らしのお年寄りやら、持病を抱えた人々だったら、数日でも、大変な難儀なことであろう。公務員の人達が、個人で、必死になって、情報を拡散している姿には、敬服するが、一体、地方の首長は、そうした情報の拡散を個人でも、市などの公式HPでも、やれていたのであろうか?詳しい再検証が望まれるところである。道路規制のありかたと共に、情報の受発信の在り方が、改めて、私には、考えさせられた今回の出来事であった。雪が溶けてしまった新宿の都庁の幹部と多摩の檜原村では、相当の認識の違いがあったのではないだろうか?どうやら、能動的な自主的な情報の発信こそが、緊急時は試されるし、その処理もおおいに、今後教訓として生かされなければならないであろう。やはり、緊急時には、1週間程度の食料・燃料等の確保と、共助・協働が、不可欠であろう。色々、考えさせられてしまった。